2.ブルーローズ――夢は叶う

 きれいだね、と、彼女たちはいつもうれしそうにわらっていた。
 やわらかくて白い肌が日に当たらないせいだとわかっていても、ふだんは青白い頬がぱっと桃色に染まるのがはっきりと見えれば愛しくて、その笑顔を見るためならばなんでもしようと思っていた。

 そうし。ねぇそうし。あおいばらが見たいの。
 そらみたいなあおいばら。
 うみみたいなあおいばら。
 ねぇ、そうし、その花は、きっと、奇跡っていうのよ――。


 ――ぼんやりと、意識が浮上した。
 とおく、虫の鳴く声が聞こえる。総士は何度もまたたかせながら目を開き、重たいからだをのそりと起こす。ぼやけたままの視界には、下敷きにしていたらしい本と、自分の手帳と、ベッドの下に転がり落ちているペンがうつる。眠る前に本を読みながらメモをとっていたはずなのだが、どうも途中で寝落ちてしまったらしい。学生のころは徹夜で研究をすることなど日常茶飯事だったけれど、花屋に勤め出してからは規則正しくならざるを得なかったし、意外に体力のいる仕事であるために、あまり夜遅くまで起きていられなくなった。
 本と手帳とペンをひろいあげ、ベッドサイドのちいさなチェストの上に置いた。もう、花の研究をするのは趣味のようなものだから、焦っているわけでもないし、期限があるわけでもない。それでも毎日のように手放せないでいるのは癖だ。
 ベッドを降りて時計を見れば朝の六時だった。今日は仕入れがなく正午に開店だが、その前に生け込みがある。とは言え、行く先はあまりにも近く、慣れている場所だった。ふだんなら朝食を取って店に向かうが、今日は着替えて荷物をまとめるとすぐに家を出る。なぜなら、生け込みに行く先で、あたたかな朝食が待っているのだ。
 八月も終わりかけた朝のまちに太陽が顔を出せば、じりじりと気温は上がり、蝉が鳴きはじめる。坂道の上に建っている総士の住まいからは朝日に照らされる島や海がよく見おろせる。この家はもともと、総士のものではない。石造りの門に設えられた木製の門扉を出た先に掲げられた表札には「日野」の文字がある。それは、大学時代に世話になった恩師の姓であり、現在、総士が勤めている花屋の店主の名でもあった。
 生物学を専攻し、なかでも、花の交配・品種改良について研究していた総士によくしてくれたのが、日野洋治という人だった。彼はもともと総士の父の友人で、幼い頃から総士とは交流があった。
 新しい花の品種を生み出すことを学びながら、一方で、遺伝子操作をすることに対してネガティブな感情も抱いていた総士のことをよくわかってくれ、なにを強制するでもなく、見守ってくれるようなひとだった。大学院まですすんだのち、このまま大学に残るか、それともどこかへ就職するか迷った総士に、「わたしの妻が花屋をやっているのだが、勤める気はないかね?」と声をかけてくれたのも彼だ。研究を続けたいのなら、自分がかつて暮らした古い家がある。そこには今なお自分が管理をしている温室があり、いくらか研究用の設備も整えてある。学術的な評価を求めているのでなく、きみが成し遂げたい目的があるのなら、そこでゆっくりと働きながら考えてみるのもいいのではないかね――そう言って、花屋のことなど何も知らない総士の面倒を見てくれたのだった。
 日野には妻である恵と、息子の道生、その妻の弓子と、孫の美羽がいる。総士が花屋の仕事に慣れた二年ほど前に、日野夫妻は洋治の仕事のために渡米してしまったので、今は総士と道生と弓子で店を賄っている状態だ。道生は仕入れや配達がメイン、弓子は契約をしている結婚式場やホテルなどの生け込みやアレンジメント作りがメインであるから、店舗については総士がほとんどひとりで番をしている。そのために、総士はあまり生け込みを請け負ってはいない。弓子の母である千鶴が営み、剣司が勤めている病院だけは、「やっぱり一件くらい経験した方がいいわよ」という弓子により一年前から生け込みをしている。
 花についての知識はあっても、花をその場に合うように選び、生ける、ということは経験がなかったから、花屋に勤めてからしばらくは「センスがない」とさんざん言われたものだったが、最近は褒められることのほうが多くなったので、少しは慣れてきたということなのだろう。だから、病院以外にもうひとつやってみてはどうか、と、剣司に彼の友人を紹介されたときも、あくまで、自分の技術向上のためだ、と、そう思っていたのだ。
 そう――思っていた、はずなのだけれど。

 店に一度出て、花やグリーン、養生用のシートや栄養剤を希釈した水を用意する。目的地は自分がくだってきた狭い階段の上だから、車はつかえない。この坂のまちは、二輪車だって入れる場所が限られる。生ける場所は多くないし、大きな花器もないので、総士はいつもなんとか手で抱えてのぼっている。
 坂に面した階段をのぼり、自宅よりひとつ下、反対側の道へ入る。垣根の先に数段のちいさな階段と木製の門扉があって、門に掲げられた木の看板には「喫茶楽園」と書いてある。荷物を抱えたままからだで押し開いてなかへ入り、玄関ではなく、縁側のほうへまわった。狭い玄関から廊下を抜けるよりもこちらのほうが早いのだ。総士が来るとわかっているからだろう、開け放たれた縁側から、香ばしい朝のにおいがただよっていた。
