1.サンダーソニア――祝福

 改札を抜けると、海のにおいがした。

 空のあおと海のあお、五月のひざしに反射する木々のみどり。
 懐かしい、という思いがまっさきに浮かび、一騎はすこし頬をゆるめた。
 つい先日まで暮らしていた街から在来線で約二時間。平日だからなのか、行き交う人々の流れはゆるやかで、おだやかだ。否、以前の街は平日だろうが休日だろうが、どこか足早に通り過ぎていくひとびとで満ちていた。それもきらいではなかったけれど、静かな場所を好む一騎にとっては、やはりこちらのほうが性に合う。
 今日からここが、一騎の住むまちだ。

 ――十年近く世話になった店を辞めて自分の店を開こうと決めたのは、ここ一年ほどのことだ。
 瀬戸内海のちいさな島に生まれた一騎は、島外の学校を出たあと、調理師免許を取って父親の旧友が営む都市部の喫茶店に雇われた。駅近く、オフィス街のなかにある店は繁盛していて常連も多く、忙しない日々を送っていた。
 島にいた頃、自営業の父親に全く家事の能力がなく、仕事で家を空ける母親が一騎に家事を託したせいか、一騎は昔から料理がすきだった。美味しいものを食べるのもすきで、自分であれこれとメニューを試すのも好んでいた。島のなかにはあまり働く場所がなかったし、おとなになって何かをしたい、という特別な夢もなく、ただ自分が得意で、なおかつ、きらいではないことを選ぼうとした結果の調理師だったのだ。
 おだやかに、なにごともない毎日を送っていたなかで、何がきっかけだったのか、店長である溝口から或る日「お前、自分の好きなように自分の店をやるってきもちはないのか?」と問われた。
 ――すきなように。
 一騎がいちばん苦手な分野だった。
 もともと「何がしたい?」と問われると言葉につまるようなこどもだった。何がしたいか――なにか、したいことが、あるはずだけれど、こころのどこかに引っかかったようになって、言葉にならない。うまく説明できなくて、結局いつも一騎は「べつに」とこたえるのが癖になっていた。
 料理をつくるのはすきだ。お客さんの笑顔を見るのもいい。けれどそれ以上の何かが、――今いる場所を離れても求めるような何かが、自分のなかに、あるだろうか。ぼんやりと考えていた一騎の脳裏には、無意識に、あおい景色がひろがっていた。
 さざ波の音。太陽のひかりを反射する水面。潮のにおい。真っ蒼な空。鳥の声。おだやかに流れる時間。
 ふるさとの風景だ。
 しずかで、おだやかで、のんびりと時間の流れるところ。海のそば。空の下。ただ一面の、あおあお
 ――ああ、そうだ、あそこに帰りたい。
 今まで、自分の店を持ちたいなどという気持ちになったことは一度もなかったし、溝口の営む店は居心地が良かった。辞めたいと思ったわけではない。ただ、あのあおの景色のなかへ帰りたいと――あそこで自分の店をやってのんびりと過ごせたなら、それはすごく、きもちのよいことだろうと、思ってしまった。
 それから一騎は自分でも驚くほどの行動力を発揮した。
 故郷の島は瀬戸内海でもほとんど孤島のようなものだったから、採算の取れるような店はむつかしい。ならばその近くで、自分の馴染みがあるまちにしよう。島には小学校までしかなかったから、中学と高校は船で島外のまちへ通っていた。島と陸にはさまれた水道、海へ迫る山肌、それに沿って建ち並んだ家々、坂道。故郷の同級生も多くが暮らしているまちだった。
 さいわいにも古くて安い物件はいくらでもあった。買い取ったのは、小さな庭のついた一軒家だった。二階建ての母屋と、一階建てのちいさな離れがあった。坂のまちはスペースが限られるから、庭付といっても、どこかのお邸のように広くて豪奢なわけではない。しかし、坂道を十分ほど登ったところにあるそれは、前に遮るものがなく、庭からも、二階からも、船の行き交う水道や、向かいにひろがっている島々がよく見え、眺望は申し分なかった。
 休みの日を利用しては通い、片づけをして、少しずつ自分でリフォームをし始めた。母屋は店として使い、ちいさな離れを自宅にしようと決めていた。もともと一騎はあまり物を持たない性質で、借りているアパートの部屋も必要最低限のものしかない。生活の場は広くなくても困らなかった。
