酔っ払いは冬でもあつい

 今日はいつもより賑わっている。
 店に入ってコートを預け、柏木はぐるりと店内をみまわしながら、そう思った。
 年が明けて三が日も過ぎたころ、今年最初のコンサートを終えてセッティングされた打ち上げには、ふだんよりも大勢のメンバーが集まっていた。年末はスケジュールが詰まっていて全体の打ち上げは叶わなかったから、今日の打ち上げは忘年会と新年会を兼ねているようなところもあって、参加者が多いのだろう。楽団のホールに近く、雰囲気も良いイタリアンレストランは、広さもほどよく、クラシック好きのオーナーがやっていることもあって、たびたび打ち上げなどで使わせてもらっている店だ。今夜は店を貸し切っていて、各々が好きな席に着いて良いことになっているが、おおよそどのテーブルも、自然と同じパートメンバーで集まっているようだった。まぁそうだよな、と思いながら、柏木も自分と同じヴィオラのパートメンバーが並んでいる席についた。それが、たまたま、チェロパートと同じテーブルだったらしい。ふと顔を上げると、斜め前に、見慣れてはいるが、実際、あまり近くでまじまじと見たことはなかった男が座っていた。
 ――皆城総士。
 亜麻色の長い髪をゆるくひとつに結わい、黒いスーツを脱いで、ゆったりとしたシルエットのニットに着替えた彼は、ステージで見たときとはがらりと雰囲気を変えていた。同じチェロのメンバーと言葉を交わして、微笑みを浮かべている。


 二年前――その名を知らぬ者はない、というほど、海外で活躍していた彼が突然表舞台から姿を消し、そしてこの楽団へやって来たときには、みな、驚いたものだ。そもそもソリストであった彼がオーケストラに馴染めるのかと不安視する者もいなかったわけではないし、入団直後はどこか人を遠ざけるそぶりを見せていた彼を心配する声もあった。だが、ある時から彼は変わり、かつての音を――それ以上の音を手にして、楽団に欠かせない存在になった。
 とは言え、彼はもともとあまり人と関わるのが得意なタイプでもないらしく、こういった、楽団全体の打ち上げに顔を出すことは滅多にない。パート内ではときどき食事に行くようだから、大勢の集まる場が苦手なのだろうし、スケジュールに、そう余裕があるわけでもないのだろう。他の楽団員にも似たような者はいる。音を奏でるときには協調することが求められるが、それ以外の場において、内向的な演奏者は少なくない。
 総士は、自分のことをあまり人に話すほうでもなかった。目立つ存在であるがゆえに、そのプライベートを知りたがる者は多いが、実際に知っているものはほとんどいない。分かっているのは、彼が雑誌のインタビューで答えることくらいだ。
 いわく、静かな場所が好きなこと。珈琲が好きなこと。共に演奏家の、双子の妹がいること。そして――今は、同性のパートナーと暮らしていること。
 楽団のなかに、総士に対して「いいなぁ」と思い、その恋人というポジションを得たいと望むものは、男女問わずほどほどにいる。それはパートナーがいると公言した後も変わらない。しかし、ダメもとで告白をしたという者いわく、「僕はもう、彼以外と人生を歩む気はないので」とはっきり断られたという。当然と言えば当然なのだが、ふだんの総士からは、そんな言葉が出てきそうにはない、というところが――いわゆるギャップが、また新たなファンを獲得してしまうらしかった。


 ――まぁ、確かになぁ。
 柏木も、かつての総士の活躍は知っている。音楽家の家系に生まれて、才能と努力によって、十代のころから数々の受賞歴を築き上げてきた彼は、自分たちからすればちょっとやそっとで手の届くような相手ではない。自分を卑下するわけではないが、そもそもの土俵が違うのだ。それが、なぜか、同じ楽団の中にいるのである。しかも、驕ることもなく、周りの音を乱すこともなく、音を奏でるのがほんとうに楽しいと言わんばかりに、輪の中にいる。無愛想かと思いきや、チェロを弾いているときの彼は、すべての音が愛しいと言いたげな、豊かな表情を見せる。つい、手を伸ばしたくなってしまう、仲良くなりたい、言葉を交わしたい、彼の音に触れてみたい、と、そう考えるきもちは柏木にも理解できた。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、乾杯用のグラスが手元にまわってくる。各々がその場で立ち上がって、乾杯、の声を合図にグラスを軽くぶつけあう。ちょうど、手の届く距離だったからだろう。総士がグラスを向けてきたので、柏木はちいさく笑顔を浮かべ、シャンパンの入ったグラスをぶつけあった。

