その朝は、きっと青空だった

 まだ陽も差しこまない時間、そうっと目を開けた総士は、目の前に閉ざされたままの白いまぶたがあるのを視界に捉えて、ほうっと息を吐いた。いつも総士より早く起き出す一騎は、まだ夢のなからしい。
 起こさないように静かに上体を起こし、枕元のデジタル時計を確認すると、午前五時過ぎだ。一騎は、自分の家にいるときはだいたい五時半を目安に起きる。しかしこの、総士の部屋に泊まったときは、早くても六時過ぎを目安にしているようだ。ここには真壁家のような台所はなく、朝食をつくる、ということがないからだろう。
 総士は時間だけ確認して、再びゆっくりベッドに身を横たえた。そして、総士のほうを向いて眠る一騎の寝顔をじっと見つめる。こうして一騎の寝顔を見るのは、久しぶりだ。
 一騎とともに眠るとき、たいてい総士より一騎のほうが先に目覚める。それは、一騎のぬくもりがそばにあると、どうしても総士の寝起きが悪くなるからだ。総士とて、早起きができないわけではない。常日頃、ひとりでアルヴィスの自室で寝起きするときには、どれだけ遅く寝ても、眠くても、朝はひとりでに起きるし、学校や仕事に出るころにはしっかり覚醒している。
 だが、一騎のそばはだめだ。いつまでも安心して眠っていたくなってしまう。だから、こうしてふたりで眠りに就いた朝、総士の寝顔を一騎が見ていることはあっても、総士が一騎の寝顔を見ることはあまりない。だからつい、まじまじと見つめてしまう。
 ――かわいいな。
 そう思い、頬が緩む。まだおとなと言い切ることもできないが、こどもとも言えなくなった過渡期にある一騎の顔は、なお幼さを残している。やわらかくて白い頬、わずかに開いて呼吸する薄いくちびる、閉ざされたまぶたを縁どる長くて黒い繊細なまつ毛、あどけない寝顔。つい触りたくなって手を伸ばしたが、起こしてしまう、と思い、ひっこめる。一騎は通常よりも運動能力が発達しているゆえに、からだの感覚も鋭敏だ。それこそ、視界がほとんどなくても、足の裏の感覚を頼りに全力で走れるくらいに。だから、眠っていても、人の手が触れたことに気づいて起きてしまうだろう。
 ――いや、しかし……少しだけなら……。
 まだもっと寝顔を見ていたいと思うのに、触れたい、という欲求にも抗えない。総士はそうっと手を伸ばして、一騎のやわらかな頬を掌で包むように触れた。案の定、「んー……」と一騎が唸るような声をあげる。だめか、起こしたか、と思うが、一騎はそのままふにゃふにゃとうれしそうに表情をやわらげて、再び規則正しい寝息を吐き始めた。
 その寝息にまじって、そぉ、し、と、ゆるみきった声が落ちる。
 ――……僕だと、わかっているのだろうか。
 まどろみに一騎が総士に触れるとき、眠っているのに、総士にはそれが一騎だとわかる。跳ねのける必要のないもので、身を任せてよいものだと、眠りのなかにあっても判断し、安堵する。一騎も、そうなのだろうか。これは――僕にだけ、なのだろうか。
 独占欲、ともはっきり言えない。けれど、〝僕にだけ〟と考えると甘美な痺れがかけめぐる。これはきっといけないことだ、と、思うのに、一騎に触れたてのひらは熱をもつ。一騎もこんなふうに思うのだろうか。総士の眠そうな顔がすきだという彼は、総士が自分のそばで安心してくれている、と、思うと、うれしくて、幸せなのだという。総士だって、そうだ。一騎のことを守りたくて、けれど一騎だけを守ってやることはできないこの手が、一騎をかなしませ、傷つけ、戦いへ駆り立てるこの手が、それでも一騎にとって安らげる温度をまとっているのなら、それはとても、幸せなことだ。
 ――かずき。
 堪らなくなって、てのひらをすべらせ、一騎のまるい後頭部をなでる。幼いころとはちがう、成長して逞しくなってきたからだの一部だというのに、てのひらにしっくりと馴染むそのまるさが、愛しくて、庇護欲を駆り立てられる。
 引き寄せて口づけたい欲求は抑え込んで、やわらかな髪の毛を指先でたのしむ。もうここに至って、起こしてしまうかもしれない、という気遣いはなくなっていた。そもそも、寝顔を見たくて起こさなかっただけで、真の総士の目的は、起こすこと、起こした先にこそあった。
