冬のただいま・1

 じゃあまたなぁ、と、いつもより間延びした声で手を振る剣司が咲良に手を引かれて去っていくのを見送って、一騎はさきほどからしずかにしている隣の総士に視線をやった。紺色のマフラーを口元が隠れるところまで巻いてダウンを羽織った総士はぼんやりと剣司が去ったほうを見つめている。まだ息が白くなるほど気温は下がっていないけれど、本格的な冬まであと一歩という時分だ。アルコールを摂取した後で頬はすこし火照っているが、早く帰ってからだを温めるに越したことはない。
 そうし、と、呼びかければ、とろとろとした灰色のひとみが一騎をとらえる。そこまで酒を飲んでいたようには見えなかったのだが、いつもよりも酔いがまわっているのだろうか。一騎も総士も酒が飲めないわけではないが、強くはない。剣司と三人で飲むと、いちばんにグラスを開けるのは決まって剣司で、一騎と総士はせいぜい二杯も飲めばいいほうだった。
 一騎の酔い方は平凡で、顔が赤くなってすこし饒舌になるという程度のものだったし、総士もほとんど変わらない。いつもより表情がくるくると変わるようになって、自分のすきなことを喋りたがる。そういう時は、うん、うん、そうか、そうなんだな、と、ただ相槌を打つのが一騎の役割であったし、それに満足げな総士を眺めるのが楽しみでもある。今日も店を出るまではそうだった、はずだ。
 ――今朝、仕入れで早かったみたいだし、単純に眠いんだろうな。
 酔いというより、これは眠いときの目だ、と判断して、一騎は「帰ろう」と総士を促す。家までは遠くない。今日は総士がこの調子だから、ひとりで帰すのは不安だし、明日はお互いに休みだから、どちらかの家に泊まるのがいつもの流れだ。風呂が広くてふかふかのベッドがある総士の家のほうが今日はいいだろうな、と、一騎は総士の先に立って商店街の路地に足を向けた。そこから道を越えた先にある坂道と緩やかな階段を上っていけば、ふたりの家がある。
 午後九時を回ったまちはとても静かだ。行楽シーズンの過ぎ去った夜のまちなかを歩く人はほとんどおらず、石畳の路地におちる橙色のふるい街灯のひかりに群がる虫も夏に比べて少なくなった。春や夏のあざやかさも、秋の深いいろどりもすきだけれど、しん、としたこのまちの、冬のいぶきが一騎はすきだ。
 坂道の手前で、今日は空気が澄んでいて月がきれいだな、と、ふと空を見上げて立ち止まる。――と、左手にするりとぬくもりがもぐりこんできた。総士の手だ。一歩うしろを付いて来ていたはずの総士がとなりにならんで、一騎の手に手をからめている。てのひらは、いつもよりあたたかい。アルコールのせいだろう。しかし触れ合った指先は冷たかった。花をあつかう繊細な指先は、水を使うために荒れている。おんなじだな、と、いつだったか、言ったことがあった。冷たい指先をあたためたくて伸ばした一騎の指先も、調理のために水を使うから、同じように荒れている。

「……寒いな」

 ぎゅっと総士の手を握りしめながら言えば、総士は無言で一騎に視線を向けた。ぼんやりとしたひとみがすこし揺れて、あれ、と、おもったときには、長くて色素の薄いまつ毛が灰のひとみを覆い、一騎の視界をいっぱいに埋めていた。
 指とおなじように、かさついたくちびるが、ふれあう。熱くも冷たくもない、ぬるい温度が呼吸の音をほんの一瞬だけ封じる。
 ぱちり、と、またたきをしたときには、総士の顔が離れてしまっていた。

「……さむい」

 きょとん、とする一騎をよそに、総士は不満げにぽつりとつぶやく。「となりにいろ」と付け足されたことばに、むずむずと胸の内からわきあがってくるものを耐えきれず、一騎はぎゅう、と、先ほどよりも強く、つよく総士の手を握る。

「そうし」
「……なんだ」
「早く帰ってふたりであったまろうな」
「…………」

 ふにゃ、とくずれた笑みで言った一騎から総士は目をそらし、そのかわりに、強く一騎の手を引いた。



2019.11.30 文庫ページメーカー初出