おまけ

 午後六時。
 喫茶店の営業時間が終わり、店じまいをしてから、一騎は厨房の奥から二階の住居へと上がる。引き戸の向こうからは、かすかにカレーの匂いがしている。なるほど、今日は夕飯を用意して待っていると意気込んでいたものな、と、ちいさく笑みがこぼれた。
 がらりと戸を開ければ、一騎のエプロンをして台所に立っている総士が、「おかえり」と振り返る。一年半ほど前には、彼にはすこし大きく、余っていたエプロンは、今はほとんどぴったりで、身長も一騎とほぼ変わらないほど伸びた。真っ直ぐでさらさらだった髪はすこしだけ癖が出てきて、最近ちょっと前髪の分け目も変えたせいで、妙に大人びて見える。
 高校の卒業式を終えて数日。月末には一緒に同じマンションへ引っ越すことになっている総士は、自分の部屋の荷づくりはとっくに終えて、「もう部屋には何もないから」などと言って一騎の部屋に入り浸っている。口実を自分で作ったのは見え見えで、かつて、嘘をついて――嘘というほどのものではないのだが――模試を口実に一騎に会いに来たことにうしろめたさを抱いていたこどもは、すっかり強かさを身に着けたらしい。

「カレーか、美味そうだな」
「お前のものには勝てないだろうがな」

 うしろから覗きこむと、銀色の鍋のなかでくつくつと程よく煮込まれたカレーが音をたてている。総士がこうして料理をつくるようになったのは、ひとりぐらしを始めたころからだが、一騎の家に泊まるようになってメニューは圧倒的に増えたらしい。総士は、暇があれば一騎のつくる料理のレシピをメモして、一緒に台所に立っていたものだ。勉強熱心なところは料理にも活かされている。
 一騎は鍋をかきまぜる総士の肩に頬を寄せ、うしろから抱き着くように腰に腕をまわした。

「……なんだ?」
「いや……、背が伸びたからさ、前みたいにすっぽり腕におさまらなくはなったけど、こうやって抱き着けるのもいいなぁって」
「……むかしのほうがよかったか?」
「なんでそうなるんだよ」

 総士はずっとかわいいよ、と言うと、耳が赤くなった。
 体格が変わって、おとなびても、一騎のひとつひとつの言動に慌てたり、赤くなったりするのは変わらない。総士、と、ちいさく名前を呼ぶと、おずおずと総士が顔を向ける。ほのかに染まった頬をひきよせて軽くくちびるを重ね、お互い離れがたくなる前に、「ご飯食べようか」とほほえみあった。


 ――総士はずっと、一騎に追いつきたい、一騎の迷惑にはなりたくない、対等になりたいと望んでいる。それを一騎は知っている。総士が料理をし始めたのも、「一騎の家に泊まるからには何か自分にできることはないか」と考えた結果だ。
 年の差、というものを、一騎は意識をしてはいても、総士がそれをうしろめたく感じたり、追いつこうと必死になったりする必要はないと思っている。たまたま一騎は先に生まれて、たまたま総士より七年多く生きているだけだ。学生である総士が、働いている一騎より社会的に庇護される立場なのはあたりまえのことだし、それを総士が負い目に感じる必要もない。都度つど、一騎はそう総士に言ってきて、最近は、総士も一騎にすなおに甘えるようになった。
 総士が一騎の家に泊まるようになったころには、一騎から、総士の両親にそのことは伝えてある。総士が一騎との関係を「親に隠す」ようなものだと感じることだけは、あってはならないと思ったからだ。
 あの日。あの雨の夜、理由がなくても、会いに来ていい存在になりたいと、そう言った総士のことを、一騎はまもりたいと思った。今までよりもずっと、総士がなんの憂いもなく、うしろめたさもなく、ただおもいのままに一騎の腕のなかにいてくれるように、自分にできることは何でもしようと思ったのだ。
 総士は一心に一騎をもとめてくれる。一騎がそばにいるのがうれしいと言う。けれど、そのことに救われているのは、一騎のほうだ。ちいさな島で、自分だけを頼ってくれるちいさなおさない手に、この子のために生きられたらいいのにと思ったのはきっと――一騎のほうが、先だったのだから。



「……そういえば、新しい部屋のベッドはふたつなんだよな」
「なんだ、いまさら」

 夕飯も片付けも風呂もすませて潜りこんだひとつの布団のなかで、呼吸が触れるくらいにくっついて、一騎はぽつりと言った。先のことも考えて、生活時間帯が変わってくるであろうからと、新しい家には部屋もベッドもそれぞれにある。どのみち一緒にねむる頻度は高いだろうけれども、こうやって一枚のせんべい布団で寝るのは、もうすこしのあいだだけなのだ。ちょっとさみしいなと言うと、総士は、くすくすと笑う。

「じゃあ、今のうちに堪能しておけばいいだろう? それにどうせ、いつまでも一緒にいるのだから、ベッドに飽きたらひとつの布団にすればいい」

 そうじゃないのかと総士が言って、一騎は、きょとんとしたあと、笑って総士のうえに覆いかぶさる。

「甘えるのも誘うのも、うまくなったなぁ」
「……誰がそうさせたんだ?」

 お前しかいないだろうと総士がとろりとひとみを細める。一騎もおなじようにひとみを細め、あたたかなからだに、くちびるを寄せた。