空に常に、星はまたたいている。
太陽のまばゆい光に隔てられても、分厚い雲に覆われていても、そのむこうにかならず、星はある。
そんなことはわかりきっていた。
それでも、そのひかりが届かないのなら、この手で触れられないのなら、存在しないこととおなじだった。
だからどうか、夜が明けることのないように――かがやく星が、ずっと、僕の目にうつっていますように。
ゆめのみちゆき
マリスにとって眠りは、必要か、不必要かの二択で言うならば不必要だった。
かつてわずかに残された日本人が、みずからを守り暮らすために開発した偽装鏡面、それを完全に模倣してつくられた景色の内側で、あたりまえのように島の一日は過ぎていく。朝にのぼる太陽も、夜に浮かぶ月や星も、この惑星で見える本当のそれとはちがう。それでもなにも知らない素直な人のこどもは、日が沈めば自然とあくびをこぼし、おやすみ、と言って布団に入る。彼――総士だけは、それがあたりまえだった。
島に暮らしている総士以外のフェストゥムたちには、眠りは必要ない。そもそも眠るという概念がないのだ。けれど、総士の家族として暮らすフロロたちは総士にあわせて生活をおこなっているから、眠るということが必要になった。誤魔化すことはいくらでもできるはずだったけれど、この島で「暮らす」レガートたちの群れは人の生活に対して好奇心を抱き、真似することをたのしんでいる節がある。マリスはもともと人であるから、眠るということに対して抵抗はなく、彼らに倣った。
しかし、そんな生活が始まってしばらく経ったころ、学校の隅、総士から見えない場所で、フロロが「眠るのがこわい」とマリスにうったえたことがある。
「目を閉じて、眠って、わたしの意識がわたしの知らないところへいってしまうのがこわいの」
「……知らないところ?」
「そう。だって、眠ると、なにもわからなくなってしまうでしょう。そのあいだに、もし……、もしわたしが……」
ぎゅう、と胸元で握りしめられた白いちいさな手は少女のそれで、人など一握りでつぶしてしまえるような力を持つフェストゥムだなどとは、きっと知らなければわからない。眠っているあいだに、自分がなにかをしてしまうのではないか。無意識にもとに戻ってしまうのではないか。そういった不安が、言葉にされずともマリスには伝わってきた。その恐怖は、この島での生活を壊したくないからこそ――大事に思ってしまっているからこそのものだ。
かつて自分をみおろしていた、圧倒的な力でひとびとをちいさな欠片にしてしまったものたちが、大事なものを失うという恐怖を覚えている。人と、なにもちがわない。不意にわいたものが愛しさだったのか、感傷だったのかはわからない。ただマリスはなめらかな黒髪を撫でて、「そんなことにはならないから、大丈夫だよ」とほほえんだ。
しかし、眠ることがこわい、というそのきもちは、マリスにもじゅうぶんに共感できるものだった。
マリスが安心して眠ることができていたのは、両親が生きていたころまでだ。マリスが生まれたころから世界情勢は良くなかった。世界の大半はフェストゥムによって失われており、マリスたちが暮らすまちもいつ消えるとも知れなかった。生きのこることにみなせいいっぱいであったけれど、それでも、両親のぬくもりにいだかれて眠れば安心できた。
環境が変わったのは、人類軍の一部がミールやフェストゥムと対話することのできる能力をもった新人類をエスペラントと呼び、シュリーナガルと呼ばれる地へ集めて保護し始めてからだ。北極ミールの襲来以後に生を受けたマリスの両親はエスペラントとしての能力を見出されて、マリスを伴ってシュリーナガルへ移り住んだ。――そこで暮らした日々が、今思えば、もっとも「平和」だったのだろうと思う。ミールのかけらに守られて、フェストゥムの襲来はほとんどない。人類軍の基地になっているから、食糧に事欠くことも少なかった。よかった、と、そう思っていたのだ、確かに。ここへ来られて良かった、と。
それが一変したのは彼らが――竜宮島のひとびとが、美羽が、シュリーナガルを訪れてからだった。アザゼル型に襲われたまちはひどい有様だった。何万ものひとが死んだ。アショーカを守ろうとしたエスペラントも多くが失われた。両親とともに、生き残ったひとびとのなかに混じり、行先の不安定な旅路をゆくなかでもたくさんのものが死んでいった。そもそもの数が多くはなく、どうしても力を使う負荷が大きいエスペラントたちも次々に砕け散っていった。――当然ながら、マリスの両親もそれを免れはしなかった。
