強く在らねばならないと、思っていた。
dozens of times
「皆城くんて、アルヴィスで会うとき、いつも制服着てるよね」
ロッカールームを出たところでばったり会った真矢と一騎は廊下を歩きながら、ふとそんな話になった。
今日は敵の襲来がなかった。時間割にそってアルヴィスで訓練を行い、なにごともなく一日が終わろうとしている。一騎も真矢も互いにすでに制服から私服に着替えていた。
一騎たちに支給されている制服は、基本的に地下のアルヴィス内部でのみ着用が認められている。特に規則があるわけではないが、地上の生活のなかで制服を見かけることはほとんどない。おとなたちも一騎たちも、同じように、ロッカールームで着替えをするのが常であった。しかしここ数ヶ月の総士の姿を思い浮かべてみると、確かに、アルヴィスのなかで出会うときにはもうすでに「制服でいる」ことのほうが圧倒的に多い。一騎たちの利用するロッカールームには確か、総士の名前が書かれたロッカーが存在したはずだ。しかしそこで居合わせたことはない。
「あ、」
なぜだろう、と考えてすぐに思い至った。首を傾げる真矢に、「あいつここに住んでるから」と言えば、そうなの、と、今知ったというような反応が返って来る。一騎とて、先日総士の部屋に招かれるまで全く知らなかったのだ。おそらくこどもたちのほとんどが知らないのだろう。
敵の襲来によって破壊された家屋はいくらかあり、そこに暮らしていた住民たちは各々新しい家を宛がわれるまでアルヴィス内で寝起きしていた。しかし総士はちがう。アルヴィスで暮らしていると聞いてから、一騎はふらりと皆城の
果たして、皆城の邸は昔のまま、変わらずそこにあった。洋風の、「邸」と呼ぶにふさわしい外観、煉瓦の塀に囲まれた広い庭つきの家。おさないころ、父に連れられてたびたび訪れていたそこは、今はしん、と静まりかえり、伸びてきた蔦がわずかに鉄製の門扉へ巻き付いていた。花が植わっていたはずの花壇には草が伸び放題になっていて、ふたりで駆けまわった庭は荒れてしまっている。人の手が入っていないことはあきらかだった。主をうしない、総士も帰らなくなって、そんなに時間は経っていないはずだった。それでも、人の住んでいない家というのはこんなにも早く、劣化していってしまうものなのか。どうして、総士は帰らないのだろう。こんなに侘しい我が家を、彼はどうおもっているのだろう――。
「一騎くん?」
「あ……」
総士の家を思い出してぼんやりとしていたらしい一騎の顔を、真矢がのぞきこんでいた。「ごめん」と謝れば、なんでも見透かしてしまう彼女のひとみが一騎をまっすぐとらえ、「皆城くんのこと、考えてたでしょう」とちいさく笑む。話そう、言葉で、話をしよう、と、そう一騎と総士に教えてくれたのは彼女でありながら、真矢は言葉にしないこともすべてわかってくれる。それはとても、心地が良い。けれど彼女は、わかってくれる、だけではない。言葉にして伝えて、一騎たちがどうしたいのか、何を考えているのか、一騎たち自身の言葉を引き出そうとしてくれる。たどたどしい言葉であっても、受けとめてくれる器を両手で差し出されているような安心感に、自然と口がひらいてしまう。
「総士の家、なくなったわけじゃないんだ。だけどあいつは、ここに住んでる。遠見の言う通り、会うたびに制服を着ているのは、あいつの暮らしがここにあって、ここではずっと制服でいなきゃいけないからじゃないかなって……それってすごく、窮屈じゃないかって、思うんだ」
最初の訓練のとき、総士はみんなに制服を着ろと言った。学校ではずっと私服だったから、竜宮島の生活で、こどもたちが制服を着ることはそれまでなかった。みんなが同じものを纏い、それまでとちがう常識のなかで生きていくことを受け入れる。その一歩だと総士に言われても、はじめのうちはただ違和感しかなかった。今でこそ慣れてきたけれど、好んで着たいと思っているわけでもない。日常から切り離された社会に身を置くための道具であり、日ごろの自分自身を抑制するもの、そんなイメージがずっとある。
「一騎くんは、制服着るの、あんまり好きじゃないんだね」
「……うん」
