いつか世界がその名を呼ぶまで
「どうして『総士』って名付けたんだ?」
いつか訊かれるだろう、と思っていた問いだった。いつだろうか、と構えていたわけではない。思ったよりも遅かったような気もしている。一騎の中にその答えは最初からあって、けれど敢えて言うことでもないと思っていただけなのだ。
戸を開け放した縁側に腰かけた二人の男の影は、部屋の中、畳の上に伸びている。そのひとつ部屋の向こうでは、先ほどまで庭ではしゃいでいたこどもがすやすやと寝息を立てていた。
一騎にひとつ問いかけた剣司は手の中にあるコップを見つめたままだった。麦茶は少しも減っていない。冷たい麦茶と高い気温の落差が生み出した雫が、男らしく骨ばった彼の手を濡らしていた。人を救うことに長けた手に、素直な羨望を向けるようになったのはいつからだろう。否、好きな女の子のために何度負けても挑戦状を送って来るその真っ直ぐさを、最初から一騎は羨ましいと思っていたのかも知れなかった。昔の彼が少し懐かしくなって一騎は口元に微かな笑みを浮かべ、随分と大人になった彼の顔を見た。
「…それ、まず訊いてくるのはお前かなって思ってた」
「なんでだよ」
「なんとなく」
一騎は笑って、手にしていた麦茶を少し口にした。それを見ていた剣司も漸くコップに口をつける。からん、と、小さく氷の音がした。彼がいなくなった日、そして彼が生まれた日はあんなにも凍てつくように寒かったのに、今は嘗て暮らした島を思い起こさせるような湿っぽい暑さがあたりを満たしている。
「みんな優しいな。それを訊いたら俺が応えられないんじゃないか、って、動揺するんじゃないかって、思ってたんだろう」
買いかぶり過ぎだよ、と、一騎は言った。剣司はじっと一騎を見ている。
「俺は前の総士と、今の総士を同じだなんて思ってない。…できることなら、世界に痛みを与え続ける存在になんてならなくてもいいし、ニヒトに乗らなくたっていいのにって思ってる。平和だけを知って、享受して、前の総士ができなかったこと、子どもらしいこととか、くだらないこと、たくさんやって、育ってくれればいいなって思う。でもそれこそ、“前の総士を知っている”俺のエゴだ。俺が今の総士をそういうふうにしたい、っていう、俺の勝手な願いだろう。それは世界が総士に与えた役割と、本質は何も変わらない」
だけど、と、一騎は剣司が何かを言う前に言葉を続けた。視線はコップから空へ上がる。青い空だ。住む場所が違っても、想いが違っても、空は必ずそこにあった。空がきれいだと思ったあいつは、たったそれひとつで、人との対話の道を開いた。世界のどこにいても空はつながっていてひとつだ。見上げる場所で色が違っても笑っていても泣いていてもひとつだった。
「空と同じなんだ」
総士は。そう言った一騎に剣司はゆっくりと眉を寄せ、「お前、総士みたいなこと言うなよ」と呟く。その総士がどの総士を指しているかなんて今更訊かなくたって分かる。そういうことなのだ。誰かを「個」たらしめているのは自分の中にあるその人の記憶だ。彼と重ねて来た時間、言葉、思い出。それが自分にとっての相手を作る。だから、言葉が遠回しで詩的でそれゆえに一言では理解されなかった不器用な「総士」がどの総士か、一騎と剣司の間で問わなくても分かっている。同じ名を持っていても違う存在だと、ちゃんと分かっているのだ。
「ここだと今は夏で、真っ青な空が見える。ちょっと湿っぽいから重そうな雲があってさ。でも例えば俺が昔、シュリーナガルで見た空はもっと高くて乾いて濃い色だったし、北極圏で見た空は薄くて白っぽかった。だけど空はひとつだ。つながってるんだ。空以外のものにはなれない」
皆城総士という名も同じだ。例えば総士以外の名を付けたとしても、総士は総士という魂から逃れることはできない。空がどれだけ色を変えても、形を変えても、空というものであるように、総士は何度生まれ変わっても総士であり続ける。名前だけを変えても、それには何の意味もない。
「悲観的になってほしいわけじゃないんだ。運命だって、逃れられないって、嘆いてほしいわけじゃない。総士はこの世界への祝福を自分で選んだ。痛みを与えることを、それでも、人として生きて死ぬことを、自分で選んだんだ。だからもしも今の総士がいつか自分の役割を知って、強いられたそれから逃げたいと望むのなら、それでいい。『総士』であることをやめたいって言うならそれでいいんだ。そのために俺がしてやれることは待っててやることだけで、あとはあいつが足掻くしかない。足掻いて初めて、総士は総士の中に自分を見つけられる。そうして新しい道を拓くのも、さだめられた役割を選び直すのも、あいつ自身だ」
皆城総士は彼の魂の名前だ。空のようにつながり続けていく名前だ。存在の証明、役割の証明、彼が彼としてこの世界に生まれるために必要な名前。父や母を持たない今の彼にとって、その名は還る場所なのだ。そう、一騎は思っている。
「お前、思ってないだろう」
一騎はきょとんと目を瞬かせた。剣司は、はぁ、とひとつため息を吐き、「俺もだけど」と言う。訳が分からない。総士みたいなことを言ってるの、お前じゃないか、と喉まで出かかったところで、剣司は笑った。
「総士が、総士を捨てるなんて、思ってないんだろう」
それはひとつ間違えば、今の総士への否定になる。けれどそうじゃない。そうじゃないんだ、そうし。みんなお前が好きだよ。新しくこの世界に生まれて来てくれたお前のことがみんな好きで、たいせつで、だから、その魂の高潔さもあたたかさも不器用さも、いつかお前を幸せに導くように祈っているんだ。
あいつとは違うおまえ。けれどあいつの魂を持っているおまえ。
おまえはあいつで、あいつはおまえだ。
――わかってもらえるかな。
ぽつりと零した言葉に、剣司はまるで、彼の元へ寄ってくるこどもたちにするのと同じように一騎の頭をぽんぽんと叩いた。
「家出くらいはされるかもな」
ああ、島出かな。なんて、いつかの一騎のことを揶揄うように剣司は笑い、一騎は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
話をしよう、そうし。
何度も何度も話をしよう。
かつて共に生きた俺とあいつが、そうやって自分と相手を見つけていったように。
何度でも。
2018.09.03 Privatter初出
2018年夏のBEYOND特報見る前に何もわからないまま書いたもの