       *

「今日、わたし、絶対に聞こうって思ってたんだけど」

 メインディッシュが運ばれてきて、みなほどほどに酔いが回ったころ、向かい側のチェロパートから聞こえてきた声に、ちょうど話が途切れたところだった柏木たちは視線を向けた。見れば、声を上げた彼女だけではなく、チェロのメンバーがみな、総士のほうを向いてにやにやと笑みを浮かべている。当の総士も酔いが回っているのだろう。顔をわずかに赤く染めながら、「なんだ……」と睨むように彼らに視線を向ける。

「それ、いつから付けてる?」
「うぐ」

 それ、と、指差されたのは、総士の手だ。グラスを持っているほうではなく、テーブルになにげなく置かれている左手。今の今まで気づかなかったが、よくよく見れば、薬指にシンプルな銀色の指輪がはまっている。宝石などは何もついていない、細くて、品の良いプラチナの指輪だ。演奏にも支障がなさそうな――と、そこまで考えたところで、近くのテーブルからも「俺もそれ思った」「わたしも」と声が上がって、一気に総士は注目の的になってしまった。
 総士は今までそのような装飾品は一切身にまとっていなかった。何らかの意味があるのか。いや待て――左の、薬指?
 酔っぱらった頭で答えに辿りつき、はっと柏木も視線を向けると、総士がアルコールのせいではなく、顔を真っ赤にして視線をそらしている。

「そ……、そこまで、気にするものでは、ないだろう」
「そりゃあ、皆城くんのプライベートを根掘り葉掘りする気はないよ。でも目についちゃったんだもの」
「それ、ちゃんとお前のこと考えて作ってあるんだろう。それくらい細ければチェロ弾くのにも困らないし」
「やっぱり“かずき”さん?」

 ううう、と、総士が唸った。おそらくチェロのパートメンバーは、総士のパートナーのことをいくらか知っているのだろう。総士も聞かれるのが嫌だというのではなく、単に、口にするのが恥ずかしいだけのようだ。暫く唸ったあと、「きみ、が、」と、最初に口を開いた女性のほうを向いた。

「わたし?」
「……きみが、数か月前から、指輪をしているだろう」

 彼女は彼女で、つい最近、パートナーと結婚したのだということを、柏木は知っていた。確かに、そのころから総士と同じように左手の薬指に指輪をつけている。

「あいつはチェロのメンバーばかりよく見ているから……、演奏会で、きみがいつもと違うのに気づいたらしい。それで……、指輪っていいな、と、言い出して……」
「クリスマスコンサートの時はしてなかったし、もしかして誕生日プレゼント、それだったの?」
「……」

 もう言葉にするのは限界だったのだろう。こくり、と、総士が頷いて、はあぁぁ、と、パートメンバーが一気に息を吐いた。こちらまで顔が緩んでしまう。なんというか、面映ゆい。話を聞いていた周りの全員が、「ああ……」「なんでこんなににやけるんだろう」「むり、絶対いま顔赤い」とあてられている。その気持ちはわかる。口数が少なく、あまりプライベートを語らない総士の口から語られる“恋人”の話は、あまりにも――あまりにも破壊力が大きい。
 総士の音が、変わった理由。それは同居しているパートナーによるものなのではないか、というのは、一部のあいだで噂されていた。これは本当にそうなのかもしれないな、と、思う。
 総士は「もういいだろう」と、新しくグラスにそそいだワインをがつがつと飲んでいる。照れ隠しだろう。「あんまり一気に飲むんじゃないぞ」と思わず柏木が口を出せば、「わかっている」と若干呂律のあやしい声が返ってきた。それがおかしくて笑っていると、さきほどの女性が、「皆城くん、“かずき”さん、だいすきなんだよねぇ」とグラスをまわしながら、ふふ、と笑った。

「あんまり夜の飲み会に行かないのも、こういうところ苦手っていうのもあるんだろうけど、家で彼のご飯が食べたいからなのよ」
「たまに昼に手製の弁当持ってくるんだけど、ちょっと味見させてもらったら、確かにめちゃくちゃ美味いんだよなぁ」
「地方公演のときに皆城くんが持って来てるお菓子、知ってる? あれもお手製みたい」