「おはよう、一騎」
「総士! おはよう」
 声をかければ、すぐに店の奥からここのあるじが飛び出してくる。短く切りそろえられた黒髪と、まんまるく開かれたはしばみのひとみ、健康的な色の肌はすこし日焼けしている。ふにゃりという表現が似合うくらいにゆるゆるとくずれた笑みを浮かべてあいさつをした彼の名を、真壁一騎という。にっこりという満面の笑みから、こんなふうに、とろけるような笑顔を浮かべるようになったのは最近のような気もするし、出逢ってすこししか経っていないころだったような気もする。どうにもその笑顔はくすぐったく面映ゆいきもちになるので、総士はすこしだけ目を逸らす。
 一騎は総士の大学の友人である剣司のおさななじみだ。一騎も総士も瀬戸内海に浮かぶ別々の島の生まれで、つい三ヶ月ほど前までは赤の他人だった。独立して新しく自分の店を持つ友人がいるので、花の生け込みをしてやってほしい、と、剣司に紹介されて出逢ったふたりは、この三カ月、あれよあれよという間にずいぶんと気の置けない間柄になってしまっていた。それというのも、この一騎の、人懐こさが要因である。
 そもそも一騎も総士も、人付き合いは得意ではないし、話すのも苦手だ。そのかわり、懐に入れてもいいと判断した相手に対してはとことん甘い。それは共通点だったろうと思う。そういうふたりが互いに波長が合うと感じ、無言の時間も苦ではなく、となりにいるのが楽で、おまけに片方は料理が得意で人に振る舞うのが好き、もう片方はきょうだいがいるために面倒見が良い、という場合、どうなるか――こうなるのだ。こうなってしまったのだ。総士は料理ができないわけではないが、忙しければ朝や昼を抜くこともあった。それを憂いたらしい一騎は生け込みのある朝はここで朝食を用意するし、余裕のある日は総士の弁当を作って家までもってきて、あまつさえ、出逢ってすぐ教え合ったメッセージアプリには、間を置かず「夕飯食べに来るか?」という誘いが送られてくるようになった。総士もそれを断れず、むしろ、一騎のおいしい料理を気に入っていたから、遠慮したのは最初のうちだけで、すっかり胃を握られてしまっている。
 最近では一騎が総士の家にやってきて料理をすることもあり、そのまま泊まることも増えてきた。一騎の自宅にも入ったことはあるが、おそらく昔は茶室だったのだろうそこは、暮らすには問題なくとも、男二人が寛ぐには狭い。
 このまちには昔、茶園さえんと呼ばれるものがあった。上流階級がつくった別荘のようなもので、茶の湯の文化が浸透し、茶室が設えられていたからではないか、などと、その名の所以は諸説ありはっきりしていない。今では空き家となってしまった茶園は多い。一騎が買ったのもおそらくそのひとつだし、総士の暮らす日野家もその流れは汲んでいると思われる。何しろ二軒とも庭付きだ。日野家には離れがないかわりに温室があるが、取り壊しただけで元々は茶室もあったと思われる。
 一騎はそのあたりのことを話して聞かせても「へぇ」と感心したように頷きつつも、興味がないのですぐに忘れる。一騎はとにかく、興味関心のあるなしはわかりやすいのだ。わかりやすいからこそ、総士にだけ向けられる屈託のないふにゃふにゃした笑顔の意味をかんがえては、なんとも言えないきもちになっている。
 一度だけ、互いの共通の友人である剣司に相談したところ、「いいんじゃないか、お前、嫌そうじゃないしさ。むしろ……、まぁなんていうか、けっこう好きだよ、一騎のこと話してる時のお前」と意味ありげな笑みを返された。
 むしろ。
 むしろ、なんだと言いたかったのだろうか。
 かんがえても答えは出なかった。出ないままでいいような気もした。一騎の笑顔にむずがゆくなるのも、近しい距離をゆるしてしまうのも、たしかに、嫌ではないし、この三ヶ月、以前よりも心がゆるやかにうきあがって、心地よいのだ。


 縁側から店に上がり、一騎が朝食の仕上げをしているあいだに花を生けるのがいつもの流れだ。しかし今日はひとつ先に言わなければならないことがあって、花を抱えたまま、厨房のなかへ引っ込んでしまった一騎のほうへカウンター越しに声をかける。
「一騎、ひとつ頼みたいことがあるんだが……」
「ん?」
 一騎のくるんとしたひとみは、自分と同じく三十を迎えようという男には不釣り合いなくらいこどもっぽい。無垢なそれを見ると自分の勝手で頼みごとをしようとしていることに少し罪悪感がわきあがるが、一騎ならばゆるしてくれるだろうという甘えのほうが勝った。
「この土日に、僕の妹が家に泊まりにくるのだが、ここへ来たいと言っていて……、彼女たちがすきな花を、ひとつ、生けさせてもらってもいいだろうか」
 公私混同もいいところだろうと思ったが、一騎は「なんだ、そんなことか」と笑って「もちろんいいよ」と肩を竦めた。
「妹って、双子だって言ってなかったっけ?」