「うぅ……ん」
 一騎がもぞもぞと動いて、自分を撫でる総士の手に、頭をこすりつける。もっと、とねだられているようで、総士はちいさく笑んで、ことさらやさしく、ゆっくり、一騎の頭を撫でてやる。――総士がいつも、一騎にしてもらっているように。
「かずき」
 意図せず零れた声は、自分でも笑いたくなるほどにあまったるい。ここに鏡があったなら、誰にも見せられないくらいとろとろに緩みきった顔が映ったことだろう。けれど鏡はなく、かわりに、この表情を映すのは――。
「……そぉ……し……?」
 ふるり、と、黒いまつ毛が揺れて、ゆっくり開くまぶたのあいだに、榛の瞳がのぞく。ぼんやり潤んだひとみに、案の定、ゆるんだ自分の顔が映される。一騎は総士のひとみを夜明けのようだ、という。まだ陽が顔を出す前、水平線をわずかに橙色がふちどりはじめ、その明るさに、濃紺の夜空がじんわりと滲んで溶けだす、あの狭間の色だという。それならば、一騎のそれは、沈む前の太陽を砂糖にひたして煮詰めて溶かした色だ。甘くてやさしい色なのに、触れれば焼かれてしまうほどに熱い。穏やかなくせに、どこまでも諦めない、果てのない、いのちの色。
「……かずき」
 おはようの代わりに名前を呼べば、一騎がぼんやりとした表情をふわふわと微笑ませて、「そうし」と呼び返した。それを聞いた総士は、今度こそ抑えることなく、後頭部に回したままの手に力を込めて、一騎の顔を引き寄せ、みずからも近づく。わずかに仰向かせた顔を包むように口付ければ、まだ眠たいのだろうとわかる、こどものように高い体温が触れ合った。
 しばらくして顔を離すと、きょとん、と、していた一騎の顔が、暗がりでもわかるほどじわじわ赤くなっていく。
「そ……、そ、し、な、なんだ……? ねぼけてるのか……?」
 どちらかと言えば、まだ眠りの淵にいるのはお前のほうだ、という言葉はのみこんで、総士はほほえんだ。

「誕生日、おめでとう、一騎」

 え、と、一騎が目を見開く。
「あれ……? えっと……、きょう……?」
「お前はほんとうに自分のことに無頓着だな」
 あれだけ真矢やカノンたちが、一騎にばれないように、と、こそこそあれこれ準備をしていたというのに、ばれるもなにも、当の本人はすっかり自分の誕生日など忘れていたらしい。昨夜、部屋に泊まりに来ないかと誘ったときも、特に何かを気にしたふうではなかったのも、そのせいだろう。だが、忘れてくれていたほうが、驚かせ甲斐はある。真矢たちが昼からサプライズパーティーを企画しているのに、誕生日を自覚させてしまったことは申し訳なく思うけれど、パーティーまではちゃんとそのことは誤魔化しておくからゆるしてほしい。
「――ありがとう、一騎。お前が、ここにいてくれて、うれしい」
 ひとつひとつ、重ねるように、総士は言った。
 島へ戻ってきて、一騎の誕生日を祝うのは初めてだった。――つまり、再び一騎とともにいるようになって、互いに素直な言葉を伝えられるようになって――初めての誕生日だった。
 だから、どうしても、いちばんに言いたかった。
 ふたりだけのときに、言いたかった。
「たまたま、お前は、僕と同じ時代に、僕のいる島に、生まれてくれた。僕に出逢ってくれた。それがほんとうに、うれしい。――ありがとう」
 ちゃんと伝わるだろうか、と、思いながら告げた言葉を、一騎は目を瞬かせて聞いていた。そして、きゅっとくちびるを噛んだと思うと、くしゃくしゃに顔をゆがませた。
「……おまえ、それ、だめだ」
 何か傷つけるようなことを言ってしまったのだろうかと総士がひやりとするより先に、一騎は、未だ一騎の頭を撫でていた総士の腕を取って、ぎゅうっと抱き込むようにする。くしゃくしゃの顔に、ぽろぽろと涙がつたうのを見て、けれど、それが、傷つけたあかしではない、と、正しく受け取った総士は、そのまま一騎を引き寄せて抱きしめた。
 ――ああ、一騎を泣かせている。
