触れた体温は2℃高い

 総士の寝起きが悪いというのを知ったのは、彼が島に戻ってきてからだ。
 こどものころ、総士はときどき真壁家に泊まることがあったが、他人の家に泊まるという緊張からなのか、それともお邪魔している先でちゃんとしないといけない、というこどもながらの意識があったのか、朝は一騎とともにしっかり起きていた。だから、総士が帰ってきて初めて彼の部屋に泊まった翌日の朝、一騎が見つめようが触ろうが、ぐずったように唸って一向に起きようとしない彼に驚いたのだった。そんなときの総士は本当に無防備でかわいくて、一騎はなるべく彼の眠りをさまたげないようにしながらも、寝ぼけるさまをながめるのが朝の楽しみになった。
 今日も今日とて、引いたカーテンの向こうから太陽のひかりがこぼれ始めているが、総士は夢の中だ。目覚まし時計はすでに止めてある。そもそも今日は土曜で学校は休みだし、アルバイトも検査もないから早く起きる必要はない。昨夜は史彦が夜勤で不在だからというのを理由に少しはしゃいでしまったから、総士が起きられない理由の一端は一騎にある。総士が眠りたいだけ寝させておくつもりだった。
 かちこちと古い目覚まし時計の針が動く音、窓の向こうで雀の鳴く声、総士のちいさな規則正しい寝息。静かでゆるやかな朝に聴こえる音はそれだけでしあわせを刻む音になる。けれどあとなにかひとつ足りない気がして、あ、そうか、と一騎は同じ布団にもぐりこんでいる総士のからだを自分の胸元にいっそう抱き寄せてみた。密着したからだと背中にまわした腕の向こうで、とくとくと心臓の音が響いている。人ではないからだを島のために使いたいと言うのと同じ口で、人として生きたいと願う総士が、まちがいなく一騎と同じ時間を刻んでいるあかしだった。それを感じると一騎はあふれんばかりの愛しさに胸のうちを詰まらせてしまって、深い安堵の息を肺の底から吐き出すしかなくなる。
 総士のからだはあたたかい。総士に言わせれば一騎のほうが筋肉量が多くていっそ熱いくらいだということだが、一騎にはいまいちわからない。
 島に帰ってきて一騎とからだを重ねるような関係になってからというもの、総士は、あたたかいと言って――これは総士なりの照れ隠しが半分混じっていると一騎は疑っていない――一騎に触れたがる。ことさら寒がりである総士は、秋が深まり冬の入り口に立つここ数日、その行動が顕著だ。寒がるからだを抱きしめては、一騎は「総士のほうがあたたかいんだけどなぁ」と思っているが、一度それを口にしたら「いやお前の方が」と、きりのないやり取りが繰り返されてしまった。一騎には特に競う気はないので、それ以降、口には出していない。おたがいの温もりで寒い冬に暖が取れるうえ、普段は自ら積極的に身を寄せてくることのない総士が猫のように首元になつくのがかわいい。一騎にはそれがすべてだ。
 今朝も冬を感じさせる、きん、とした冷たさが布団の外には満ちている。ほとんど頭まで布団の中におさまっている総士がそれでもなお、抱き寄せた腕の中で時折もぞもぞと頭を動かしては一騎の胸にすり寄ってくる。もっと内へ、もっとあたたかいほうへ潜りこもうとするような仕草に、隙間なんてもうないのになぁと、ゆるんだ笑みがこぼれた。なだめるように髪を梳き、丸まった背中をてのひらで撫でさすると、満足げな吐息が首元に触れた。眠っているはずなのに意思を持っているような反応がおもしろい。
 総士と言葉を交わす量は圧倒的に前より増えたけれど、言葉のないコミュニケーションだって確かにあるのだと一騎は思う。がむしゃらに言葉を探して「会話」しようとしていたころもあったし、それも間違いではなかった。だが、すべてを言葉にする必要がないことも――できないことも、今は知っている。こんなふうに、ただ、おたがいの温もりを交わし合うだけで見えてくる真実もある。
 そうやって一騎は、小一時間ほど総士の寝顔と寝息を堪能していたが、ぼんやり時計に目をやって、そろそろ父さん帰ってくるな、と気づいた。夜勤明けで腹を空かせた史彦が帰ってくる前に、朝食は作っておかなければならないだろう。どのみち総士も、朝食が朝食と呼べる時間には起こしてやらなければならない。ひとではないからだとなっても、彼はひとと同じリズムで生活を送っているし、そうしないと体調も崩す。二年の空白で少しばかり狂ったからだと時間の感覚を取り戻すために規則正しい生活を送るように、という千鶴からの言いつけもあって、一騎は自分に見える範囲で総士の生活に気を配っている。
 名残惜しく思いながら、温かなからだから腕を解く。そっと布団から抜け出すと、わずかに入りこんだらしい外気に総士が「んん……」と声を零し、布団の中へもぞもぞ丸まって消えていった。そんなに布団かぶったら息苦しくないだろうか、と思ったものの、その動きがなんとも言えず可愛くて仕方なかったので、一騎は頬を緩ませてから、総士を起こさないようにこんもりとした掛布団を軽く撫でて立ち上がった。