 そしていざ、店の内装に取り掛かろうと思ったとき、どんなものを、どんなふうに配置すればいいのか――つまるところ、まったく店内のデザインについて考えていなかったことに気づいたのだった。

「一騎くんは、どんなお店にしたいの?」
 にこにこと笑顔を浮かべて言ったのは、常連の遠見真矢だった。彼女とは喫茶店に勤め出してから出逢ったが、どこかなつかしい雰囲気をまとっていて、あまり話すのが得意ではない一騎でも、気負わずに口を開くことができる相手だった。
「どんな……、っていうと……、うまく言えないんだけど……あんまり、たくさんの席はいらないかなって……。来た人が、しずかにのんびりできたら……」
「それ、一騎くんもでしょう?」
 一騎くんが、そういうところにいたいんだよね。
 見透かすように真矢が言って、一騎はすこしぎくりとした。お客さんに対して寛いでほしい、というおもいがあるのは確かだったけれど、なにより自分自身が、おちつける場所に身を置きたかったのだ。真矢はひとの感情に敏い。一騎ですら知らないこころのうちまで見えているのではないか、と、思うことが多々あった。それは決して不愉快なものではなく、わかってもらえる、という、安心感のほうが大きい。
 「きっとカノンが、こういうの得意だから相談してみようよ」と言われて、真矢と同じく常連であった羽佐間カノンも巻き込み、ふたりにほとんど内装のデザインを考えてもらった。古めかしい建物をあまり過度にはいじらず、抜けそうな床はすべて直すとしても、昔ながらの土壁や年季の入った梁や柱はそのままに、なるべく今のままの雰囲気を残すような案だった。一騎としても、溝口の喫茶店で好ましいところは、昔ながらの濃い木目の床板や煤の染みついた壁など、店の経てきた年齢を感じるたたずまいだったから、ふたりの案をそのまま活かさせてもらうことにしたのだった。
「あとは、お花かなぁ」
「花?」
 少しずつ改装した店内の現状の写真をながめながら真矢とカノンは顔を見合わせ、「色が欲しいな」とうなずきあう。
「ほら、このお店も隣のお花屋さんがたまにお花を入れ替えにきてくれるじゃない? 一騎くんのお店、空と海が見えて、緑があって……自然のなかにあるイメージだから、お花は絶対に合うよ」
「花、なぁ……」
 せっかく庭付なのだから、何か植えればいいのだろうが、あいにくと植物は育てたことがない。自分で花を選んで飾るといっても、花に特別な興味を持ったことがないし、こういったセンスについては「皆無」だと、以前、店の花をけるのを手伝ったとき、隣の花屋の西尾のおばあさんに断言されている。そうなると、溝口とおなじように、どこか、花を生けてくれる店を見つけねばならないだろう。まちに暮らす同級生のつてを頼ってもいいかもしれない。
 そうしているうちに改装の最終段階に入り、引っ越しや、その他の手続きも含めて本格的にまちに移住することになった一騎は、正式に、喫茶店を辞めた。

 ――それがつい、一週間前のことだ。
 改装がほとんど終わっている離れには、すでにいくらか荷物を送ってあった。たいした荷物も入っていないリュックだけを背負って、一騎は海側に向けて歩き出す。海と山のあいだにわずかに切り開かれた平地には、港と駅と商店街がある。その商店街のなかに、目的の店があった。
 かつては共に島で育ち、今はこのまちで医者をしている同級生――剣司から紹介してもらった花屋があるのだ。先日、引っ越し前の準備のためにまちを訪れた際に食事をし、ちいさな店でもけ込みをしてくれる花屋はあるだろうかと相談したところ、「あ~……」となんとも言えない顔をしながら提案された店だった。
「結構昔からあるんだけどさ、今は長年やってたおばちゃんが旦那の仕事の都合で海外に行っちまって、息子とその奥さんが継いでるんだ。でもそのふたりは仕入れとか外回りが多くてな、ほとんど店長みたいな立場で店にいるのが……こう……、すごく……愛想はよくないやつで……、でもな、悪いやつじゃないんだぞ! そいつ、うちの病院に生け込みに来るんだ。俺はよくわかんねぇけど、咲良も遠見先生も、花のことはよく知ってるし、選び方もすごくいい、って褒めてて!」
「愛想はべつに……、俺もよくないから気にしないけど……」
