バレンタイン・デイ

 剣司は楽しそうな幼なじみの横顔をちらちらとうかがいながら、「サービス」と言って出された珈琲を飲んでいた。幼なじみ――一騎の営む喫茶楽園はすでに閉店時間を過ぎていて、店内には、あるじである一騎と、剣司のふたりしかいない。春のにおいが立ち始め、いくぶん日が長くなったとは言え、まだ冬の気配が濃い空は、すっかり暗くなっている。
 剣司がこんな時間にここにいるのには、わけがあった。


 今日は夜勤明けで、夕方近くなってから起き出した剣司は、何か腹に入れようとキッチンに向かったところで、「おとうさんは、だめだよ!」と息子に入室拒否を食らってしまった。扉のむこうからは甘い香りがしていて、ああそうか、今日はバレンタインなのだった、と、そこで初めて思い出したのだ。
咲良はいつもバレンタインにケーキやクッキーを焼いてくれる。最近熱心に「お手伝い」をするようになった衛一郎も、今年はお菓子作りに参加しているらしい。
 息子のうしろから顔を出した咲良が、「いいのよ、衛一郎。お父さん、お腹空いているんだから」と剣司を招き入れようとしてくれたけれど、お楽しみは確かに後に取っておいたほうがいい。そう思った剣司は、「できるまで、外出てくるよ」と笑って家を出た。


 ――とはいえ、腹はへっている。
 自然と足は楽園に向かっていた。閉店間際のゆったりした店内には誰もおらず、かくかくしかじかと家での話をしたところ、「家でたくさん食べないといけないから、軽くな」と、一騎がメニューにはないこぢんまりしたホットサンドを作ってくれたのだった。
 皿の上はすでに空だ。もうそろそろしたら帰ろうかな、と思いながら珈琲を啜っていた剣司は、「できた」とちいさくつぶやかれた一騎の声に顔をあげた。

「……お前、器用だなぁ」
「そうかな」

 厨房の作業台の上には、赤いリボンの巻かれた、チョコレート色の箱が出来上がっていた。剣司が店に来たときにちょうど焼きあがっていたガトーショコラが、ワンホールそのままおさめられている。

「ラッピングなんて、あんまりしたことないから得意じゃなかったんだけど、総士がよくやってるの、見よう見まねで」

 変じゃないかなと確認してくる一騎に、変じゃないぞと返しながら、剣司は微笑む。

「総士にやるんだろ、それ」
「ああ。仕事終わったら来るから、一緒に食べようと思って」
「そうかそうか、仲が良くていいことだ」

 ちいさいころから同じ島で育った、このおおらかな幼なじみと、大学で出会った不器用な友人が、恋人という関係になってから少し経つ。仕事のパートナーとして引き合わせたのは剣司だったが、こうなるとは思っていなかった。総士の口から「その……、なんというか、付き合うことに……なった」と聞いたときは、驚きはしたものの、そうだろうなぁという納得と、よかった、という安心感が大きかった。
 一騎に出会ってからの総士は、強張りが抜け、よく笑うようになったからだ。一騎も――元より笑顔は多いものの、子どもの頃からどことなく他者と距離を置き、ひとりでいることの多かった彼が、ふにゃふにゃと幸せそうに笑いながら総士のことを話すようになった。幼なじみとしては喜ばしい。
そんなことを思いつつ、残り少なくなった珈琲を口にした剣司は、ふと、昔を思い出して一騎に問いかけた。

「……お前さ、島にいたころはチョコレートたくさん貰ってたけど、喫茶店勤めだった時はどうだったんだ? 今日も貰ったんじゃないのか?」

 一騎は、定期航路が辛うじて維持されている、というレベルの島において――本人は意図していないし、むしろ困惑していたのだろうが――目立つ存在だった。整っていて柔和な顔に、ずば抜けた運動神経。一匹狼のようでありながら、親切でやさしい。ひかえめに、困ったように笑うのが、老若男女問わず人を惹き付けていた。そのため、バレンタインとなると、学校でも、ちいさな商店街でも、チョコレートを手渡されていたのである。
 島から出れば、人の絶対数は増えるのだから、一騎の存在も多少は埋もれてしまうだろうが、接客業は人と顔を合わせ言葉を交わす機会が多い。いわゆる本命もあるだろうが、仲良くなりたいとか、お世話になっているからとか、そういった贈り物もあったはずだ。
 一騎は昔を思い出すようにして、苦笑する。