 口々に、だいすきなんだねぇ~、と、言われた総士が、「そうだがなにかもんだいがあるか!」と完全に呂律のまわっていない声で言った。


        *


 外に出て、柏木はぶるりと肩を震わせた。酔っぱらていた頭が寒さですこし冴えてくる。

「皆城くん、お迎え呼んだ?」
「よんだ……」

 背後では、すっかり酔い潰れた総士が店の前のベンチに座り込んでいる。まだ店の中で飲んでいるものもいるが、チェロとヴィオラのメンバーは総士が前後不覚になったあたりでお開きとした。総士自身、楽しんではいたのだろうが、羞恥を誤魔化すためにふだんよりもハイペースで飲んでいたのだろうし、その原因は話題を作った自分たちにある。責任もって送って行こうかと申し出たが、家が近く、すぐに“かずき”が迎えにくるから大丈夫だと言われた。

「ごめんな、皆城」

 言いたくないことを言わせたのではないか、無理に飲ませてしまったのではないか、と思ってつい口にした柏木に、「なんであやまるんだ」と総士がこてん、と首を傾げた。

「ぼくはたのしかった。その……、あまり、じぶんからはなすのは、うまくない、から、たすかるんだ。みんなが、はなしかけて、くれるのは」

 ありがとう、と、総士が言うものだから、「これだからみんな皆城のこと好きになるんだよなぁ」と、きっといつも総士のこういった姿を見ているのであろうパートメンバーが各々総士の背を撫でさすった。そのときだった。

「――総士!」

 よく通る声が、道の向こうから響いた。街灯に照らされた道を走ってやってきたのは、総士たちと同じ年頃に見える、短い黒髪の青年だった。色彩が、なんとなく、総士とは対照的だ。そして、口を開かなければ怜悧な印象を持たれる総士とはちがって、柔らかく、甘やかなシルエットをまとっている。――なんとなく、いつかどこかで見たような気がする顔なのだが、気のせい、だろうか。
 はふはふと白い息を吐き出して店の前までやってきた彼に、「かずきだ」と、総士は自分が呼んだにもかかわらず、驚きました、と言わんばかりに目をまるくした。

「かずき、なんで、いるんだ?」
「迎えに来たんだよ。総士、お前めちゃくちゃ酔ってるだろ……。すみません、いつも……」
「いいえ、私たちがいつも飲ませてしまって、こちらこそすみません」

 パートメンバーの間では、こうして酔い潰れた総士を彼が迎えにくるのはいつものことなのだろう。かずき、と言われた彼は、「ほら、総士」とベンチに座っている総士の前に背中を向けてかがみこんだ。総士がふらふら覚束ない動きで彼の背中にもたれると、よいしょ、と、軽々と彼は総士を背負いあげた。

「んー……、かずき……、かずきだ……」
「はいはい、眠いな。帰ろうな」
「ん……」

 背負われて、ぐりぐりと彼の黒髪に顔を埋めるように懐いた総士は、そのまま安心したように、とろとろと目を閉じた。とんでもなくレアなものを見たなぁと思いながら立っていると、かずき氏は手に提げてきたらしい紙袋をひとりに渡した。その、左手の薬指には、さきほど見たのと同じデザインの指輪がおさまっている。

「これ、よかったら皆さんで分けてください。ジンジャークッキーです。生姜はあたたまるし、胃の調子も整えるので」
「わぁ、すごい。美味しそう! ありがとうございます」
「こちらこそ、いつもありがとうございます。皆さんと飲むと、総士いつも楽しそうだから……、また誘ってやってください」

 それじゃあ、と、総士を背負ったまま、ぺこりと頭を下げた青年は、やわらかく人好きのする笑顔を残して、夜道へ消えていく。家は近いというから、そのまま歩いて帰るのだろう。その背中を見送りながら、「好青年だよなぁ……」と呟いた誰かの声に、思わず柏木は頷いた。


 ――たくさんあるから、と、分け前をもらったジンジャークッキーは甘さ控えめでとても美味しかった。そして、ある雑誌に、甘すぎるものは得意ではない、と、総士が答えていたことを、柏木は翌朝、ふと、思い出したのだった。




2020.11.04 Privatter初出
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