バレンタイン・アフター

 閑散期の午後、喫茶楽園のなかはまさしくその名の通り、総士にとっての楽園と化していた。
 立春も過ぎ、わずかに春を感じるようになったものの、まだ外は肌寒く、天気が不安定な日も多い。今日も太陽は出たり隠れたりで、天気予報では雨が降る時間帯もあるとのことだった。おまけに平日だということもあり、街の人出は少ない。
 楽園のなかは、ランチタイムこそ常連客が席を埋めていたが、午後二時を過ぎたいまは総士ひとりだ。
 少しだけ開けられた窓の向こうから、さわさわと風に揺れる木々の音と、そのあいまを飛びまわる鳥のさえずりだけが響いている。ときどき遠くひびく何かを叩くような音は、海を渡る船の立てる音だ。そこに、トントンと一騎が厨房で仕込みをしている音が重なる。きもちがいい。この、穏やかで静かな空間をひとりじめできるというのは、このうえない贅沢であった。
 総士はカップのなかに半分ほどになった珈琲をひとくち飲み、ほっと息を吐いてから視線を上げる。
 なかば、総士の特等席となっているカウンターの端の席には、先日、総士が持ってきたチョコレートコスモスとバラのブーケがこぢんまりと飾られている。その名の通りにチョコレート色をしたコスモスに、淡いピンクと白のバラをあわせたそれは、一騎へのバレンタインプレゼントとして作ったものだった。一騎の家ではなく店に飾ったのは、ここで働く一騎を、この花越しに見たいと、総士が思ったからなほかならない。そういう意味では一騎へのプレゼントではなく、総士自身への褒美であったかもしれない。
 一騎は花が似合う。甘い香りとコントラストの花のむこうに、楽しそうな顔で食材を切る一騎を視界におさめ、総士は無意識に頬をゆるませる。穏やかなひかりを称える榛の瞳、ゆるやかに弧を描く口元、白い肌、艶やかな黒髪。華やかな色も似合うけれど、今日のように、落ち着いた色合いも合う。我ながら良いアレンジだと思いながら見つめていると、ふと視線を向けてきた一騎が、ぱちぱち目を瞬かせたのち、ふにゃ、と笑み崩れた。

「総士のその顔、すきだなぁ」
「……顔?」
「幸せそうな顔してた。他にお客さんがいたら困るくらいかわいい顔」
「…………僕はお前をかわいいと思って見ていたんだ」
「そっか。おたがいさまだな」

 などと言って、一騎は機嫌良さげに作業を再開する。こういうとき、あっさり切り上げるのはいつも一騎のほうだ。こちらが照れていようが期待していようがお構いなしだ。気づいているのかいないのか――いないのだろう。人の機微に敏いのか、疎いのか、ときどき分からなくなる。総士が苦しいとか辛いとか、寂しいとか、そういう負の感情を抱いているときにはすぐ反応するくせに。――ああ、つまりそういうことだ。総士が「大丈夫」なとき、一騎は鈍感になる。思えば総士の好意にだって――総士も自覚はしていなかったから人のことは言えないが――気づいていなかったのだから。

「一騎」
「ん?」

 首を傾げる一騎を手招きする。きょとんとしつつも作業を中断し、手を拭いて寄ってくるところが、無性に愛おしい。なんだ、と、一騎が言うより先に立ち上がってカウンターのむこうへ乗り出し、ちゅ、と、軽い音を立てて、無防備なくちびるにキスをする。
 間近で反応をうかがうように見つめていると、一騎は、ぽかん、としたのち、みるみる顔を赤くした。首から耳までも赤い。総士からの不意打ちのスキンシップに弱いのは把握済みだが、面白いくらい真っ赤になってくれるものだから、ふは、と、つい笑いがこぼれた。

「な、なっ、なんだよ……!」
「いや、仕返しだ」
「仕返しって……俺なにかしたか?」
「したな。僕を期待させておきながら放置した」
「期待……?」

 何のことだと、本当にわかっていないふうに首をひねるものだから、今度こそわかりやすく、「もう一度だ」と言いながら、総士は一騎のシャツの袖を引っ張った。



2021.02.15 文庫ページメーカー初出