ファフナーのパイロットとて同じことだ。北へ向かえば向かうほど激しくなる戦闘に反比例して拮抗薬は減っていく。
人間は消耗品じゃない。
そう憤りながら、まだ生きて呼吸をしている自分も誰かの犠牲のうえにあることは確かだった。
どうしてこんなふうにしか生きられないんだろう。
誰かの死のうえになど立ちたくない。
いのちに優劣などないはずなのに、どうして、どうして、犠牲になるいのちが選ばれていくのか。
――そうして結局マリスは、最後まで、生き残った。
移り住んだ島で、両親の知り合いだったエスペラントたちはやさしくしてくれた。人一倍ちからの強い美羽もそうだ。両親をしのぐちからを見出されたマリスがそのちからをどう扱っていいかわからないまま、しずかな憤りと憎しみをかかえていることも知っていながら、彼女はマリスのそばにいた。それが心地よくなかったとは、言わない。あの島のすべてを憎いと思っているわけではない。――けれど、赦せるわけでもない。
やさしいひと。おもいやり。ぬくもり。それは時に圧力だ、とマリスは思う。やわらかな真綿でつつみこむように締め上げる。気づかないうちに誰かの思惑どおりの道へ誘いこまれる。両親たちのような死を悼みながら、どこかでそれを、とうといことだと肯定している。誰もかれもが無意識だ。多くのひとびとがそう思うことによって、誰もが逃げられなくなる。自分のいのちを、自由に選択できなくなる。犠牲を肯定することで新たな犠牲を駆り立てるなんてこと、あたりまえすぎて、誰も疑問に思わない。そんな世界でしか生きてこられなかったおとなたちは、それしかすべを、知らない。疑問に思う余裕すら、彼らの生きる世界には存在し得ない。
息苦しい世界だった。誰もが切羽詰まった諦念のなかで未来を模索しながら、迷っている。犠牲に犠牲をかさね、己のちからに見合った役割を受け入れなければ生きていけない世界。
自分もいつか死ねと言われる日が来るだろう。力を行使しろというのは、結局はそういうことだ。
夜がくれば、マリスは言い知れぬ不安や恐怖にも、怒りにも悲しみにも襲われて、眠ればかならず両親を失った日の夢を見た。眠るのはおそろしかった。眠りのうちに見る夢も、いだく感情も、決して自分ではコントロールできない。それがこわい。
あの島を出た今だって、たいして変わりはしない。
眠らなくてよくなったぶん、フロロたちと同じように総士に倣って眠るかたちはとるけれど、安心してぐっすり眠るなんてものはほど遠い。眠らなくても動けるのだから、日常に支障はなかった。
――なかった、のだ、けれど。
「マリス、今日うち泊まっていけよ」
え、と、マリスはおもわず目を見開いた。目の前には、今しがた終わった宿題のノートに手をついて身を乗り出し、きらきらしたひとみで自分を見つめる総士がいる。学校帰りに総士の家に寄るのは、ほとんど日課のようなものになっていた。総士のようすを見るのがいちばんの目的ではあったが、総士たちとともに暮らすこの平穏な日常というものが、すっかり心身にしみこんでしまった結果でもある。彼の家でセレノアたちのつくった食事をとるのも、泊まるのも、もう何度か経験のあることだ。けれど、昨日も、一昨日も、総士はそう言ってマリスを泊めている。さすがに立て続きすぎではないだろうかと、マリスは目をまたたかせた。総士はマリスが、両親を失ってひとりで暮らしている――いや、それは事実ではあるのだが――と思っている。だから、気を遣っているのだろうか。総士のつくられた記憶のなかのマリスは、おさないころから共にいるおさななじみだ。おさないころの記憶は彼のなかであいまいで形を成しはしない。それでも、もしかしたら、ずっと前からマリスは当たり前のように家族となじんだ存在、だと、思い込んでいるからこその距離感なのかもしれなかった。
「いいよ。そんなに何日もずっと泊まっちゃ迷惑だろ」
「なんで? べつに、母さんも父さんも何も言わないよ」
――それはまぁ、そうだろうけれども。
「あら、なに、泊まる相談? いいわよ、もちろん」
タイミングよく現れたセレノアが総士の味方をする。最近とみに、セレノアにしろレガートにしろ、総士の肩を持つようになった。マリスはすこし戸惑いながらも、「じゃあ、そうするよ」と肩を竦めた。
*
「おやすみなさい、総士、マリス」
食事のあと、風呂をもらい、マリスが総士と連れ立って部屋へ向かう途中でであったフロロは、「おやすみ、乙姫」という総士の声に満足そうに笑んで自室に入って行った。あれ以来、彼女から眠るのが怖いといううったえはない。まったく恐怖がなくなったのではないだろうけれど、彼女もすっかりこの日々に馴染んでしまったらしい。
