冬のただいま・2
閉店時間になってから半分ほど下ろしていたシャッターを、外から完全に下ろしきり、鍵をかけてから総士は腕時計を見やった。時刻は午後九時をすこしまわったところだった。総士の勤める花屋soleilの閉店時間は午後六時なので、しっかり三時間は事務作業をしていたことになる。まちのなかは閑散期、といった雰囲気で、休日も以前ほど観光客の姿は見えなくなった。しかし花屋はそもそもが観光客向けの商売ではない。むしろ、クリスマスや正月といった行事のあるこれからの時期が忙しい。最近は事務処理が手つかずでたまっていたから、少しでも片付けようと思ってひとりで残っていたのだが、集中するとつい時間を忘れてしまうのが総士の悪い癖だ。
アーケードの上から商店街を照らすあかりは、ほとんどが消えてしまっている。建ち並ぶ店のあいだに伸びる路地からオレンジ色の街灯のひかりが漏れてきて、灰色の地面をぼんやりと照らすばかりだ。金曜の夜だというのにふらふら歩いている酔っ払いの姿すらない。商店街のなかの店はほとんどが早くに閉めてしまうし、最近はめっきり冬らしく冷え込んできたから、当然かもしれない。
――僕も早く帰ろう。
はふ、と、マフラーのすきまから吐いた息が白い。ついこのあいだ、一騎と剣司と酒を飲んだ夜は、寒いとはいえまだ息が白くなるほどではなかったというのに、師走の名にふさわしく季節も足早に進んでいるらしい。
総士も足早に店から山手側に向かう路地を抜けて、ぽつぽつと車が通り抜ける道を渡る。カンカンとけたたましく鳴る踏切の音に足をとめれば、遠くからまばゆいひかりが近づいてくるのが見えた。線路は山手と海側を分断するように走っているから、あちこちにちいさな踏切もあれば、線路の下をくぐるように作られた隧道もある。家に帰るには目の前にある隧道をくぐればいいので、電車が来ようと待つ必要はない。けれど、なんとはなしに、総士はそのまま立ち尽くした。
ガタンゴトンという音にまじって、キィ、と軋むような音がした。このあたりを走る車体のなかではいちばん旧式の電車が、駅に向かって速度を落としながら走りぬけていく。糸を引くように視界のなかをまばゆいひかりが通り過ぎ、ぶわりと髪が風に舞う。遅い時間だからだろう、窓から見える乗客の姿はまばらだった。
――かれらもどこかへ、帰るのだろう。
冬の澄み切った空気がより鮮明に描き出す夜の闇に、煌々と浮かびあがる駅と電車のあかりを遠く見つめて、自分をうえから照らす街灯の、しずかであたたかいのに、どこかさみしいオレンジ色を見上げたとたん、こいしい、というおもいが胸にこみ上げる。――恋しい。はやく、帰りたい。
急くように線路をくぐり、ゆるい坂と階段をのぼって、山の中腹あたりに辿りついたときには、わずかに息が上がっている。通い慣れた左の路地に入るか、それともこのまま上にのぼるか迷って、右上にある自宅を見やれば、塀の向こうからわずかにあかりが零れていた。どうして、と、そう思いながら、家までの階段をのぼる。
門扉を開けるあたりから、ふんわりと香ってくるのは、知っているにおいだ。野菜と肉を煮込んでいるにおい。彼の店で、あるいは総士の家で、ぐつぐつと耳にうれしい音をたてながらつくられる、彼の食事のにおいだ。来るなんて、一言も言っていなかったのに。遅く帰ることだって、知らないはずなのに。息を切らせたまま、玄関の引き戸を開ける。ガラガラと鳴る音に気づいたらしい侵入者は、パタパタとスリッパの音をひびかせながら、すぐに姿を現した。
「おかえり、総士」
さむかったろ、早く扉閉めて、靴脱いで……ああ、ほら、やっぱり冷たいじゃないかと、ふだんはおっとりしているくせに矢継ぎ早に一騎は言って、総士の冷え切った頬を両手でつつみこむ。
――あたたかい。
冷たい水をあつかうせいで、ところどころあかぎれがある、かさついた手が、総士をあたためようと頬を撫でさする。食事のかおりがいっそう強く総士をつつんで、からだから、緊張がほどけていく。
去年は、一昨年は、その前は――その前は、こんなことはなかった。ここは借り物の他人の家で、寝ても覚めても総士ひとりの暮らす家。ただいまを言う相手だっていなかった。それを寂しいと思ったことなどない。なかった。ひとりが、ひとりでいるときに、寂しいなんてきづかない。誰かがいるから、ひとりを寂しいと思ってしまうようになる。
ぶわりと、こみあげそうになったものを飲み込んで、総士は一騎の手につつまれたまま、「……不法侵入だぞ」とかろうじて声に出す。
「え、……でも、お前、こないだ鍵くれただろ」
そういう意味じゃあなかったのかと首を傾げられて、そういう意味であったけれど、そうだけれども、これは不意打ちが過ぎる、と総士はこたえを返せずに口を噤む。疲れていて、寒くて、すこしだけ寂しいと、そう思ってしまったときに、タイミングよく家で待っているなんて、そんなのは誰も頼んでいない。
くやしくてうれしくて、総士はぽすりと一騎の腹に顔をうずめて抱き着くように背中に腕をまわした。
「……そうし?」
「……お腹が空いた」
総士の言葉に、ふにゃ、と、一騎が頬をゆるめたのが、見なくてもわかる。頬をつつんでいた手は総士の頭にのびて、よしよしと髪を撫でさすった。
「おれも」
顔を押し付けた一騎の腹のおくから、ぐう、と、ひびいた音に、総士はひそかに笑った。
2019.12.07 文庫ページメーカー初出