「ああ、そうだ。受験生で忙しくしていたようだが、夏休みも終わるから、その前に一度来たいと言っていて……急で申し訳ないのだが、予約もできればありがたい。僕が……、その、お前のつくるものをよく食べていると知っているから、そんなに美味しいのならぜひ食べたいと……」
「俺のご飯、美味しいって、妹に?」
 お前が言ってくれているのかと目を輝かせて一騎が訊くものだから、総士はいたたまれなくなりつつ「なにかおかしいか」とぶっきらぼうに返してしまう。妹たちには常日頃から「ちゃんとご飯食べてる?」「総士は自分に無頓着なんだから気をつけなさい」などと心配されているところがあり、一騎の御馳走をいただくようになってからは、そのことに触れざるを得ず、「今日はどんなごはんだったの?」としつこく問われるせいで、彼女たちは一騎がどんなレパートリーを持っているのかすでに把握してしまっている。高校三年生の彼女たちは夏休みにすこしでも息抜きがしたいらしく、実のところ、八月に入ってからはずっと「早く行きたい」とせっつかれていた。総士が彼女たちの予定に合わせて休みを取るのに、どうしても後半になってしまったのだ。
 一騎は嬉しそうに破顔して、「なんでもすきなもの作ってやるって言っておいてくれ」などと早速、特別扱いをしようとしている。まわりの客に申し訳ないのでそれはやめてほしいと思うものの、総士がこうやって出入りし、一騎に特別に朝食や弁当を差し入れられていることなど、常連客はもう知っている。オープンしてたった三ヶ月だが、一騎の店にはすでに地元の固定客がついていたし、かつて働いていたという喫茶店の常連客たちのなかには、一騎の淹れるコーヒーがどうしても恋しいと言って通ってくるものもいるのだ。かれらのなかで総士は「マスターが贔屓している花屋」という認識が共有されており、誰が言ったわけでも決めたわけでもないのに、営業時間中に顔を出すときに総士がなんとなく座っているカウンター端の席にかれらは座らない。それに気づいたのはつい最近で、なんとも恥ずかしいおもいで、総士はその席に座らねばならなくなってしまっている。
 そんなだから、妹を贔屓しようとする一騎に何も言えず、総士は一騎の言葉に甘えて、二人掛けの席に一脚くわえて三人で座れるようにしてもらい、予約を取った。
 一騎の店は二人がけがよっつ、四人がけがひとつ、カウンター席がみっつと、こぢんまりしている。それぞれのテーブルの一輪挿しに生ける花を、妹たちの好きな花にさせてもらうことにした。繊細な花だからとていねいに包んできたものを開けば、朝食の準備をそっちのけで、一騎がのぞきこんでくる。包装紙から現れたのは、青紫の花びらがいくえにもかさなった、うつくしい薔薇だ。
「薔薇?」
「ブルーローズだ。見た目は紫に近いが、日本で開発された、青い色素を持つ薔薇だ」
 みずみずしい香りが、ふんわりとひろがる。棘はすべて処理してあるので、一本すくって一騎へ手渡す。一騎は、くん、と、花弁に顔を寄せてにおいを吸い込み、いい香りだなぁ、と目を細めた。最初に出逢ったときにも思わず口にしてしまったが、一騎は花が似合うと思う。本人は花そのものに特別な興味があるわけではないようだが、総士が生ける花についてはあれこれと訊いてくるし、決して雑にはあつかわない。きれいなものを、すなおに、きれいだ、と、そう言えるこころのやわらかさが一騎にはある。
「俺、薔薇にくわしくはないけど、ずっと前に見た青い薔薇って、もっとこう……真っ青だった気がする」
「あれは、染料で色を後付けしているんだ。薔薇には本来、デルフィニジンという青色色素は存在しない。青い薔薇には不可能という花言葉があるくらい、生まれるはずのないものだった。だからこそ昔から、人為的に青い薔薇をつくるという研究は続けられてきていて、これはそのなかでもとりわけ、その青色色素を含んだ薔薇として遺伝子操作をし、開発された品種なんだ。まだ、真っ青な薔薇というのは、この世界に存在していない。……僕は学生のころ主に、その研究をしていて……今もすこしではあるが、続けている」
「そういえば、温室とか書斎とか、元の教授から譲り受けたんだって言ってたよな。あれがそうなのか」
「そうだ」
 茎を短めに切り落とし、専用の保持剤を入れて、透明なガラスの一輪挿しにブルーローズを活ける。これは自分のわがままで生けさせてもらうものだからと、みずから仕入れたのだが、そもそもあまり数も出回っておらず高価なので、店に常に置くことは叶わない。まだまだ青い薔薇というのはひとの手にあまるものなのだ。
 総士が花を生け始めたので、一騎は厨房に戻って朝食の仕上げをし始める。それでも意識は総士に向いていて、「どうして青い薔薇なんだ?」と問うてくるので、ぽつりぽつりと話を続けた。植物の研究をしていたのだということ、日野教授のこと、そして妹のことをすこしは話していたけれど、くわしく語ったことはなかった。総士は自分のことを話すのが決して得意ではないのだが、一騎とふたりきりのこの空間には、自然と口を開かせる、おだやかな空気がある。