「……お前それ本気で言ってるか?」
「え?」
 自分の愛想がいい、なんてことを一騎は思ったことがない。接客も得意とは言えない。むしろ同じような部類の人間のほうが話はしやすいのではないか、と思って口にしたのだが、剣司はあきれたように息を吐き、「……たまに見る笑顔がいいって女子が群がってたの華麗にスルーしてたもんな……」などとつぶやいている。
「まぁいいや……。あいつまだうちの病院しか生け込み受け持ってないし、手は空いてるんじゃねぇかな。先に少し話しておいてやるから、次に来た時にでも、店に行ってみたらどうだ?」
「ああ、ありがとう、助かるよ。……剣司はそのひとと、知り合いなのか?」
「咲良がな、大学のゼミで一緒だったんだ。だから俺も結構一緒に飯食ったりしててさ。慣れればすげぇ良いやつだし、面白いところもあるんだけどなぁ……」
 つまり最初の印象だけで見れば、愛想が悪い、におちついてしまうということなのだろうか。一体どんなひとなのだろう。咲良や剣司と同い年ということは、一騎とも同じということになる。
 特に愛想のよさを求めてはいないけれども、話しづらいひとでなければいいな、と、すこしだけ緊張しながら一騎は商店街をすすんだ。学生時代と変わらない店も多く、一騎にとって、さほどアウェーという雰囲気はない。知り合いのいる店もあるし、食材の仕入れ先もすでに見つけている。くだんの花屋も、おそらく昔からあったのだろう。ただ一騎は、まったく興味のないものが目に入らない性質であるから、知らなかっただけなのだ。
 古い店、シャッターの降りたままの店、新しくできたばかりの店。ちぐはぐなはずなのに、まちの雰囲気にとけこんでいる景色。そのならびのあいだ、海へ続く狭い路地のすぐ際に、その店はあった。建物そのものは古いのだろうが、改装されていて、落ち着いた木のぬくもりを感じるつくりになっている。濃い色の木材が組まれた入り口には大きな窓ガラスの引き戸があって、それは開け放たれていた。店の前には整然と並べられた銀のブリキのバケツからグリーンが伸びていて、入り口より奥には、グラデーションになったように色とりどりの花々が連なっている。天井から吊るされたドライフラワーと、床から壁にならぶ生花のバランスがほどよい。花を生けるセンスが皆無だ、と言われた一騎であっても、きれいな店だ、という印象を持つような花屋だった。入り口の横に、木製で正方形の看板があり、「soleilソレイユ」と書いてある。「元の店長が日野さん、って言うんだよ。〝日〟だから、太陽にしたんだって」と剣司が言っていた。
 太陽の名を冠する店のそのなかに、愛想の悪い店長代理がいるはずだ。
 ひとと話をするのは苦ではないが、得意でもない。すこしだけ、店の前で深呼吸をして、開け放たれた引き戸のうちがわへ足を踏み入れる。
 ふわりと、かおったのは、花のにおいだ。
 踏みしめた木目の床がちいさな音を立てて、店の奥にいたひとがくるりと振り返った。
 まず目に飛び込んできたのは亜麻色だった。振り返る動きにあわせて、ふんわりと揺れる長い髪。肩口で結ばれているそれは腰に届くほどだった。モノトーンの服に紺色のショート丈のソムリエ・エプロンを纏ったからだは細い。一騎も細い細いと言われるが、同じくらいに細かった。白い肌、灰色のひとみ。一騎をとらえ、かすかにまたたいたそれに、うすく、紫のひかりが見える。夜明けの色だ。それがまっすぐ一騎をみつめる。
 ――こんなにまじまじと初対面で人を見たことなどあっただろうか。
 不躾だ、と、冷静な自分は言うものの、なぜか目が離せない。きれいなひとだった。素直に、きっと、誰もがそうおもうだろうひとだった。優劣ではなく、ただ単純に、それこそ花を見たときとおなじように、きれいだなぁ、と、素直にこぼしてしまうようなひとだ。
 おもわず立ち尽くした一騎に、彼はすこしだけ不審そうに「いらっしゃいませ」と一応、客を迎える言葉を口にした。そこではっと我に返った一騎は慌てて「あの、真壁なんですが……剣司から、生け込みの話をしてもらって……」としどろもどろに口に出す。すると、強い視線はすこしだけやわらぎ、ああ、と、合点がいったようにひとみがまたたく。