「うわ、やっぱ暑いな」
部屋に入るなり、総士はベッドの下に敷いてある布団を飛び越えて窓を開けに行く。ふんわりと入ってくる風は涼しい。もう夏も終わるころだ。偽装鏡面内の気候は、かつての竜宮島や、海神島がそうであるように、日本の四季にあわせてある。マリスにとっては未だに当たり前とは思えないじめじめとした昼間の空気も、夜の涼やかさも、総士にはあたりまえのものになっている。
布団の横に置いてある扇風機のスイッチを入れれば、青色のプロペラがまわって風呂上がりのからだに心地よい風をおくってくれた。
ベッドに腰をおろした総士が、ふああ、と、おおきく気の抜けたあくびをこぼす。無造作に肩からかけたタオルのうえに長い亜麻色の髪がわずかにまだ濡れたまま絡まっている。
「総士、それちゃんと拭けよ。風邪ひくぞ」
「んー…まぁ、べつにいいだろ、夏だし」
「夏も冬も関係ないよ」
まったくもう、と、マリスは総士の横に腰をおろして肩にかかったタオルを手に取ると、総士のあたまにかぶせた。すこし乱暴に拭き始めても、総士は文句のひとつも言わず、されるがままだ。
からだはすでに中学生程度のそれだけれど、ほんとうならば、まだ総士は四つか五つだ。どこかおさなく、甘えたな言動が多いのは、年齢に引きずられているせいなのかもしれない。この手のかかるところが、マリスは嫌いではなかった。
無条件に自分を信頼しきって身を任せてくる存在というものに愛しさを覚えたのはたぶん、おさない総士に出逢ったときが初めてだった。まだ総士があのひとに――総士のそばにかならず寄り添っていたあの島の英雄に、ちいさな手を引かれていたころ。
黒い髪。夕焼けいろのひとみ。美羽とともにいたマリスに懐いてよく遊ぶようになった総士を、すこしはなれたところで、ほほえんで見ていたひと。
ともに英雄と呼ばれたかつての皆城総士の隣にいたその人は、けれど、総士のことを本当にみずからのこどものように慈しんでいた。それは知っている。けれど彼も世界にとらわれて生きる存在でしかない。他のおとなたちと同じように、犠牲を強いることでしか未来をみちびくことはできない。
――けれど。
けれど一度だけ、彼に、言われたことがある。
「……総士を連れ出してくれるのは、お前なのかな」
夕焼け、さざなみ。うちよせる波の音にかきけされてしまいそうなほど細い声。振り返った先で英雄と呼ばれるひとは、あかね色のひかりに燃えるような色をしたひとみをひとつまたたかせ、伏せた。マリスが何も言えなくなって息をのんだつぎの瞬間にはもうなにごともなかったかのように、総士の名を呼んで、帰ろう、と、そうほほえんでいた。
あれが何を意味していたのか未だにマリスにはわからない。総士を誰よりも手放したくなかったのは彼に違いない。それなのに、なぜあんなことを言ったのか。必死になって取り戻しにくるくらいに執着しているくせに、どうして――。
「マリス?」
手が止まったことを不審に思ったのか、総士がきょとんとした顔を出マリスを見上げていた。はっと我に返って、なんでもないよ、と、マリスはタオルをたたんで、乾いた総士の髪を手で梳いて絡まりをほどく。――あの言葉に意味を求めてどうする。現にマリスは総士を連れ出した。けれどそれは彼の言葉のせいではない。マリスが望んだことだ。だれも総士に犠牲を強いることなどないこの島で、確かにいま、穏やかな時間がある。もう彼らのことを考える必要などない。
やわらかな髪から手を放し、「はい、おしまい」とマリスはすべての思考を振り切るように言った。
「もう寝よう、総士。電気を消してもいいか?」
「……ああ」
どこか納得できないような声音で、しかし総士はうなずいた。照明を落としきれば、開けたままの窓のむこうから差してくる月あかりだけが部屋をうすく照らす。目を閉じて、けれど、いっこうに訪れはしない眠気に、マリスはちいさく息を吐く。今日も眠れる気がしない。問題があるわけではないし、耐えられないわけでもない。眠れないくらいで、こころが摩耗することはないのだから。
しかし、しばらく大人しくベッドに転がっていたと思っていた総士が、不意に起き上がる気配がした。不思議におもって目を開けると、暗がりでもわかるまっすぐなひとみが、マリスをみおろしている。
「総士?」
「お前、いつも、あんまり寝てないだろう」
――見透かされた、と、思った。
まさか眠らないことを不審に思われたのか、とまで思考が及びかけたが、慌てるな、そんなに深い意味はない、と自分に言い聞かせる。平和な夢を見ているはずのこどもは、そのくせ、なんでも知っているような目をすることがある。灰色のひとみが奥深くまで澄んで、見返すのがおそろしいときが、ある。