「……僕の妹たちは、生まれたときから、先天性の難病を患っていたんだ。前例から治る見込みはあったが、長い治療期間が必要で、ちいさなころはほとんど病院にいて、小学校を出るまでは入院を繰り返していた」

 ――総士の妹たちの名は、乙姫と織姫という。
 今年で十八になった彼女たちは、総士が十二のころに生まれた。産声を上げて間もないころから病院にこもりがちだった彼女たちに、自分ができることなら何でもしてやろうと総士は思っていたし、実際、そのとおりにしてきた。彼女たちは都市部の病院に入院していたから、故郷である瀬戸内海の島に帰ることはあまりなく、総士が写真で見せてやる蒼い空や海の景色に、つよいあこがれをいだいていた。同時に、父がたびたび持ってくる花にも興味をもち、野の花から見たこともない花のことまで、総士に「おしえて」とねだった。
 海外での仕事が多かった母は彼女たちにめずらしく可愛い小物をたくさん贈ってきたが、父が花を持ってきていたのは、彼の友人である日野の影響だということを総士は知っていた。父は花に詳しい人ではない。島の実家にも、都市部にもうけたマンションの一室にも、特に花は飾られていなかったけれど、日野がやってくるとかならず花を抱えてきたので、総士は彼からよく花の話を聞いては、それを妹たちにも話してやっていた。
 ブルーローズは、妹たちが本かテレビでたまたま目にしたらしい。奇跡の青い薔薇は世界中で研究され、なかば競争のようになっている。不可能と言われる花が生まれるたび、ひとびとは不可能が可能になることを言祝ぎ、夢は叶うのだ、奇跡は起きるのだと湧いた。妹たちはブルーローズに、終わりの見えない闘病生活にもいつかひかりは見えるのだと、夢は、願いはかなうのだというおもいを、かさねたのだろう。
「ねぇそうし、あおいばらが見たいの」
「そらみたいなあおいばら」
「うみみたいなあおいばら」
 いつかね、みてみたいの。
 おさない声でそう言ったふたりのまなざしに、総士は、ああ、かならず、見せてやろうと、そう決めた。
 元より遺伝子に関する研究に興味はあった。妹たちの病気のことがあったので、最初は、ヒトの遺伝子について学ぶつもりでいたけれど、どうしてか総士はヒトの遺伝子操作に対して昔からすくなからず抵抗感をいだいていて、植物の世界へ転向することにためらいはなかった。――だが、植物もいきものにちがいない。どこまでいっても、人の欲望によって、人為的に、ありのまま生きているものに手をくわえる、という行為への嫌悪感は消えはしなかった。それでも、ブルーローズを見ればうつくしいと感じたし、妹たちの顔をおもい浮かべれば、いつか、空や海の色の薔薇を見せてやりたいというおもいは消えなかったのだ。
 総士もまた、故郷の空と海の色をあいしていたし、いつの間にか、妹や日野の影響で知識ばかりたくわえていた花について、自分自身が、いとしさを感じるようになっていた。その総士のおもいを知っていたからこそ、日野は、総士に対して花に触れる場所と、総士の望む距離感で花の研究が続けられる場を与えてくれたのだ。

「――乙姫も織姫ももうすっかり良くなった。定期的に経過観察はおこなっているが、完治していると言っても、差し支えない。未だに病院に近いマンションに住んでいるが、利便性を考えてのことであって、からだに問題があるわけではないんだ。……それでも未だに、青い薔薇を好んでいる」
 ふたりとも、故郷の島の海でめいっぱい遊びまわることができるからだになった。自分の目で空と海を見ることができるようになった。だからこそ余計に、あんなふうにうつくしい色の薔薇が見てみたい、というおもいはあるらしい。
 花を生け終わって道具を片付けて振り返れば、テーブルの上に豪勢な朝食を用意して、一騎がふんわりと笑って頬杖をついていた。ほかほかのオムレツと焼きたてのパン、野菜がとろとろに煮込まれたスープ、カリカリのベーコンにくるまれた、みどりいろの瑞々しいアスパラガス。それと、総士がいちばん好んでいる淹れたてのブラックコーヒー。あたりまえのように用意されたそれらと、総士が来るのを待っている一騎の姿。それがなんだかくすぐったく、「なんだ?」と問いながらすこし不機嫌さをにじませて眉を上げれば、「うれしいなぁとおもって」とゆるみきった声が返ってくる。
「総士がそんなふうに自分のことを話してくれるのもうれしいし、そんなにたいせつなきょうだいが好きな花を、家じゃなくて、ここに生けて、見せてやろうって思ってくれたのが、うれしいなって」
「…………、――っ」
 ――そうだ。
 思えば、家で良かったのだ。
 ふたりは総士のところに泊まるのだし、日野家には彼女たちが好む花はいくらでもある。それなのに、彼女たちがもっとも好きなブルーローズを、この店に生けて見せてやりたいとおもったのは、もちろん、彼女たちがここへ来たいと言ったからでもあるが、なにより――なにより総士が、この場所を好んでいるからだ。あたりまえのように、ここにいる自分を、彼女たちを、それを笑顔で受け入れてくれるだろう一騎を、想像していたせいだ。まったくの無意識だった。おまけにそれを一騎はわかっていて「うれしい」と言った。頬が熱い。一騎の顔が見られずに立ち尽くしていると、くすくす笑いながら一騎が「ほら、飯冷めちゃうから」と手招きをする。