 傷つけるのでも、かなしませるのでもなく、泣かせている。それがどうしてこんなに、愛しいのだろう。
「そうし……、そうし」
「ああ、一騎」
「おれも、うれしい。ここにお前がいて、お前がいるところに、俺もいられるのが、うれしいよ」
 ここにいたいんだ、と、一騎が言って、総士はぶわりと込み上げるよろこびを抑えきれずに、一騎を抱きしめる腕にめいっぱい力を込めた。いなくなりたいと願った彼が、ここにいたいと言ってくれる。総士のそばに、いたいと、言ってくれる。ここに生まれてきて、総士と出逢ってくれた、その偶然を、めぐりあいを、うれしいと言ってくれる。じんわりと眦に涙がにじんで、総士はぎゅうっと目を閉じた。
 しばらくそのまま抱き合っていると、一騎がごそごそと身を捩り、わずかに緩んだ総士の腕から身を起こし、覆いかぶさると、こつん、と、総士の額に自分のそれをくっつける。互いに涙の膜が張ったひとみが目の前にあって、すこしだけ、照れくさくて笑ってしまう。一騎が目を細めて、ふ、と、息を吐いた。
「いつもさ……、お前は、俺の先に行くんだ、って思っていたんだ。隣に立っても、立てるようになっても、どこかで、お前は俺を置いて行くんだと思っていた。だけど、生まれたときだけは、違うんだな。俺のほうが、先に世界を見たんだ。お前が生まれてきたときに、ちゃんと守るための準備ができるように、早く生まれてきたのかな……、そうだったら、いいな」
 ――たった、数ヶ月の差だ。
 自分たちは、人工子宮から生まれた。両親の遺伝子をもとに、片やフェストゥム因子を、片や瀬戸内海ミールの因子を融合させ、両親の願いや愛情とともに――また一方で、この世界で戦って生き抜き、この島を守るために、――世界やおとなやあらゆるものの、逃れきることはできない思惑や呪縛、切羽詰まった祈りのなかで、生まれた。生まれる時期にはきっと、各々の因子との融合率や、胎児としての成長速度が関係している。
 仲の良かった親たちが、子をもうけると決断したとき、もしかしたら、そこには、互いの子を同じ時期に生まれさせ、ともに育ってほしいという想いがあったかもしれない。けれど、総士はこの島に、他にはない、ミールの因子を遺伝子レベルで融合させた存在だ。イレギュラーは多く、生まれる日を正確に決められたわけではないだろう。だからこそ、偶然なのだ。生まれることができたのも、一騎が先に生まれて、総士が後に生まれたのも。そこに意味づけをすることに意味はない。――だが一騎は、うれしそうに、そうだったらいいな、と言う。先に生まれたのが、総士を守るためだったら、いいな、なんて。
 どうしてそれがこんなに、苦しくて、うれしいのだろう。
「――生まれるのが、先か、後か、なんて、お前や僕の在り方に、関係はない。だが……、もし、お前がそうだと言うのなら、僕はきっと……、お前がひとりでいるのを見ていられなくて、追いかけてきて、しまったんだ」
 顔のそばに置かれている一騎の右手に、自分の手を這わせ、左頬を寄せる。あたたかい。一騎は息を呑んで、それから、ぐっと眉を寄せて、総士の胸のなかに倒れ込んでくる。ずしりと質量をもったからだが覆いかぶさって、重いけれど、その重さが愛しい。肉体がある。温度がある。それを感じるための自身の肉体も、ここにある。
 ――ああ、そうか。
 一騎のそばで目覚めてあんなにも心地よく、榛のひとみを見てあんなにもうれしくなるのは、きっと、生まれたとき、そうだったからだ。この世界で産声をあげるとき、おそろしくてたまらない、何も知らない世界で息を吸い込んだとき、そこに、先に、一騎がいたから。大丈夫だと、俺がここにいると、一騎がそこに、いてくれたから。
 だから、目を開くのは、こわくなくなったのだ。この世界で歩くのを、おそれないですむのだ。
「一騎」
「総士」
 名前をよびあって、抱きしめ合う。十八年前の今日はできなかったことを、今はできる。
 もう、互いに、ひとりではない。



 おめでとう、ありがとう。
 今ここに、ふたりでいることを、ふたりで在ることを確かめるように、飽くこともなく抱きしめ合った。