正確には、好きか嫌いかもよくわからなかった。ただ、ずっとこれを着ていたら、自分というものを忘れてしまいそうな気がするのだ。父とふたりで暮らし、家事をして、学校へ行く。そんなあたりまえの自分のことを、忘れてしまいそうなのがこわい。
真矢は視線を落としてくちびるを引き結んだ一騎にふわりと笑って、「私もね、こわかったよ」と、まるで思考を読んだかのように言った。
「アルヴィスに初めて来たとき、知っているひとたちがみんな知らない服を着て、それが当たり前みたいな顔をしているのが、すごくこわかった。だから……こんなのただの服だ、って、私たちを変えるような、何かじゃないって、無意識に思おうとしてたのかな」
少し前、真矢は教えてくれた。バーンツヴェックに乗るのもこわかったのだ、と。島に、それまで知らなかったものがあるという違和感、おかしいと感じるきもち。それはみんなが当たり前に感じていることだったはずだ。どれだけメモリージングされていても、それまでの自分たちの常識のほうがまちがっていた、なんて、簡単に受け入れられはしない。――いや、実際、まちがいではなかったのだ。それを忘れてしまわない真矢がいてくれるから、一騎も、みんなも、束の間の平和な日常を愛しいと思える。
「遠見の言いたいこと、わかるよ」
「うん……、でもね、翔子は……すごく、うれしそうだったの」
「あ……」
出てきた名に目をまたたかせる。そうだ。翔子は、初めての訓練でみなが集まったとき、制服は「特別な感じがして好き」とうれしそうにしていたのだ。そういうふうに思うのか、と、一騎は驚いたのを覚えている。
「ロッカーで制服を見て、目をきらきらさせて、みんなと一緒なんだよね、って、すっごく喜んで、真矢も早く着よう、って。アルヴィスで訓練するのも、ファフナーに乗るのも、今まで翔子ができなかった――〝みんなと同じこと〟だったのかな。だから、みんなで制服を着て、そのなかに自分がいるの、すごくうれしかったのかなって、今になって思うの。制服って、ちょっと窮屈で、なにかを縛り付けるようなきもちがするものだけど、人によって感じ方はちがうんじゃないかな?」
「……総士は、どう思っているんだろう」
制服を着て来なかった一騎たちに、着て来い、規律を乱すな――そう強い口調で言った総士は、しかし一騎が制服を着る気になれないとつぶやいたとき、「僕も最初はそうだった」と言ったのだ。
最初。
総士にとって、その最初がおとずれたのは――これまでと違う日常で生きることを受け入れざるを得なくなったのは、いったい、いつだったのだろう?
「皆城くんに、訊いてみたらいいんじゃないかな?」
真矢は何でもないことのように言って、一騎は面食らった。訊いてみたらいいんじゃないかって、そんなに簡単な――いや、簡単なことではないのか? 総士はすぐそこにいるのだ。話したいと思ったら話すことのできる距離にいる。何を、ためらう必要があるのだろうか? もう言葉を交わすことをおそれる必要は、ないというのに。
そうなれば善は急げだと、一騎は足を止めて真矢にほほえんだ。
「俺、総士の部屋に寄ってみるよ。たぶん、もう、帰ってると思うし」
「そっか。じゃあ、私、先に帰るね。……話、できるといいね」
「ああ、ありがとな」
いつも総士と話すきっかけをくれるのは、真矢だ。またねと言って手を振る彼女にちいさく手を振り返して、一騎は覚えたての道を、急ぎ足で進んだ。
総士の部屋は、人が暮らすために設えられた居住区の一画にあった。ただし正確には、アルヴィスのなかで日常的に〝暮らす〟者は想定されていない。何らかの被害によって地上で生活ができなくなった場合に使うという前提でつくられたもの――らしい。アルヴィスは巨大な要塞で、おとなたちですら、その全容を知り尽くしてはいないという。総士以外にも暮らしているひとがいるのかと父に問うと、さきほどの答えが返って来て、戦闘で住む家を失った島民が一時的に避難していることはある、と言われたのだ。つまり総士以外に、ここに暮らしている者はいない。
だからなのか、ただでさえ無機質でだだっぴろいアルヴィスのなかでも、そこはひときわ静かで、人通りなど皆無に等しい。総士が教えてくれた十一歩目の自販機が、ブン、と機械音を立てるばかりである。
――これだって、使うのは総士くらいなんじゃないのか?