「明日のメニュー、食べながらいっしょに考えてくれよ。できることなら、ふたりがすきなもの、つくりたいし」
「……ああ」
 面映ゆいきもちといたたまれなさが抜けないままに、けれど話題を逸らそうとしてくれる一騎のことばに甘えて、総士はなんとか熱をおさえこんでからあたたかな朝食の前に腰を据えた。

         *

「ひさしぶりね! 総士!」
「お出迎えありがとう、総士」
 八月最後の土曜日。
 電車から降りてきた織姫と乙姫は口々にそう言って、がばりと総士の両腕に抱き着いた。腰を覆うほど長い黒髪をふたりともポニーテールに結い上げていて、色違いでおそろいのワンピースを身にまとっている。身内贔屓かもしれないが、まちを歩けば老若男女問わず目を惹かれるであろう可愛らしさは年齢をかさねるごとに増している気がする。――こういうことを口にすると、剣司あたりには「お前って意外に兄馬鹿だよな」と呆れた顔をされるのだが、今はいないので構わない。
「元気にしていたか?」
「うん、ちゃんと全部やることだってやってきたんだから、ねぇ織姫」
「そうよ。この前の全国模試だって評価はオールAだったわ!」
 ほめてほめてと言わんばかりにアピールする妹たちの頭を交互にぽんぽんと撫でて、総士は目を細める。長いあいだ苦労した姿を見てきただけに、こうして元気にはしゃいでいる姿を見れば、どうしても嬉しくて頬が緩んでしまうのだ。
 ふたりに、早く、と、急かされ、総士は一騎の店に向かうべく歩き出す。昼の混雑時を少し避けた時間で予約をしたから、三人ともお腹は空いていた。ふたりは総士に会いに何度かこの街へはおとずれているのだが、最近は新しい店も多くできているから、路地をのぞきながら「明日、あそこ見てみよう」「あそこも行きたいわ」とふたりで計画を立てている。
「ねぇ総士、今日のランチは何かしら」
「お前たちがすきなものを伝えておいたが、当日まで秘密だと言われている」
「たのしみだね! 織姫、昨日の夜からずうっとそわそわしてたんだよ」
「乙姫だって総士が送ってくれた今までのご飯の写真、見返していたでしょう」
 メッセージアプリのきょうだいのタイムラインには、ときどき総士がふたりからねだられて送った一騎の料理の写真がたまっている。ふたりとも美味しいものがだいすきなのだ。
 他愛のない話をしていれば、慣れた坂道をのぼってしまうまで時間はかからない。先に総士の家に寄って荷物を置いてから、一騎の店の門をくぐった。
「いらっしゃい」
 引き戸のむこうで、いつもどおり一騎が笑顔で出迎えた。食事とコーヒーのまざったにおいが、ふわふわとただよっている。玄関の靴をざっと見てみると、もう客は落ち着いているようだ。乙姫と織姫は靴を脱いで上がるなり、一騎の前にふたり並んで立って、すっと手を差し出した。
「皆城乙姫です」
「皆城織姫よ」
 一騎はきょとん、と目をまたたかせたあと、両手でそれぞれの手を握り返しながら「真壁一騎です」と破顔する。やはり人好きのする笑顔だ。乙姫と織姫もそう感じたのだろう、こっちへどうぞ、と、案内されながら、顔を見合わせて総士を振り返り、「笑顔のかわいいひとね」と耳打ちをしてくる。
「きみたちには特別メニューを用意してるから、飲み物だけ、このなかから選んでもらえるか?」
「特別……」
「特別なの? 贔屓ね!」
「ないしょだぞ」
 しー、っと指をくちびるに当てて一騎が楽しげに言って、乙姫と織姫ははしゃぎながら、それぞれアイスティーとアイスコーヒーを頼む。総士は言うまでもなくコーヒーだろうと、一騎は注文を聞くこともせずに厨房に入っていった。
 ゆるくクーラーの効いた店内はすずしい。冷やし過ぎてもよくないし空気もこもるから、と、縁側から庭に通じるガラス戸はすこし開けられている。総士たちの席は窓際だったので、太陽のひかりがふりそそぎ、お冷の入ったグラスをとおしてきらきらひかっている。そしてすこし影になったテーブルの隅に、昨日生けたばかりのブルーローズがあった。元は廃材だったふぞろいの木材を組み合わせてつくられたテーブルに咲く薔薇は、味があってとてもいい。妹たちのために生けたとはいえ、この店の雰囲気にもなじんでいると、総士はひとり満足げにほほえむ。あまり日持ちのしない繊細な花だが、まだ今日は元気に咲いており、乙姫も織姫もさっそく気づいたらしく、「ブルーローズだわ」「総士が選んだの?」と総士を見上げてくる。
「ああ。お前たちがすきだからと、一騎に頼んで生けさせてもらった」
「やっぱり特別で、贔屓されてるんだね、総士」
 乙姫が、ふふ、と笑うので、「僕ではなくお前たちが……」と口を開きかけるが、「総士の妹だから、よ」と織姫がいたずらっぽく笑ってさえぎった。
「総士も一騎のこと、特別でしょう?」
「は?」
 どういうことだと首を傾げれば、「やっぱりなぁんにも自覚ないんだ」と乙姫は楽しそうに目を細める。
「わたしたち、会ってもいなかった一騎のこと、ずいぶん知っているわ」
