雨音のうちがわで




 音が、きこえる。
 まどろみのなかでも、総士の持つ器官のうち、いちばん敏感であろう耳は、ちいさな音をこぼさず捉える。総士にとって、音は、なによりも近しい存在で、そしてなによりも、ままならぬ存在だった。だからこそいつまでも魅力が尽きることはなく、総士のこころは囚われ続けている。
 音はひとつではなかった。遠くきこえるのは、ざぁざぁという水の音だ。空からおちて地面を叩く水の――雨の音だった。梅雨とは名ばかりで晴れた日が続いていたけれど、今日の雨はどうも本格的な土砂降りになっているらしい。だから瞼のむこうも暗いままなのかとぼんやり思う。いつもならば、総士がこうして目を覚ますころにはカーテンが開けられて、窓から朝のひかりが入ってきているはずだった。外が土砂降りならば、朝日も出ていない。
 しかし、もうひとつの音が、それだけではないと総士に知らせていた。すぅ、すぅ、と、規則正しい呼吸の音がすぐそばでしている。総士の前髪にかすかにふれる呼気が、少しくすぐったいけれど、不快ではない。珍しいな、と、思った。総士をぎゅうっと抱き込んでいる腕のぬし――一騎は、いつも、この時間にはベッドを出ているはずだった。総士がまどろむころにはドアのむこうから食事をつくる音をひびかせているのが、常なのだ。それに、こんなふうにぴったりくっついてくるのも、珍しい。
 ――そうか、今日は、気温が下がっているのか。
 気温が上がってきたからと、薄手の寝具に変えたのはつい最近のことだ。抱きしめられているからあたたかくて気づかなかったけれど、足先が少し冷えている気がする。一騎はおそらく総士より早くいったん起きて――けれど、クローゼットから今更毛布などを持ち出してくるのも億劫で、手っ取り早く暖を取ろうとこの格好になったのだろう。いや、どちらかと言えば寒がりなのは総士のほうだから、自分が暖を取るというよりも、総士を温めてくれようとしたのかもしれない。
 それならばもう少し甘えていようと、総士は一騎の腕のなかによりいっそう潜りこみ、胸に耳を押し当てた。とくん、とくん、と、ちいさいけれど、確かな心音がきこえる。一騎とともに眠りにつくようになって初めて、総士は、ひとの心音は落ち着くものなのだと知った。誰でも構わないというわけではなく、一騎だけ、なのだろうけれど。比べる相手はいないし、これから先もいなくていい。
 雨の音、呼吸の音、心音。
 ありのまま自然な、いのちの音だけが空間に満ちている。木の深いぬくもりに抱かれながら、弦がふれあい、奏でる音とおなじように、総士の好ましく思う音だけが、ある。
 しばらくそのまま目を閉じて、心地の良いまどろみに浸っていると、んん、と、かすかに唸るような声がした。ゆっくり目を開けて顔を上のほうへ向けると、寝惚けまなこの一騎と目が合う。
「ぉ……は、よう」
 早起きが得意な一騎にしては珍しく、眠そうにとろけた声に、総士は思わずちいさく笑った。
「おはよう、一騎。今日は珍しくお前が寝坊だな」
 きっと総士より先には一度起きているのだろうけれど、そこは知らぬふりをして、総士は身を起こし、ところどころ跳ねている一騎の髪を撫でてやる。気持ちがいいのか、一騎は目を細めてされるがままだ。可愛いなと思いながら撫で続けていると、「いま、何時だ?」と一騎が口にする。ヘッドボードに置いている時計を見れば、午前六時だった。いつもなら一騎はとっくに朝の支度をしているころだが、総士は覚醒するにつれて、今日、一騎がこうしてのんびりとしている理由を思い出していた。
「そういえば、今日は楽園は臨時休業なんだな」
 喫茶楽園は数ヶ月に一度、設備点検のために臨時休業を取る。今回は、そろそろエアコンの点検と掃除をしないといけない、ということで、平日に二日間の休みを設けていた。総士もたまたまスケジュールが空いていたから――というか、敢えてそこに当たるように一騎が休みを調整したから、ふたりとも、朝はゆっくりできるのだ。
「だから、まだいいだろ、総士」
「わ、」
 布団のなかから伸びてきた手に腕をつかまれて、一騎の上に総士は倒れ込むようなかたちになった。慌てて退けようとするけれど、一騎は満足そうに笑って離してくれない。
「か、かずき、」
「そうし、あったかい」
 ふふ、と笑う声が耳にくすぐったい。思わず顔だけ起こすようにすると、すぐ近くに、ふにゃりととろけた一騎の顔がある。いつも、寝起きが良くないのは総士のほうで、まだ行くなとぐずるように一騎の腕をひくのも総士のほうで、仕方ないなとなだめるように――本当は総士だってとっくに覚醒していて、ただ甘えているだけなのだとわかっているくせに――口づけるのは、一騎のほうだった。
 今日は逆なのだ、と思う。意図的なのか、そうでないのかは分からなかったが、一騎はいつもの総士のように、まどろみのなかで戯れるのを楽しんでいる。そんな一騎を甘やかすのは、もちろん、やぶさかでは、ない。
「……そぉし」
 いつもの総士のように、一騎が、総士の袖をくいっと引いて、甘く呼ぶ。そう、いつもの総士のように。
 ――ああ僕は、こんなふうに、一騎に、寝惚けているからと自分に言い訳をしながら、甘ったるくねだっているのか。
 そう自覚するとあまりの羞恥に頭が沸騰しそうだったが、目の前の榛のひとみがうっとりと細められるのに、抗えない。そのまま顔を近づけて、少し冷えたくちびるに、自分のそれでふれる。ちいさな音をたてて離れると、満足そうな顔の一騎が、総士の頬をゆっくり撫でて、もういちど、と、ささやく。
 もういちど、が、あと何回くりかえされるのだろうかと、甘い予感に、総士はかすかにからだを震わせた。



2021.06.05
本編エピローグの寝起きのキスの話を元に書きました