ポケットに突っ込んでいた小銭を投入し、地上と変わらない飲料のラインナップをながめた一騎は、しばらく指をさまよわせる。総士は何を飲むのだろう。部屋を紹介してくれたときは一騎のぶんだけジュースを買ってくれたので、総士の好みはわからない。西尾商店で買える瓶入りのりんごジュースを分け合っていたのは遠くおさない日のことである。
悩んだすえ、当たり障りのないミネラルウォーターのボタンを二回押した。一騎も訓練のあとで喉が渇いていたし、なんとなく手ぶらで部屋に行くのは気が引けたのだ。ちょっとだけ意識をして、かぞえながら総士の部屋の前まで歩くと、十一歩では少し足りなかった。総士のほうが背は高いし、意外に大股でがつがつと歩くから、一騎よりも歩幅が大きいのだろう。それにしても、毎回自販機に行くまで歩数をかぞえているなんて、想像してみると、ちょっと、かわいい。まじめな顔をして、勉強にも戦闘にもまったく関係のないことを真剣に考えている総士がいるということに、ほっとする。
「……よし」
わずかな緊張がほぐれたところで、一騎はひとつ深呼吸をして、総士の部屋のインターホンを押した。しばらく待つと、『はい』と、いささか硬い声音が返ってきてどきりとする。いや――まだ総士は相手が自分だとわかっていないのだから、拒絶されているわけではない。
「あ……、あの、俺、なんだけど……」
『……一騎?』
ふっと、総士の声がすこしだけゆるんだ。驚いているようだが、相手が一騎とわかって警戒は解かれたらしい。
『どうした。何か用か?』
「あの……、お前に、ちょっと……訊きたいことが、あって。もし時間があるなら、少し、邪魔しても……いいか?」
よくよく考えたら、お前にとって制服ってなんなんだ、とか、いつから制服を着るようになったんだ、とか、総士からすれば「脈絡がない」と言われそうな話だ。しかしせっかく勢い込んで来たのだから、呆れて追い返されるにしても、一度は挑んでみるべきだろう。
総士はしばらく黙り込んだ。だめなのかな、と思って待っていると、音を立ててドアが開く。現れた総士は、制服をきっちり着込んだままだった。
「なんだ? 今日の訓練に関することか? それとも、昨日の戦闘についてか?」
「いや、その……そういうんじゃないんだけど……」
「では、なんだ?」
総士が想定しているようなことではない、と言い出すのには、すこしの勇気が必要だった。総士は訝しむように首を傾げる。一騎のことを決して問い詰めようとしているわけではないとわかっているが、総士の望む答えを返さねばと、気が焦ってしまう。そんな一騎のようすに気づいたのか、あ、と、総士がちいさく声を出し、「すまない」と目をそらした。
「これでは、詰問しているのと変わらないな。困らせてしまったようだ」
「ちがう、そうじゃない!」
一騎は思わず、苦く笑った総士の腕をつかんでいた。勘違いさせてしまった。総士のことを悪く思ったわけでも、こわがったわけでもないのに。いきなり声をあげた一騎に驚いたらしい総士の、まるく開いた灰色のひとみを見て「ごめん」と謝る。
「たいしたことを、訊きに来たわけじゃないんだ。総士からすれば、答えにくいことかもしれない……でも、気になってたことだったから――」
「……わかった。わかったから、腕を離してくれないか。お前はむかしから、僕より力が強いんだ」
「あっ……ごめん、痛かったか?」
呆れたような総士の口調に慌てて手を離すと、「痛くはないがな」と総士はかすかに笑んだ。
「とりあえず中に入ろう。……水が二本あるということは、お前のと、僕のだろう? まずは飲んで落ち着け」
片手で抱えていたペットボトル二本を指さされて、やっぱり買っておいてよかった、と、一騎は思った。
総士の部屋に入るのはこれで二度目だ。ソファに座るように促されたので、ミネラルウォーターを一本総士に渡してから腰をおろす。総士はデスクチェアに腰かけようとしたので「こっちに来ればよくないか?」と一騎は自分の左隣に手招いた。以前、部屋の説明を受けたときもそうだったけれど、ソファとデスクチェアの高さが違うために、視線が合わせにくいのがどうにも落ち着かなかったのだ。総士は暫しためらうようにしたが、ひとつため息をこぼしたあと、一騎の隣に腰をおろす。