「総士が誰かのことを、あんなにメッセージで書いてくることなんて、今までなかったもんね」
「一騎がご飯をつくってくれることが楽しみなのも、一緒にいても気を遣わないでいいことも、」
「一騎にはなんでも話せちゃうことも、笑顔を見るとおちつくことも、うれしいことも」
「っ、ま、待て、僕はそんなこと一言も書いてないぞ!」
 乙姫と織姫の言うことにまったく覚えはない。確かにメッセージアプリに日々の出来事をときどき書くことはある。それはふたりに「今日はどうだったの?」と問われるからであったし、一騎のことは、どうやっても日常に絡んでくるので書かざるを得なかったのだ。そう、一騎のことを除いて日々のことを伝えるなんてどうやっても無理で――……。
 はた、と、総士は気づいた。
 自分では、なにもない、変わらない日常を、伝えているつもりだった。けれど、あの日から、一騎に出逢ってから、思えばずっと、一騎のことばかり書いていたのではないか。
 気づいて、口をつぐんだ総士に追い打ちをかけるように、ふたりは頬杖をついてふふん、と笑う。
「総士の文章は論文みたいだから、さっき言ったみたいなこと、そのまま書いているわけじゃあないけど」
「読み解けば結局そういうことだってわかるわ。だからわたしも乙姫も実のところ、一騎に嫉妬していたの」
 ねぇ、とふたりは顔を見合わせる。総士は気づいてしまった事実を受け止めるのでせいいっぱいで何の反応もできない。よもや妹たちに自分の日々を伝えているつもりで一騎のことばかり報告していたとは、それに無自覚であったとは。羞恥でどうにかなりそうだ。妹たちの日々の報告を見返しては癒されるために遡っていたメッセージを、もう二度とまともな顔で見られない。しかし現実の時間は待ってはくれない。「お待たせしました」と、聞き慣れてしまったあの声がすぐそばで聞こえた。
「はい、オムライスカレーです」
 ことん、と、テーブルのうえに差し出されたやわらかな色とかたちのまあるい皿のうえに、見慣れた、一騎が得意としているカレーと、そのなかにこんもりと島をつくるあざやかな黄色のオムライスが浮かんでいた。よく見ればカレーにはちいさなハンバーグが添えられているし、頂点には、あの、おこさまランチによくあるタイプの旗が立っていて、ねこらしき絵が描いてある。絵は苦手だと言っていたのに、わざわざ描いたのだろうか。もう高校三年生にもなるが、おさないころに食べられなかったから、未だにおこさまランチというものにあこがれがあるのだと言ったことも、オムライスやカレーやハンバーグがすきなのだと言ったことも、すべて盛り込んでくれた結果らしい。
 乙姫と織姫は、「わ」の口のかたちのまま、きらきらと目をかがやかせている。サラダとスープが隣に添えられて、飲み物が運ばれてきても、衝撃から立ち直っていない。
「デザートはプリンだぞ」
「……っ、かんぺきだわ……!」
「ありがとう、一騎!」
 早速呼び捨てにしていることを気に留めることもなく、一騎は「どういたしまして」と笑って「早く食べないと冷めるぞ」と言いながら去って行った。いただきます、と、三人でていねいに手を合わせ、スプーンを手に取る。
「おいしい……」
「おいしいわ……」
「おいしいな……」
 どうやらカレーはふたりに合せてすこし甘めにしてくれたらしい。ふだん総士が食べているここの看板のカレーライスは、もう少しスパイスが強い。ふたりともあまり辛いものが得意ではないと言っておいたから、気を遣ってくれたのだろう。本当に、なにからなにまで、ふたりの「すきなもの」にしてくれたのだ。乙姫も織姫も、黙々とスプーンを口元へはこぶ。ふたりが無言でものを食べているときは、本当においしいと思っているときだ。しあわせそうに目を細めて食事をするふたりに、よかった、と、総士は目を細め、自分も、一騎の思いやりがつまったおこさまランチを食べきった。

 デザートのプリン――さくらんぼが乗ってホイップクリームが添えてあった、一騎の手製だ――と、おかわりのカフェオレをしっかりと胃に入れて、三人は席を立った。店のなかにはまだ数人の客がいる。午後六時まで営業は続くので、一騎は手がはなせないだろう。会計だけ済ませて出ようとしたところで、乙姫と織姫が、玄関からカウンターまで戻り、「一騎!」と声をかけた。
「とってもおいしかった。ありがとう、一騎」
「今まで食べたどのご馳走よりもおいしかったわ、ありがとう」
 ふたりの言葉に一騎が「どういたしまして」とほほえんだのが、すこしだけ見える。そして、ふたりが何やら手招きをして、一騎の耳元になにかを囁いた。内容は聞こえない。一騎がきょとん、としたあと、ふんわりと笑って、何かを告げ、ふたりの頭をそれぞれ撫でた。



「今日、一騎に何を言ったんだ……?」
 ランチのあとひとしきり二人の行きたい場所に付き合って帰宅し、居間にみっつ布団を敷いたところで、総士はぽつんと訊いてみた。乙姫と織姫はそれぞれ端の布団にうつぶせで転がって、「うーん」「ひみつね」と顔を見合わせている。このふたりが「ひみつ」と言ったら絶対に明かしてくれないのだ。そのうち一騎に聞けばいいか、と、思いながら、総士も電気を消し、真ん中の布団にころがった。