「剣司からだいたいのことは聞いています。僕は皆城総士といいます」
 そうし、と、そう剣司は呼んでいたと思い出す。ではやはり、このひとが、剣司の言う愛想の悪い店長代理なのだろう。
「はじめまして、真壁一騎です」
 名乗ると彼はひとつうなずいて、「生け込みのことですが、僕は比較的手が空いているので、おそらくお受けできると思います」とあっさり快い回答をくれた。強いまなざしにたじろいでしまったが、特に気難しいひとではないようだ。とりあえずこちらにどうぞ、と、案内されて、店の少し奥にあるソファにうながされた。すすめられるままに腰を下ろして待っていると、氷の入ったアイスコーヒーが運ばれてきた。「ミルクと砂糖は」と訊かれて「このままで」と答えると、そのまま総士というひとは一騎のむかいに座り、口を開いた。
「ここは店舗を僕ひとりが回している状態です。ふたりほど店員がいますが、ほとんど外に出ているので……生け込みができるのが、昼からの開店にしている木曜か金曜になります。週一回か、二週間に一回程度のサイクルになりますが、それでもよろしいですか?」
「それで、大丈夫です。まだ店が出来上がっていないのでなんとも言えないけど、生ける場所も多くはないと思うし――」
 なによりまだ開店直後では経営が成り立つかどうかも不透明なのだから、料金プランによっては二週に一回でじゅうぶんかもしれない。そう思いながらアイスコーヒーに口をつけた一騎は、思わず、目をまたたかせた。
「……なにか?」
 ぴたりと動きをとめた一騎を不審に思ったのだろう総士が首を傾げる。
「いや……、あの……、このコーヒーって、あなたが淹れたんですか?」
「そうですが」
 口に合わなかったなら、と、口を開きかけた総士に、一騎は慌てて両手を振って否定した。そうじゃない。そっちではないのだ。
「すごく美味いです。俺、前の喫茶店でコーヒー淹れるの任されてて、いろんなところのコーヒー飲み歩いたんですけど、これはほんとうに美味い」
 素人が淹れたとは思えない美味さだった。話をそっちのけでコーヒーに感動する一騎にぱちぱちと忙しなく目をまたたかせていた総士は、口元に手を当て、こほん、と、ちいさくわざとらしい咳をする。話を逸らしたのが気に入らなかったのだろうかと視線を向けるが、かすかに、頬が赤かった。
「……コーヒーは、すきなので……」
 ――このひとは、単に言葉と態度が生真面目すぎて、無愛想に見えているだけだ。
 褒められれば照れる素直さを見つけて、一騎は肩の力を抜いた。
「俺、コーヒーにはすごく自信があるんですよ。店の内装ができたら、中を見てもらって打ち合わせするんですよね? そのとき、よければうちのコーヒー飲んでください」
微笑みながら言えば、総士は「……そのときはぜひ」と、また、もとの真面目な顔でうなずいた。

 ひととおりの打ち合わせを終えて店を出る前に、一騎は「なにかひとつ、花を包んでもらえますか」と頼んだ。美味いコーヒーを貰った礼に何かを買いたかったのもあるし、このひとが選ぶ花を見てみたい気もしたのだ。ついでに、まだ店には花器がないので、合う花器もお願いする。
 総士は特に悩むでもなく、一騎を一度見て、すたすたと店内を歩いてバケツから何本か花とグリーンを抜くと、短く切り落とし、組み合わせ、焦げ茶の紙でていねいにくるんだ。
「これを」
 差し出されたのは、小ぶりで、ベルのようなかたちをしたオレンジの花弁がぽろぽろとなっている花を中心として、暖色の花を集めたブーケだった。あかるい色あいが、五月のひざしみたいだと思う。花に詳しくはないが、きれいだなぁと思いながら、中心になっている花を指さした。
「あの、これ、なんていう花ですか?」
「サンダーソニアです。最盛期は少し先ですが、花言葉がいいので」
「花言葉……」
「祝福、といいます」
 少し気が早いですね、と総士はあまり表情を動かさずに言った。祝福――おいわい。開店祝いとしては少し早い、と、そういう意味だ。
 一騎のことを考えたうえで花を選んでくれたのだということが嬉しくて、一騎は「ありがとうございます」と微笑んで花に顔を寄せた。かすかな、あまいかおりがする。花ってこんなにかおるものだったろうか。喫茶店に飾ってあったものは遠目に見るばかりで、こんなふうに花を抱えることなどなかったからか、ふしぎなきもちだ。