意外に
ひとつ息を吐いて、「……そんなことないよ」と見え透いた嘘をつく。嘘だとわかっていても、総士は引き下がるだろうと思ってのことだったが、総士はすこし眉根を下げ、「……居心地、悪いのか?」と落ち込んだような声を出した。
「……え?」
「だってお前、うちに泊まるとあんまり寝てないみたいだから……昨日も、一昨日も、そうだったろう」
ああ、今日も泊まっていけと言ったのは、マリスが眠れていないのが気のせいではないと確認したかったのか、と気づく。
「泊まって行けって言うの、やっぱり迷惑なのか? お前がひとりでもちゃんと暮らしていけるのは、知ってるけど、でも、ひとりって…いやだろ。いやなんだ、僕は。だから…、あたりまえみたいに、お前がうちにいるの、うれしかったけど、」
お前はそうじゃないのか、と、拗ねたような声がこぼれる。
――憶えているはずはないのに、総士には、生まれたときから愛情をこめて育てられたあかしがあると、こういうとき、思い知らされる。つねにだれかがそばにいて、愛されていたから、ひとりになるのがきらい。生来のちからもあってか、他人のこころに敏い。だから、ひとりでいる他者を見ても、放っておけない。愛情を受けたぶん、愛情を与える。総士にはそういうところがある。だから、最初のうち、ぎこちなかったはずの島のフェストゥムたちですら、人のこころを形だけでも学んで馴染んでしまっているのだ。マリスだって例外ではない。そばにいると、まだこころのなかに、やわい部分があるのだと知らされる。
無言で立ち上がって、身を起こした総士の隣に腰かけた。ぎし、と、揺れたベッドに、総士が顔を上げる。
「ちがうよ、居心地が悪いんじゃない。寝ると夢を見るから嫌なんだ」
「……夢?」
どんな、と、首をかしげれば、解いた髪がさらさらと肩を流れ落ちる。ふだん外を走り回っているときはあんなにも大ざっぱに見えるのに、こうして月あかりのしたで見ると色素の薄い肌にかかる亜麻色は、儚げできれいだ。手慰みに一房すくって、「話すような内容じゃない、嫌な夢」とだけ答えると、総士は総士なりに何かを察したのだろう。そうか、とだけつぶやいて、何かを考えている。そうして不意に膝立ちになると、マリスが身構える間もなく近づいた総士は、マリスの頬を手で包み込み――かすかなぬくもりが、額に触れた。
「……そ……」
そうし、と、零れた言葉はかすれてしまった。総士はすとんとベッドに座りこんで、「……たぶんずっと前、母さんがしてくれたんだけど……、落ち着かないか?」などと上目づかいで見てくる。それはきっとセレノアじゃない――そう思うけれど、当然、口には出さない。総士はすこし恥ずかしそうではあったけれど、自分がかつてされたことをしてみた、くらいにしか、思っていないらしい。
おやすみのキスなんて、親にされた記憶があるような、ないような、それくらいずっと前の記憶だ。マリスは思わずじわじわと照れくさくなってきて、それが伝わっていないらしい総士のようすが腹立たしくなって、はぁ、とひとつ息を吐くと、総士のからだを巻き込んでベッドの上に倒れた。
「わっ、な、なに、」
「眠くなった。総士のせいだ。だからこのまま寝る」
「はぁっ?」
あつい、くるしい、と喚くからだを無理やりに抱き込んでしまう。こどもの体温はぬるい。抵抗しても無駄だと悟った総士がおとなしくなって、腕にそのぬくもりがなじんでくると、冗談のつもりだったのに、ほんとうに瞼がとろとろと落ちてくる。心地がいい。こんなふうに他者と触れ合うのは、いつぶりだろうか。まだ島に連れてきたばかりで、からだのちいさかった総士を抱いたとき以来かもしれない。
「……まりす……?」
寝たのか、と、戸惑うような声がする。寝てはいない。けれど、眠れそうだ。返事をしないでいると、総士がもぞもぞとすこしからだを動かして落ち着ける場所を探し、そのまま、すう、と、力を抜いた。しばらくすると、規則正しい寝息が聞こえてくる。
心音と呼吸の音。開け放した窓のむこうからかすかに聞こえる波の音と虫の声。風の音。はじめてそれらが、やさしくマリスを眠りに
眠るのはこわかった。眠る必要はなかった。けれど、眠るこどもの体温を抱いて踏み入れる夢の淵は、癖になりそうなほど、あまくあたたかい。
――それから後も、総士の家に泊まるとき、ベッドの下に布団は必ず敷いてあった。けれど、どちらかにふたりで潜りこむのがあたりまえになるまで、そう時間は、かからなかった。