ふとデスクの上を見れば、画面は暗くなっているものの、開かれたままのノートパソコンがあった。
「総士、もしかして、この部屋でも仕事……? してるのか?」
「……まぁ、そうたいしたことはしていない」
戦時下にあっても中学生という身分を与えられている一騎たちのなかで、おとなたちに混じって「仕事」をしているのは総士くらいだ。おとなたちの多くは第一種任務と第二種任務というふたつの「仕事」があって、一方は地上での職業――例えば教師や売れない器屋などで、もう一方がアルヴィスにおけるオペレーターやメカニックなどの業務である。一騎たちも第一種任務としてファフナーパイロットやオペレーター補助を割り当てられているが、第二種任務と呼ばれるものはない。強いて言えばそれこそが、「学生」なのかもしれない。
だが、総士は少々事情がちがう。一騎たちのように時間割のなかに組み込まれているアルヴィス勤務だけではなく、それ以外の時間でも業務をこなしている。おとなたちに指導されながら働くこどもたちとちがい、彼はみずから考え、行動し、おとなたちへ発言する立場にある。学生と、指揮官と、アルヴィス職員の、三足の草鞋を履いているようなものだった。最近では敵の襲来が頻繁になっているせいなのか、学校へ来る頻度は一騎たちよりも圧倒的に少ない。
一騎の父である史彦は、今やアルヴィスの司令官だ。それでも、家に帰ってくれば売れない器をつくり、洗わずに米を炊いてしまう、ただの「父」である。制服なんてもちろん着ては帰って来ない。そのへんに散歩にでも行っていましたと言わんばかりのタンクトップにつっかけで帰ってくる。アルヴィスの仕事を持ち帰っているような姿は、少なくとも、一騎の視界には入っていない。
では総士は? こうして「自分の部屋」という家のなかにいても、総士は制服を着ていて、仕事をしている。いったいいつ、彼は、こころを休めるのだろう?
「……総士って、いつ、制服を脱ぐんだ?」
「は?」
一騎の買って来たミネラルウォーターをひとくち嚥下したばかりの総士が、ペットボトルを持ったままぽかん、と口を開けた。せわしなく瞳がまたたいている。
「だってお前、地下にいるとき、いつも制服じゃないか。部屋に帰ってもこうやって制服で仕事してて……前に、制服は、それまでとちがう常識のなかで、生きていくことを受け入れる一歩だって、言ってただろ。それじゃあずっと総士は、いつもとちがうままなのか?」
総士は一騎の言葉に一度目を伏せて、「それが訊きたいことだったのか?」とすこし硬い口調で言った。
「ちょっとちがうけど……、お前は、なにをおもって制服を着るんだろうって思ったんだ。最初は俺とおんなじで、なんとなく嫌だったって言ってただろ。だけど今は……ずっと着てる。お前がロッカーで着替えるの見たこともないし……お前がいつから、制服を着てたのかも、俺は知らない」
「……そんなことを、知りたいのか」
「知りたいよ。そんなこと、じゃない。総士のこと……知りたい」
むしろ――一騎たちよりも先に真実を知って、おとなたちのなかで生きてきた総士の姿をこそ、一騎はなによりも知りたかった。そこにこそ、総士が一騎たちに対して距離を置き、異なる立場で接しようとする理由があると思ったし、乙姫が教えてくれた幼いころの総士のおもいが存在しているのだと思えた。そのころの片鱗を総士が見せることがあまりないからこそ、なおさら。
一騎がじっと目をそらさないので、総士はすこし困ったような――いや、弱ったような顔をした。答えたくないというわけではないのだろう。最近、こういう総士の表情を見ることが増えた。
総士はおそらく、自分自身のことを他者に伝えるということが、あまり得意ではないのだと一騎は思う。それは、一騎も同じだったから、よくわかる。
総士はいたたまれなくなったように一騎から目をそらして、ゆっくりと口を開いた。