 しばらくそのままでいると、ちいさく、くすりと笑う声がした。えっ、と顔を上げると、目の前で生真面目な顔ばかりしていたひとが、苦笑とも微笑ともいえない表情を浮かべている。
「花が似合いますね」
「そ、……うですか?」
 思わず声が上ずった。
 笑うと、やわらかい顔になるひとだ。なんとも不器用な笑い方だが、真面目な無表情と比べると、ずいぶんと印象がちがう。きれいなひとは笑うとやっぱりきれいなんだな、と、小学生のような感想をいだく。
 花が似合うなんて言われたことはなかったけれども、このひとに言われるのなら、悪くない。けれども――。
 うーん、と、一騎は首をかしげ、笑った。
「ありがとうございます。でも、たぶん、あなたのほうが似合いますよ」

        *

 ――などと言ったのは、失敗とも言えず、かと言って、正解でもなかったような気がする。

 数日後、一騎は店舗用のテーブルを磨きながらぼんやり考えた。古い木材で組み立てられた四角いテーブルは一騎の手製だ。周りに廃材はいくらでもあったから、なるべく似通った色味、素材の木材を集めて、切りそろえて作った。こういうのは父が得意なので、何日か手伝いに来てもらって完成させたのだ。
 中をまじ切っていた古い襖を取り除き、十二畳ほどのひとつの部屋になった店舗には、真新しくも色は少しくすんだ床板が敷かれている。厨房には大きな冷蔵庫が搬入されていて、もう少しで店は出来上がりそうだった。まだ諸々の手続きは残っているが、二週間後のオープン予定日にはじゅうぶん間に合う。
「そろそろ連絡した方がいいよな……」
 ぽつんとつぶやいた声は誰もいない部屋にひびく。あたたかな午後のひざしが降りそそぐ店のなか、厨房との仕切りになっているカウンターには、オレンジの花が風にそよそよと揺れていた。
 花を自分で飾ったことなどほとんどないので、総士があの日みつくろってくれたガラスの花器に適当に入れただけのブーケは、もう盛りは過ぎてしまったように思える。帰り際、できれば水切りをしてください、と言われてやってはみたものの、花をもたせる、というのはむつかしいのだ。それでも、枯れてしまったわけではないし、彼が包んでくれたものだと思うと、捨てがたかった。
 ――もっと話がしてみたい。
 あまり他人にそういった興味をいだくことはなかったはずなのに、生真面目で不器用そうな表情の奥にあるあの微笑が気になって、剣司みたいに仲良くなれれば、もっといろんな顔をしてくれるのだろうかなどと考えてしまう。
 あのときもらったショップカードを見ると、今日は店の定休日だった。それならば連絡をしてもつながらない。明日、打ち合わせがしたいと言ってみよう。そう決めて、一騎は作業用のエプロンを外した。今日の作業はここまでだ。水もガスも電気もすべてがそろったので、厨房のなかに搬入された調理器具を試すついでに、今夜はいろいろと作ってみるつもりだった。まだ冷蔵庫は空っぽなので、まずは買い出しからだ。
 財布とエコバックだけポケットに突っ込んで、店を出る。ちいさな庭を横切り、手直ししたばかりの木製の門扉を開けて数段の階段を降りれば、目の前は狭い道になっていて、すこし進むと山からまちへ続く、ゆるやかな階段のある坂道に出る。まちの向こうにはすぐ海と島があって、きもちのいい風が通り抜ける。やっぱりいいところだなぁ、と、そう思って深呼吸をした一騎は、不意に、背後から聞こえた足音に振り返った。
「……あ!」
「……あ、」
 驚きで声を上げたのも無理はない。そこには、見覚えのあるあの、長い亜麻色の髪が風に揺れていた。彼――皆城総士だ。
「こ、んにちは……」
「……こんにちは」
 ――なんだろう、この間は。
 見上げた先の総士は変わらず表情の見えない顔をして、しかし、こくりと首肯しながら返事はしてくれた。まさかこんなところで会うとは思っていなかった。
「え、と、この辺りに住んでるんですか?」