「街にいたときは、常連のお客さんがよくくれたよ。あと、帰り道で、あまり知らないお客さんに引き止められたり」
「あー……」

 想像にかたくない。一騎は物腰が穏やかでやわらかいがゆえに、たとえ断られても、ダメージが少ないと思われやすいところがある。

「あのころは、断るのも申し訳なくて貰ってたけど、今日は受け取ってないよ」

 一騎の言葉に、ほう、と、剣司は口の端をあげた。

「総士がいるからか?」
「……総士、そういうの、気にしていないふりして、むつかしいこと考えて引きずるから。まぁ、そもそも、今日は言うほど声かけられてないんだ」

 一騎は苦笑しているが――それは、おそらく常連であるほど、一騎が総士を愛おしみ、甘やかしていることを知っているからだ。
 そう剣司は思ったが、口には出さなかった。今の会話にしてもそうだが、一騎は惚気を惚気と思わず素直に口にする。あてられるとか、あてられないとか、そういう次元ですらない。一騎は「当たり前のこと」を言っているにすぎないのだから。こういうところが、物事をむつかしく考え、遠回しな言い方をしてしまいがちな総士には合うのだろう。そう思っていると、一騎が手元の箱を見下ろしながらぽつりと、「総士、は」とつぶやいた。

「なんだ?」
「いや……その、総士は、貰ってたのか……な」
「訊かなかったのか?」
「……今の今まで、思わなかった」

 困ったように眉を下げた一騎はおそらく、総士とのバレンタインのことで頭がいっぱいで――浮かれていて、そこに思い至らなかったのだろう。これくらいは本人の口からでなくとも、教えて構わないか、と、剣司は小さく笑って答えてやる。

「島にいた時のお前みたいなもんだな。あまり若い人間がいない商店街で、あの見た目は目立つんだ。お客さんとか近所の人とか、あとは通学で前を通る学生とかに声をかけられてたよ。でもあいつは、想いに応えられないものは貰えない、とか、客と店員である以上は変に気を遣わせたくない、とか、ほとんど断ってたな。受け取ったのは美羽ちゃんと弓子さんのと、商店街のじいちゃんばあちゃんがみんなに配ったチョコくらいだと思う」
「――、そっか」

 ぽつりとこぼしてケーキの箱に触れる一騎の横顔は、少しだけゆるんでいる。
 ――今年はきっと、熱心に総士を見ている人間ほど、彼にチョコレートを渡そうとはしないだろう。そして総士も、例年通り受け取らないだろう。
 そう思ったが、これは剣司が告げることではない。告げなくても、わかることだ。
 ――ああ、早く俺も、咲良と衛一郎のケーキが食べたいな。
 なんて思っていたら、手元のスマートフォンが震えた。メッセージアプリを開けば、咲良から送られてきた「帰ってらっしゃい」の一言が表示される。まるでテレパシーみたいだと思いながら、「すぐ帰る」と短い返信の言葉を打った。

「一騎、うち、用意できたみたいだから帰るわ」
「ああ。話に付き合ってくれて、ありがとな」

 じゃあ、と、会計をしようとしたら、「これくらい、いいよ。俺は剣司に少しずつお礼を返してるところだから」と言われてしまった。なんのお礼かなんて訊かなくても、なんとなくわかった。総士と一騎を出会わせた礼、なのだろう。
 そんなの、もうもらっている。ふたりが幸せに過ごしてくれれば、それがいちばんのお返しなのだ。
けれど、強く固辞するものでもないか、と、剣司は「ありがとう。また何か差し入れる」と肩を竦めて財布をしまった。


 からからと鳴る引き戸を開けると、ひゅう、と、冷たい風が頬を撫でる。思わず、さむ、と、身を縮こまらせたところで、「剣司?」と聞き慣れた声がした。前を見やれば、総士が門をくぐったところに立っている。ちょうど入れ違いとは、タイミングがいい。

「おつかれ、総士」
「ああ。剣司も……、夕飯か?」
「家で俺のためにケーキを作ってくれててさ」
「ああ……」

 それだけで総士はおおよその流れを察してくれたらしい。「それは美味しいだろう」と言いながら微笑む。
 ――やわらかくなったな、と、思う。
 剣司や咲良のように近しい友人にはもともと笑顔を見せてはいたけれど、最近の総士は、まとう空気からやわらかい。自分も咲良といるとき、咲良も自分といるとき、衛一郎といるとき、こんなふうなのだろうか。そうだといい。
 ちらりと視線をやった総士の腕のなかには、ちいさなアレンジブーケが、だいじそうに抱えられていた。チョコレート色にピンクと白の――コスモスやバラだろうか。おそらく一騎へのプレゼントなのだろう。これをもらって、うれしそうにしている一騎の顔が目に浮かんだ。

「――一騎、お前のこと待ってたから、早く行ってやれよ」
「ありがとう。剣司も早く帰ってやれ」
「おう、走って帰るよ。またな!」

 手を振って店のなかへ入っていく総士を見送り、自分も、足早に家路をたどる。あかりの灯る家の、扉を開けたその先には、自分にも、だいじなひとたちが待っている。



2021.02.16 文庫ページメーカー初出