 縁側の障子を開け放してあるから、風の音も虫の声も聞こえる。すこし起き上がれば、塀のむこうにはぽつぽつと明かりのともった対岸の島や、それを反射する夜の海も見える。故郷の島とはちがうが、この景色が総士は好きだったし、乙姫と織姫もそうなのだろう。
「ちょっとだけ、潮のにおいがするのね」
「今年の冬も、みんなで島に帰りましょうね」
「ああ、そうだな」
 両親はともに海外を飛び回っていて忙しい。故郷の島にある実家はほとんど別荘のようなものになっていて、年に何回か、家族みんなで集まって過ごすことにしていた。夏は難しかったが、年末年始はきっとみんな集まれるだろう。――そういえば、一騎も別の島の生まれなのだ。彼も年末年始くらいは実家に帰るだろうか。瀬戸内海の島ならば、彼の島から見る景色も、総士の知っているものとそう変わらないのだろう。こころのうちにもつ原風景がおなじだから、共有できる意識が多く、親しみやすいのだろうか。気を、ゆるしきってしまうのだろうか。うつらうつらと考えながらまどろんでいた総士は、あのね、という、ひかえめな乙姫の声で意識を引き上げられる。織姫は、すうすうと寝息を立てている。もう眠ってしまったらしい。ちいさな声で「……どうかしたか?」と乙姫のほうを見やれば、やわらかな黒いひとみが笑んでいる。
「織姫も、わたしも、最近の総士がすごくたのしそうで、うれしいんだよ」
「……そう……、見えるのか?」
「うん。……総士、ずっとわたしたちのためにそばにいてくれたでしょう。花のことを研究しはじめたのも、最初はわたしたちのためだった。今はもちろん、総士自身が花がすきなこと、知ってるよ。でも、だから、大学を出て、花屋さんになって、ちょっとどうしていいか、わからなくなっていたとき、あったでしょう?」
 あのころ、乙姫と織姫の病はほとんど完治して、学校へもふつうに通えるようになっていた。今までずっとふたりのことばかりが頭にあった総士は、自分のために、自分が道を選ばなければならなくなって、すこし迷っていた。研究は楽しい。花にふれるのも好きだ。けれど学術的な評価が必要とされる研究職を続けていく熱意と目的が自分にはない。なにより、新しい品種、めずらしい品種をと、求めて加熱していく競争が好きにはなれなかった。自分だってそのひとりだったのに、勝手なものだ。遺伝子操作への嫌悪感も総士の足を踏みとどまらせた。――では自分は、いったい何がしたいのだろう。花屋に入っても、そのこたえは見つからなかった。新しく覚えることがたくさんあって、目まぐるしく過ぎていく日々のなか、ほそぼそと薔薇の研究を続けても、なにかが満たされない。楽しくないわけではなかった。やはり花が好きだと思ったし、このまちの空気や人々もすきだった。接客は得意ではないが、花を求めてくるひとそれぞれに合う花を選び、よろこんでもらえるのも良い。それなのに、どうしてか、足元がふわふわとしてさだまらない。
 そんなふうに何年も過ごして、このまま、こたえなどなくてもいいのかもしれないと、そう思いはじめたころ、一騎が店にやってきた。
 笑顔と花の似合う男だと思った。気軽に話しかけて来て、夕飯に誘われて、それが全く不快ではなかった。不躾だとも思わなかった。一騎の店の花を生けるのは楽しい。一騎がつくる食事やあの場の雰囲気にあうものを考えるのは楽しいし、一騎が花のなまえや由来、いつが旬でどうやれば長くもつか、ひとつひとつ面白そうに訊いてくるものだから、ついつい熱が入る。そのたび、ああ、やはり自分は花がすきなのだ、こうして花と生きるのがしあわせなのだと気づかされる。それを一騎がいつも笑顔で見守ってくれるから、すべてを肯定してくれるような気がして、うれしかった。
 それが、無意識にあたりまえになって、乙姫と織姫に伝わってしまうほどになっていた。
「わたしたちのことを、いちばんに考えてくれる総士が、だいすきだよ。でも、総士が、総士のために、笑っていてくれるのが、わたしも織姫もすごくうれしい。だから、一騎に、ありがとうって言ったの」
「ありがとう……?」
「総士を笑顔にしてくれてありがとうって」
 そうしたら逆に、ありがとうって言われちゃった。
 聞こえなかったかすかな声。
 ――こちらこそ、ありがとう。
 一騎はそう言ったのだ。
 じんわりと胸にひろがるものが、なんなのか、総士にはわからない。ただ愛しさのまま、目の前の乙姫の頭をくしゃりと撫でる。
「僕は……、お前たちが笑顔でいてくれるのが、なによりもうれしい」
「うん」
「ほかの何をおいても、お前たちがしあわせで、元気でいてくれるように祈っている」
「……うん。だからそのぶんね、わたしたちが、総士のしあわせを祈ってるんだよ」
「……そうよ」
 いつの間に起きたのか、ぴたりと背中にぬくもりがくっついている。額をぐりぐりと押し付けてくる織姫と、撫でるてのひらにすりよってくる乙姫のあいだで、総士はくしゃりと笑った。

        *

 週が明けた第一火曜日は、花屋の定休日だ。