 ――あ、間違ったかもしれない。喫茶店のお客さんにはなるべく個人情報につながることを聞かないようにしていたし、この人だってつい先日会ったばかりの人間に住まいを明かしたくはないだろうと、一騎は後悔する。ちいさな田舎の島で育ったせいか、どうも気安い話をしてしまいがちな癖が抜けない。そもそも話すことは苦手だから、話題を見つけるのも得意ではなく、ついこういったことを聞いてしまう。
 だが一騎のそれは杞憂だったらしい。総士はくるりと今しがた自分の来た方へ顔を向け、「あちらに住んでいるんです」と答えてくれた。一騎が出てきた小道の一段上の、向かい側だ。がっしりとした門構えが見える。引越しの挨拶をしようと何回か覗いてみたが人の気配がなく諦めた家だった。しかし、表札は皆城ではなかったような気がする。そこまではさすがに聞けず、そうなんですか、と当たり障りのない返事をした。
「俺の店、この道の先なんです。家もそこで……近くだったんですね。今まで会わなかったのが不思議なくらい」
「おそらく時間が合わなかったんでしょう。……その、店の準備はどうですか?」
 数歩の距離を縮めて隣に立った総士が躊躇いがちに聞いてくる。愛想がない、と言われていただけに、このひとも、基本的には話すことが得意ではないのだろう。それでも話を続けてくれるらしい。
「もう内装はほぼできたんです。ちょうど、明日には皆城さんに連絡しようと思ってて」
「そうですか……」
 ……間。
 会話が苦手なもの同士だとよくある間だ。どうしよう、と、思うものの、不快ではない。なんというか、これはこれで過ごしやすい空気だ。
 ――……あれ? そういえば、このひとも今からどこかへ行くんじゃないか?
 家から出て来て階段を降りていたということは、この先にある商店街かどこかを目指しているのではないだろうか。このまま会話を終わらせてしまうのは惜しいし、もしも行く方向が同じなら、ここで距離を置くのも少しおかしいだろう。
「……あの、俺、今から夕飯の買い出しに行くんですけど、皆城さんもどこかに行かれるんですか?」
 おずおずと訊いてみれば、「……僕も夕飯の買い出しに」と答えが返り、そうだ、と、一騎は思いついた。
「もしよかったら、うちに夕飯食べに来ませんか? 今から買い出しして、店で出すもの試作しようと思ってて、ひとりじゃ食べきれなくなりそうだし、こないだ、コーヒー飲んでもらう約束もしてたし……、あ、家の都合もあると思うし、無理にってわけじゃないんです。ごめんなさい、俺、田舎の島育ちだから……、つい、こういうの、気軽に誘っちゃって――」
 誘い文句を考えればかんがえるほど、自分はまだほとんど知らない相手に何を不躾なことを言っているんだろうか、という恥ずかしさと申し訳なさが募ってしまう。思わず言葉に詰まった一騎のとなりで、ふ、と、かすかに吐息の抜けるような音がした。視線をやれば、総士が口元に手を当てて、笑っている。ぽかん、と、口を開けそうになるのを耐えて、一騎はせわしなく目をまたたかせた。先日見たあの笑顔とはまたちがって、耐えきれなくて、つい噴き出してしまった、というような顔だった。
 総士はほほえんだまま、大丈夫ですよ、と、目を細める。
「僕も、田舎のちいさな島の生まれですから。それに、僕はひとりぐらしです。御迷惑でなければ、お邪魔してもいいですか」
「えっ……あっ、もちろん!」
 不審がられるのではないだろうか、と思っていた一騎にとって、それはあまりにも嬉しい返事だった。こんなことは、随分と、ひさしぶりだ。都市部に住んでいたころは、誰かを家に誘うなんてこともなかったし、知り合いをつくろうと積極的になったこともなかった。島に暮らしていたときでさえ、さほど社交的ではなかったのだ。
 あたらしい土地と生活にうかれてしまっているんだろうか。そう思いながら、一騎は総士と肩をならべて、長い階段を降りて行った。


 商店街のなかほどにある老舗のスーパーで買いこんだ食材をふたりでわけて持ち――一騎は固辞したのだが総士が譲らなかった――店に戻ると、一騎は早速、夕飯の支度にとりかかった。総士は、ちょうどいいから、と、店のなかをきょろきょろと見て回っている。もらい受けたときのまま手をつけていない床の間や、室内側の障子戸を取り払ったかわりに、庭との境にガラス戸をはめた縁側、少しだけ塗り直した土壁。総士はそれらをひととおり眺めて、迷うようにしながらカウンターの正面の四人掛けに腰を下ろした。その距離感に共感を覚える。カウンターではなんとなくまだ近すぎるのでは、と、思ったにちがいなかった。フライパンを揺らしながら「何か思いつきましたか?」と問えば、なにか考えるそぶりをしてから総士が口を開く。