「……なにも僕はずっと制服でいるわけではない。地上に出るときは着替えるし、もちろん寝るときも着替えている。アルヴィス内に部屋があるから、敢えてロッカーを使う必要がないというだけだ」
「だけどお前、最近はあんまり学校にも来ないだろ……寝るときなんて当たり前だと思うし、俺が言いたいのは、そうじゃなくて……」
「――一騎、僕は、嫌々ながら制服を着ているわけじゃない。これはけじめだ」
言い募ろうとした一騎を制すように、総士は言った。
「おとなたちが地上と地下での生活をはっきり区別して生きてきたように、たとえ今が戦時下で、地上にいても平穏なときばかりではないとしても、僕は今まで続いて来た日常のなかに、制服を持ち込むことはない。学校にこれで行くことなど決してしない。だが逆に、これを着ているとき、僕はあの日常のなかにはいない。お前たちのことをクラスメイトやおさななじみだとは言わない。僕は指揮官で、お前たちはパイロットだ。そう見なして接する。そして僕自身、僕のことを中学三年生のこどもだと――おとなに庇護され、甘えがゆるされる立場の人間だとは思わない。僕はお前たちのいのちを預かり、島の多くのいのちを預かっている。それだけの責任がある。それを意識し続けるための、けじめだ」
――お前にとって結局、俺も遠見も、ただの戦力のひとつなんだろう?
先日、一騎自身が総士に伝えた言葉だ。総士にも限界がある。何もかもできるわけじゃない。一騎がマークザインを以ってしても、ひとりきりで島を守ることができないように、総士も、たとえどれだけ仲間たちのことをおもっていたとしても、誰かを贔屓することも、誰かのためにみなを犠牲にすることも、できはしない。
その総士の立場を、総士自身が忘れないための道具。きもちを切り替えるための手段。それは理解できる。けれど、隣に、すぐそばにある灰色のひとみが、あまりにも遠いものに感じられて、一騎はきゅっとくちびるを引き結んだ。
総士は一騎の「いつから制服を着ているのか」という言葉に答えをくれなかったけれど、一騎が総士に傷をつけてしまったあのころには、すでに島の事情を知っていたことは確かだ。それだけおさないころからずっと、自分を律して、意識して地上と地下で自分のおもいを切り分けてきたのだろうか。
気づけば、一騎は左手で、総士の制服の袖口を握りしめていた。
――脱がしてしまいたい。切り離してしまいたい。総士ではなく一騎の意思で、総士を縛り付けるものを解いてしまいたい。
俺ひとりで戦いたいと父に告げたときとおなじおもいが、一騎のなかにめぐる。誰も死なせたくない。誰もかなしませたくない。
けれど、総士が頑なに自分を律して守ろうとしているのは、ほかでもない、一騎たちだ。わかっている。――わかっているから、きつく握った制服の袖口を、一騎は乱暴にあつかうことなどできなかった。これは総士にとって鎧で、それと同時に、総士がだいじなものを守りたいと願っている、あかしだ。
「……一騎、袖が伸びる」
「……うん」
困ったような総士の声がして、一騎は視線を落としたまま空返事をする。しばらくして、仕方がないなとでも言いたげなため息が落ちた。呆れているようだけれど、不快だったり、怒っていたりするわけじゃない。その証拠に総士は無理に一騎の手を離そうとはしなかった。だから一騎はつい、そのまま思考をめぐらせる。
どうやったら、四六時中、きっと一騎たちが家で夕飯を食べているあいだも、学校で他愛もない話をしているあいだも、気を休めることのない総士を助けてやれるだろう。だいじにできるのだろう。どうしたら、総士の望む方法で、総士が総士にゆるすことのできる手段で、総士に近づくことができるのだろう――。
「……っ」
「……?」
ふ、と、視線を落としていた先の総士の指先が震え、強張った。何かを耐えるような息遣いに顔を上げると、総士が、青い顔をしている。一騎につかまれていないほうの手の甲を口元にあてて、間合いのおかしな呼吸をしていた。よく見れば、白い肌に脂汗が浮いている。
「そ、総士? どうした、気分、悪いのか?」