 九月に入り、ほとんどの学生は夏休みも終わり、まちなかに溢れていた観光客はすこし減ったような印象を受ける。一カ月半ほど忙しなくしていたからか、喫茶楽園の表には、「本日臨時休業」の手書きの札が貼られていた。それに構わず、総士は花を手に抱えて門をくぐる。
 店は開いていないはずだが、縁側は開け放たれていた。しかし、厨房から音や香りはただよってこない。「休みの日の自分用の料理は、店の厨房ではしない」が一騎のモットーであるから、今日は自宅のほうで朝食をとっているのだろうと目星をつけ、裏手にある離れにまわった。ちいさな一軒家は玄関の引き戸が開けられていて、なかから、嗅ぎ慣れた香ばしいにおいがただよう。
「おはよう、一騎」
「えっ……、総士?」
 たった一部屋しかない狭い家だ。玄関のすぐ横にある台所から顔を出した一騎と目が合う。今日は来ると言っていなかったから、驚かせたかもしれない。一騎はいつもよりラフなシャツとゆるいパンツ姿で、髪もすこし跳ねたままだ。寝起きですと言わんばかりのそれがなんとも気が抜けていて、つい笑みがこぼれる。
「ご、ごめん、来ると思ってなくて、俺こんな、」
「構わない。今更じゃないか?」
 一騎のほうは朝だろうが夜だろうが唐突にやってきてご飯を押し付けていくのだ。総士だってずいぶんとゆるんだ格好で出迎えてしまったことはある。
「突然すまない。もうそろそろ、店のブルーローズが萎れてしまっただろう? あれは僕の勝手でおかせてもらったものだから、今日のうちに生け替えて……おこうと……、おもって……」
 言いながら、総士は、畳の敷かれた六畳一間のどまんなか、ほとんど物のない一騎の部屋に唯一ある卓袱台のうえに、たった一輪、すこし萎れかけたブルーローズが飾ってあるのを見つけて目をまたたかせる。店のものとはちがう、陶製の、なんともふしぎなかたちをした細めの一輪挿しにぽつんと生けられたそれは、おそらく店に飾っていたものだ。萎れかけたそれが、どうして、ここに――。
「あっ」
 しまった、と、言いたげに一騎が総士の前に立って、部屋のなかを隠そうとするが今更だった。いや、べつに隠す必要はないのではないだろうか。萎れかけた花であっても、一騎は花をだいじにしてくれるから、ちょっと一輪、抜いてきたのだろうという想像はつく。今までそんなことはなかったけれども、なにも、おかしいことではない。それなのに一騎はそわそわとして、「いや、あの、」となにか言葉をさがしている。
「……気に入ったのか?」
 まぁあの花はとてもうつくしいしな、と、そう思って訊いたのだが、一騎はなにやら真剣な顔をして、「……そうだよ」と頷く。
「だって……、あれ、朝焼けの色だって、書いてあったんだ」
「調べたのか?」
「気になったから……、やっぱりそうなんだって思って」
「やっぱり……?」
 何がだと首をかしげると、「総士の色だよ」と一騎が言う。
「総士のひとみの色だ。初めて会ったときに思った。朝焼けの、海と空のあいだの色だ。あの薔薇の色がすごく似てて……、萎れていくのがいやで、さみしくて、つい、持って帰って……」
「……ぼくの、」
 僕の色だから、萎れていくのが、いやだった?
 そのことばの意味を、意図を、勝手に脳が処理していく。目の前の一騎はすこし目元をあからめて、榛のひとみはまっすぐ総士を見ている。水仕事でかさついた指が総士のまなじりに触れた。総士も荒れてるんだ、水を使うもんな、いっしょだな、と、そう笑って一騎が総士の指先を、だいじなものでも触るように慰撫したのは、いつだったろう。たった三ヶ月だ。約九十日、時間にして二千百六十時間、分にして十二万六千九百分――秒にすれば七百七十七万六千秒。計算ばかりが得意な脳が数字をはじき出して、けれどそれでは足りないという。ともに過ごした時間の長さに意味を持たせることがどれほど重要だというのか。たとえみじかいあいだでも、偶然が呼んだ出逢いでも、パズルのピースがはまるように、互いのこころがぴたりと寄り添いあうことはある。あるのだ、ここに。
 かさり、と、腕に抱いた花の包装紙がこすれて音を立てる。一騎のからだが触れたのだ。土間と板の間の段差を埋めるように自然と総士の踵が浮き上がる。すべて無意識だ。ためらいながら頬に触れた一騎の手がそのまま総士の髪を耳にかけるようにうごいて、かさついたくちびるがふれあう。泣いてしまいそうだった。こんなにやさしいぬくもりが、こんなにそばに、あるものなのか。
 自然と閉じていた目をひらけば、驚きに瞠られた一騎のひとみが間近にある。何でお前が驚くんだ、お前から仕掛けたんだろうと思いつつ、総士の口はぬくもりの余韻にふやけていて開かない。
「……も……、」
「……?」
「もう、一度、しても、いいのか……?」
「…………、花が、萎れないうちにな」
 水からあげた花は時間の経過とともにどんどん弱っていってしまう。早く花瓶に挿してやらなければならない。手のなかの花を抱え直せば、それすら待てなかった一騎のくちびるがもういちど降ってくる。

 それは、ずいぶんとながいあいだ切り口をさらしていた花に沁み込んでいく、やわらかな水のようだった。