「この中は真壁さんが自分で改装されたんですよね?」
「まぁ、ちょっと父さんに手伝ってもらってますけど、ほとんどは」
「では、壁にひとつ棚をつけてもらうことはできますか? このテーブルの上と、カウンターと、床の間と、玄関と、手洗い場、もうひとつできれば、花を置きたいのですが」
「それくらい、大丈夫ですよ。俺、全然どういう内装がいいとか、わかんなくて、これもほとんど前の店の常連さんに考えてもらったので、思うようにしてもらえたらいいです」
 ひとつのフライパンで挽き肉と豆をスパイスで炒めながら、オーブンで焼いている鶏肉の加減を見つつ、鍋のなかで煮立つスープをかぎまぜる。炊飯器の白米はもう少しで炊き上がりそうだ。厨房内をうろうろと歩き回りながら総士の言葉に応えていると、いつの間にか、彼は立ち上がってカウンターから覗き込むように一騎の手元を見ている。ぱちりとまたたく瞳が、今まででいちばん、こどものそれのようにまあるく見える。「どうかしました?」と首を傾げれば、「いや……」と躊躇うように呟いたあと、「すごいですね」と言葉がこぼれる。
「手際が良いなと、思って」
「もう十年以上やってるから……、あー、」
 言ったあとで、やっぱり、そろそろ、しんどいな、と、思って口を濁す。総士は一騎が何かを気に入らなかったのか、と、思ってしまったようで、すこしだけ不安そうに眉を寄せる。一騎は意を決し、「あのさ」と、今までになく、くだけた言葉を総士に向けた。
「俺、その、あんまり〝こういう〟喋り方得意じゃなくて、ふつうに喋っていいかな……」
 一騎の申し出に、総士はきょとん、と、目をまたたかせた。
 一騎は、丁寧な言葉遣いというのが、もともと、苦手なのだ。かつての勤め先でも、常連に対してはくだけた言葉遣いでゆるされていたし、むしろ彼らがそれを望んでくれていた。しかし総士とは仕事上の付き合いである。初めて自分ひとりで店を持つのだし、もういい大人なのだから、言葉遣いくらいきちんとしなければ――と思ってここまで貫いてきたが、気安く夕飯に呼んでしまった時点で、言葉遣いを保つことに無理が生じてきてしまった。なにせ同い年なのであるし、剣司のともだちなのだ。距離感をまちがえてはいけないと思ってはいるが、話し方くらいは、くだけさせてもらっても、いいんじゃないだろうか。なんとなく気まずい思いで総士の返答を待っていると、総士は何の問題があるのかとでも言いたげに「どうぞ」とあっさりうなずいてくれた。胸をなでおろした一騎は、「よかった……」とおもわず苦笑する。
「逢ってすぐそれはないだろ、って、思われるかなと、おもってた」
「よほど不躾な態度を取る人は別ですが、特にそんなこだわりはありませんよ」
「……お前もふつうに喋ってくれないか」
「……あくまでも顧客なので、」
「剣司だって客でもあるんだろ? でも、あいつには普通に喋るんじゃないのか?」
「――……、ぼ……、くは、逆に、……いきなり普通に喋れと言われても、なかなか切り替えが難しいんだ」
 はぁ、と、総士はため息を吐きながら恨めしそうに一騎を見た。こういう顔もするんだ、と、一騎はなんだかうれしくなる。
「総士、って、呼んでもいいか?」
「……構わない、が……、剣司が言っていたとおりだな」
「ん?」
 何がだ、と問えば、総士は「最初は人見知りするが、ふところに入れやすい人間だと判断すればすぐ懐くぞ、と、言われた」とカウンターに頬杖をついて言う。
「動物的直感で人を判断する、と」
「ど……、」
 なんだそれはと言い返してやりたいが、それを言った張本人はここにはいない。それに、総士に出逢って、もっと話がしてみたいとか、居心地がいいとか、そんなふうに思ったのは確かに直感だ。まだ顔を合わせて二回目なのに、すでに夕飯に気安く誘ったうえ、名前で呼ぼうとしている。今までも似たようなことは何度かあった。人との交流を積極的にしない性分だというのに、この人は大丈夫だ、と、そういう本能的な直感がどこかではたらいて、自分にとって波長の合う人に対しては、無意識に寄って行ってしまう。例えば真矢やカノンもそうだった。剣司とはもう長い付き合いだし、彼自身も、一騎にとって、島の中で気を許せる数少ない同級生のひとりなのだ。