こういうとき、一騎は、どうしていいのかわからない。自分自身が健康優良児で風邪すらろくに引いたことがないものだから、体調の悪い人間に対する対処法がさっぱり浮かばないのだ。いや、しかし、さきほどまで何の変調の兆しもなかったというのに、どうして――。
一騎がしどろもどろしているうちに、総士はついに耐えきれなくなったのか、倒れ込むように前かがみになって、ローテーブルに伸ばした手をきつく握りしめる。
「……っ、すまない、一騎……、今日は……、もう、これで――」
一方的に出て行ってくれという意味の言葉を、噛み締めたくちびるの隙間から漏らす総士に、一騎はかっとなった。こんな状態の総士を置いていけるわけがない。たとえそれが総士の望みであっても、それだけはできない。
こんなときに頼ることのできる人物といえば、一騎のなかに浮かぶのはひとりだけだった。
「俺、遠見先生を呼んでくる…!」
「待て……っ、必要ない!」
言葉をつむぐのもやっとのようすであったのに、総士は一騎の服の裾をつかみ、強く引きとめる。思わず一騎は「じゃあどうしろっていうんだ!」と声を荒げ、すぐに後悔した。不調をうったえている人間の前で、言うべき言葉ではない。
きつく手をにぎりしめて大きく息を吐く。くるしいのは総士のほうだ、一騎が動揺して右往左往してどうする。こういうとき、冷静になれない自分が、たまらなく嫌だ。けれど、今は反省している時間も惜しい。
徐々に息を荒げる総士のそばに膝をついて、テーブルに爪を立てるようにして強張っている総士の手に触れる。
「総士、お前をこのままにはできない。俺、なにか、できることないか?」
揺れるひとみを覗き込めば、総士が観念したように目を伏せ、ふるえるくちびるを開いた。
「……バスルームの……、洗面台……、このまえ、おまえが……、」
そこまで聞いて、一騎はやっと総士の変調の理由がわかった。洗面台に大量に並んでいた、ラベルの張られた薬の数々。フラッシュバックだと言っていた。一騎たちパイロットの感じた痛みが、戦闘後に、総士のからだで再現されると、その痛み止めなのだと。どの色の、どのラベルの薬を持ってくればいいのか、一騎は慎重に聞きとって慌ててバスルームに駆け込んだ。そのなかから指示されたものを選んで、総士のもとへ戻る。総士が震える手で蓋を開けようとするのが見ていられなくて、一錠ずつでいいと言うのに従って、総士のてのひらへ出してやる。総士が薬をふくんだのを確認して、ミネラルウォーターの蓋を開けて口元へ持っていくと、すこしの逡巡ののち、総士はおとなしく口を開いた。総士の背中を支えて、こぼれないようにペットボトルを傾け、こくこくと白い喉が嚥下するのを見守る。
「……は……、」
口元からペットボトルを離すと、総士が短く息を吐いた。開いたひとみはどこか虚ろで、必死に体勢を保とうとしているようだが、まだ痛みが続いているのだろう、どうしてもからだは前に傾く。それでは余計につらいのではないかと思い、一騎は総士の背中を支えていた手を肩にまわし、総士の顔を肩に乗せるようにして引き寄せた。ぬるい吐息が首元にかかるけれど、制服越しに感じる体温は低い。ほんとうに生きているのかと、こわくなるくらいに、冷たい。
「……いい、一騎……、離せ……」
だというのに、総士はか細い声で言って、力の入らない手で一騎のからだを押し返そうとしてきた。痛み止めには、即効性があるわけではないのだろう。まだ呼吸は荒く、ときどき、耐えるようなうめき声をあげて、目がぎゅっと閉じられる。
洗面台に並んでいた薬の量は、改めて見ても異常だった。先日見たときよりも増えているのかもしれない。同じ効能の薬が、いくつも並ぶ理由くらい、一騎にだってわかった。きっと、効かなくなるのだ。耐性がついてしまうのか、それとも、フラッシュバックの痛みが、くりかえすたびに薬の性能を上回っていっているのか、それはわからない。けれどあれだけの量を処方されるくらい、総士はこの痛みに耐え続けてきているのだ。きっと、
一騎たちにとって、戦闘時の痛みはそのときだけのものだ。あまりにひどいものなら、総士がシステムから
だが総士はちがう。
――総士は、正気を、失えないのだ。