 裸足で踏み出した廊下の床はひんやりとしていて、思わずふるりと身が震える。あまり音を立てないようにして居間に向かい、一騎は数日前に出したばかりの炬燵のスイッチを入れた。総士はきっと起きたらすぐに入りこむから、あたためておかねばならない。
 台所は廊下よりも冷えていたが、湯を沸かしながら味噌汁の具材を切っているあいだにコンロの火や湯気の熱が伝播してぬくもってくる。流し台の上にある窓のむこうはすっかり明るくなっていた。あわただしい平日とはちがう、ゆるりと朝のおとずれを感じるこの時間が、一騎はきらいではない。そう感じるようになったのは、たぶん総士が帰ってきてからだ。かきまぜる卵のあざやかな黄色が、朝のひかりを受けてすこし色を変えるのが、今の一騎の目にははっきりうつる。これをきっと、おいしい、と言って食べるであろう総士の顔も。
 今日の朝食は根菜の味噌汁に焼き鮭とだし巻きだ。ゆうべ総士がおいしいと言っていた煮物も少し残っているから、食べたいと言えば添えよう。総士は朝はあまり胃に物が入らないタイプだが、休日の朝に一騎の家でゆっくりと朝食をとるときだけは、三、四品でもすべてたいらげる。一騎はそれが自慢だ。誰に言うわけでもないけれど。
 総士がもくもくと食べる姿を想像しながら、一騎は卵焼き器の上に流した卵を菜箸でくるりくるりと巻く。そのとき、とすん、と、襖を閉めるような音がして、ぎ、ぎ、と古い床板の軋む音が近づいてくるのが聞こえた。総士が起きたのだろう。緩慢な音からして、まだ夢のなかに半分足をつっこんでいるにちがいない。
 そのまま洗面所に向かうかと思われた足音は、しかし、きし、という畳を踏む音に変わった。背後で、しゅ、と響いた微かな音は、畳の上を素足が撫でるそれだ。卵を巻き終わった一騎が振り返るよりすこし早く、ついさきほどまで感じていたはずのぬくもりが背中にぺたりとくっついた。
「総士?」
 背後のぬくもりはそろりと腕を伸ばし、一騎の腹あたりにしがみつく。コンロの火は消していたので問題はない。菜箸を持ったまま一騎は首だけで背後をうかがおうとするが、視界にはやわらかな亜麻色の前髪がうつるだけであった。一騎の左肩に額をぴったりと押し当てている総士は、んん、とも、うん、ともつかない声を出す。これはどう見ても寝ぼけている。
「総士、起きたなら顔洗ってこいよ」
「ん……」
 頷いているのかいないのか、ぐ、と、肩に押し付けられている額が更にぐりぐりと食い込んだ。今日はどうにも重症らしい。寝ぼけた総士はたいてい不明瞭な声で一騎の呼びかけに応えながらうとうとしているか、起こそうと触れた手や袖を離さなくなる。だがここまでくっついてくるというのも珍しい。やっぱり寒いからだろうか。それなら冬に感謝しなければならない。
 あまい体温はここちよく、一騎は肩に乗せられた総士の頭に少しだけ頬をすり寄せてみる。一騎の家に唯一置いてある特にこだわりはないシャンプーのにおいがした。卵焼き器の上で余熱によってあたたまっている卵の出汁や味噌汁のにおいとはまったく質はちがうはずなのに、まざりあうと何とも言えずいいにおいだった。
「そーし」
「ん……」
「そぉし」
「んぅ……」
 不明瞭な総士の声とあまいにおいにつられるように、一騎の声帯もすっかりゆるんでしまったようだ。まのびした声で呼んでも呼んでも、総士は覚醒しない。それなのに一騎の呼びかけに律儀に返ってくる声が嬉しい。総士が見えて、総士の声が聞こえて、体温がそこにある。たまらなくしあわせだと思った。そのおもいのまま、一騎は目を伏せて総士の前髪に鼻先をすり寄せてささやく。
「そうし」
「ん……?」
「すきだよ」
「ぅん……、……っ」
 ぴく、と、密着していた総士のからだが跳ねた。そして不自然に固まる。感じる体温が何度が上がったのは、たぶん気のせいじゃない。そうし、と、もう一度呼びかける前に、そろそろと総士のからだが一騎から離れた。一騎は残念に思いながらも振り返る。
「起きたか?」
「お……、起きて、いる」
 声はすこし掠れていた。乾燥した空気のせいか、もしくは昨夜はしゃぎすぎたせいか。なんとなく滲んでいる色からして後者が濃厚だ。後で湯にはちみつとレモンを入れたものをつくってやろう。そう決めて、俯いている総士の髪からのぞいた真っ赤な耳に目を細める。
「おはよう、総士」
「……おはよう」
 にらむような上目遣いですらとてもとてもかわいくて、一騎は「うん」とうなずきながら、今日いちばんの笑顔を浮かべた。


 その背後、居間の戸口で「ただいま」の「た」の口を開けては閉じてを繰り返したのち、まぁまず手を洗ってくるか、と洗面所にむかっていった史彦がいたことにふたりが気づくのは、その五分後のことである。