 ううん、と、一騎が唸っていると、くすりと笑った総士が、「だからお前とは気が合うだろうと言われたんだ」と付け足すように言った。その言葉の意味が読めずに総士を見やる。初対面のときに怖気づき、しかしきれいだとおもった灰色のひとみは、いまはすこしだけゆるんでいる。ああそうだ。紫がかったそのいろは、このまちの海のむこうから、朝がやってくるときの色に似ているのだ。はじめてこのまちで朝を迎え、この坂のうえから海と島をみおろしたとき、空の端から昇る太陽が、暗闇をふちどりながらあかるい色に染めてゆく――あの空のさかいめの色がきれいだとおもった。それと似ている。
「僕も、あまり人と関わるのが得意ではない。だが、剣司のように、自然と、いつの間にか、無理なく話すことができるようになった友人はいる。それもきっと直感だったんだろう」
「……つまり、俺もその枠に入れてもらえたってことで、いいのか?」
「要検討だ」
 ――あ、こいつ、もう結構、気を許してくれてるな、と、一騎は思う。そういう冗談めいたことを真面目なふりをして言うのは、気安くない相手にはできない。一騎はくすくすと笑いながら、話しているあいだに出来上がった料理をてきぱきと皿に盛っていく。総士に、四人掛けに座るようにうながし、テーブルの上に料理を並べれば、彼のひとみがまた、おおきくまたたいた。なんとなくわかってきた。これはおどろきと、期待のまなざしだ。細身だから小食なのかと思っていたけれど、夕飯の誘いに気軽に乗ったところからしても、食べることそのものはすきなのかもしれない。
 ひき肉と豆のドライカレー、鶏のオーブン焼き、潰したトマトをたっぷり入れたスープ、焼き野菜ときのこのサラダ。いずれ店で出すランチはもっと量を少なめにしたり組み合わせたりするが、今日はたっぷりと作った。
「カレーは、本当は煮込むのが得意なんだけど、今日は時間がなかったから」
「ほう……」
 総士は目をかがやかせて、いただきます、と、丁寧に手を合わせる。出逢った日から思っていたけれど、総士は仕草のひとつひとつが丁寧で上品だ。木製のスプーンを手に取って、ひとくちぶんだけカレーをすくい、ぱくりと口にふくむ。辛いのが得意か苦手か訊くのを忘れたので、今日のはスパイスを控えめにしてある。もしも辛いものが苦手でも食べられる程度の味になっているはずだった。総士は徐々に目を見開いて、無言でふたくちめをすくう。
「……、うまい、か?」
 こくり、と、総士がうなずく。口にものをふくみながらは喋りたくないのだろう。みっつ、よっつ、とすくってから、ようやく総士は「……ほんとうにおいしい」と感想を述べた。なるほど、総士の場合、無言で黙々と食べるのが「おいしい」という意思表示らしい。覚えておこう、と、思いつつ、一騎は笑顔になる。おいしい、と言われるのは、やっぱりうれしいものだ。
「よかった」
 一騎は総士のむかいに座って、自分も、いただきますと手を合わせる。
「だれかといっしょに食べるの、久しぶりだ」
「僕もだ」
「家も近いし、また来いよ」
「……そうそう邪魔するわけには、」
「生け込みって朝早くくるだろ、なんなら、そういうときは朝飯出すよ。俺、料理するの好きなんだ。できれば誰かに食べてほしいし」
「お前……、ほんとうに態度が変わるな」
「俺は最初っから、お前とは仲良くなれそうだって思ってたよ」
 あきれたように総士がため息を吐くが、もう気にならない。こころがはずんでいる。「あと、〝お前〟じゃなくて、一騎、な」と勢いにまかせて言えば、総士が苦虫を噛み潰したような顔をした。意外に、表情豊かなやつだ。愛想が悪いなんて第一印象はとっくにどこかにいっている。

「…………、一騎」

 諦めたように総士が口にしたそのなまえが、なんだか自分のものではないような気がするほどきらめいて、一騎はくしゃりと笑み崩れた。

 ――のちに面映ゆく思い出す、それがふたりの、はじまりだった。