戦闘時も、システムから降りた後でさえ。痛くても苦しくても、総士が総士である限り、耐えるしかない。
一騎を押し返そうとしていた手は、しだいに、だらりと落ちていった。ひゅうひゅうとくりかえされる呼吸の音。かたく閉じられた瞼。時折、びくりと跳ねては身を縮める仕草。どこが痛いのだろう。いつの痛みだろう。わからない。くりかえしてきた戦闘の数などもう覚えていない。一騎が仕留めたフェストゥムの数を誰かが教えてくれたけれど、そのうちどれだけ、無傷で帰投できたのだろうか。
「そうし……、そうし」
名を呼ぶ声は無意識にこぼれていた。一騎が戦えるのは総士がいてくれるからだ。ひとりで戦いたいと父や真矢に言ったときだって、あたりまえのように、総士はクロッシングした先にいてくれると思っていた。そのあたりまえのために、総士がどれだけの苦しみに耐え、自分を抑制してきたのか、一騎はほんとうには理解できない。知ることはできても、かわってやることはできない。そのもどかしさと、自分の過去の痛みが総士を苦しめているという、どうしようもない事実が目の前にあって、一騎は総士の肩を抱く腕に力をこめた。そうし、そうし、と何度も呼んでいるうちに、首元に感じていた総士の呼吸が、しだいに落ち着いてくる。
「……一騎、……いた、い……」
かすかに聞こえた声は、掠れていて覚束ない。
「どこだ? どこが痛い?」
「……ちがう……、お前の、手が――」
総士の言葉の意味を理解して、はっと一騎は我に返った。制服に皺が刻まれるほど、力を込めて抱いていた総士の肩から慌てて手を離す。
「ご、ごめん……っ」
総士は、痛み止めが効いてきたのか、ゆっくりと、もたれていた一騎のからだから離れて、はぁ、と、大きく息を吐いた。垣間見える頬は変わらず青白いが、表情は落ち着いている。そして顔を上げ、一騎の目を見た彼は、ぱちり、と、灰色のひとみをまたたかせる。
「……どうして、泣いているんだ……?」
「え……」
総士に言われて、ふと自分の頬に触れると、濡れていた。指先には次々としずくが落ちてくる。
――どうして。泣きたいのは俺じゃない。泣くほどつらいのは、俺じゃ、ないのに。
そう思うのに涙がとまらない。
「ごめん……、わからない、けど、気にしなくていい……」
情けなくてたまらなかった。総士のからだを気遣いたいのに、これでは儘ならない。ぐすぐすと鼻をならして、腕で目元をこする。
すると、総士が緩慢な動きで一騎の腕をつかみ、「赤くなるから、こするんじゃない」と言った。その顔が、呆れているようでやさしいものだったから、一騎は涙がこぼれているのも忘れて見入ってしまう。
「……お前は、昔も、そうだった。いつも、急に泣き出して……どうして泣くのか、僕にはわからなくて……、苦労した」
さきほどまで痛みにゆがんでいた顔は、過去をなつかしむようにやわらかく笑む。一騎は戸惑った。総士が無理をして、一騎を安心させるために耐えているのか、それとも、自然に浮かんできた表情なのか、わからなかったのだ。総士の手が軽く一騎の頬に触れ、涙を拭うように動く。
「すまない、僕のせいで、お前を動揺させたのだろう。もう大丈夫だ。ありがとう」
触れる手はやさしく、言葉もおだやかなのに、どこかで一騎を突き放すような響きが滲む。もういいと、しまいだと、そう言われているような気がした。
「そう……、」
「お前は帰らなければ。もう、司令も帰る時間だろう」
総士は一騎の声を遮るように言ってソファから立ち上がる。あんなに震えていたのに。あんなに、痛みに耐えて縮こまっていたのに。どう見たって、誰が見たって、強がりだった。薬は確かに効いたかもしれないが、すぐに本調子に戻れるほど痛みがからだやこころに与えるダメージはちいさくない。
「総士、お前まだ、」
「一騎」
声は、声だけは、やわらかかった。けれど、総士のひとみに、表情はない。明確な拒絶だ。触れるなと言われている。制服を着た総士に、その殻を隔てて、踏み込むなと言われている。涙はとまっていた。けれど――けれど一騎は、どうしようもなく、むしょうに、泣きたいきもちで、総士のひとみを見返していた。