泣いて笑って生きていて
あの日、多くのいのちが喪われた。
そのいのちは、今まで世界中で喪われてきたいのちの数からすれば、ちっぽけなものだったのかもしれない。大きなことを成し遂げるための犠牲としては、最小限と呼ばれるものだったのかもしれない。それでも、そのいのちのひとつひとつは、その日まで確かに、時間を積み重ね、えにしを織り成し、誰かとともに歩んできた、大切ないのちだった。
思い出せば、ずっとその繰り返しだ。あの日に限ったことではない。
平和を求めるために戦ってきた。対話の道をひらくために戦ってきた。希望のために戦ってきた。
戦わなくてもいのちなどたやすく奪われる世界で、戦いの後に残るものを信じて、自らいのちを賭していく。
ファフナーに乗ったあの日からずっとそうだった。――そうだったろう、と、剣司は自分に言い聞かせるように目を閉じる。
右腕には震える細いからだを抱いていた。きっとそれまでは堪えていたのだろう嗚咽を零し、かあさん、かあさん、と泣く咲良の声を聞き漏らさぬように唇を噛む。かつて自分もそうして泣いて泣いて、何もかもが見えなくなった。それでも手を引き上げてくれた仲間たちのおかげで、今ここにいる。今もまだ、ここにいる。
風は冷たく、空は澄んでいた。
荒れた大地の広がる新たな島の、海の見える浜辺には多くの人々がいる。竜宮島と、シュリーナガルから来た人々、そして人類軍を裏切って行き場をなくした人々だった。言葉も肌の色も信じるものも異なる人々がみな、それぞれ思い思いに花を手にしている。それらは、竜宮島から持ち出された種子を使い、仮稼働を始めた海神島の地下プラントで試験的に栽培されたものだった。システムがどの程度使えるのかを試す目的で他の作物も植えられているが、腹の足しにもならない花を植えたのは、このためだったのだろうと剣司は思う。竜宮島は海の底へ沈んだ。島の人々だけの平和は失われた。それでも、喪ったいのちを弔うために花を手向けるという行為を、そのこころを、忘れたくなかったのだろう。
かつての島では、戦闘で誰かが亡くなるたび、合同で葬儀が行われていた。海神島にはまだそういった場所はない。だが、第四次蒼穹作戦から二週間近くが経ち、ひとつのこころの区切りとして、死者を弔う式が執り行われることとなった。式と言っても、宗教も文化も違う人々の集合体だ。まだ毎日を生きるだけで手いっぱいの状態で、軋轢を生むことはできない。双方の話し合いの結果、各々が自由に死者を悼むこととなった。与えられたテントで祈りをささげるものもいれば、写真を抱いてただ泣くものもいる。その中でも多くのものは浜辺に集まり、渡された花を海の向こうへと手向けていた。
「…咲良」
ひくひくと嗚咽を零していた咲良に呼びかけると、こくん、と頷く。白いユリの花をふたりで手にして、波打ち際に膝をついた。寄せる波に乗せるように手を離せば、引く波に花はさらわれてゆく。ああ、灯篭みたいだ、と、剣司は思った。竜宮島で夏に流される、死者を弔う灯篭。場所が変わっても、方法が変わっても、ひとがひとを想うきもちは、変わらない。
「…かあさん、とうさんと、会えたのかな」
咲良が震える声で言った。ふたりの結婚式で微笑んでいた澄美と、その腕に抱かれていた写真にうつる、誠一郎の顔が浮かんだ。自分たちが初めて敵を知った日に、島を守って亡くなった父。そして、その島とともに沈んでいった母。剣司がおさないころから知っていた、そのふたりの面影を咲良に見る。涙をぼろぼろと流していても、真っ直ぐに海の向こうを見つめる強い瞳。
「…会えたよ、絶対に」
「うん」
「俺たちも、いつか、会える。きっと島に帰る」
「…うん」
ぎゅう、と、咲良の手が剣司の手を握った。このぬくもりを感じるたび、何度でも剣司は思う。守りたいと、守ってみせると。生きていたい、と。
ゆっくりと日が暮れ始めたころ、咲良を地下のボート内に仮設で構えてある居住区へ返し、地上にある医療用テントで詰めていた剣司は、休憩を与えられてふらりと浜辺に足を向けた。まだ海神島の偽装鏡面は復旧していない。外に出れば、ありのままの空が、沈む陽に溶けるような色をしている。島の座標のせいなのか、ここへ来てからは曇りの日が多い。だが今日は抜けるような晴れの空が広がっている。風は冷たいが、気持ちが良い。剣司は浜辺に立って、大きく息をした。そのとき、あう、う、と、何やら小さな声が聞こえた気がして、きょろきょろとあたりを見回す。
「あ、」
思わず声が出た。視線の先で、見覚えのある黒髪にアルヴィスの制服を着た痩身が佇んでいる。小さな不明瞭な声は、その腕のなかから上がっているのだ。
「一騎」
呟くように呼べば、気づいたらしい彼が――一騎が、あ、と、剣司を見る。
「どうしたんだ、お前、こんなところで」
ざくざくと砂を踏みながら一騎のほうへ向かえば、「やっと出て来られたから」と一騎が小さな笑みを浮かべた。そうか、一騎はファフナーで待機していたのだ、と剣司は気づく。まだ防衛機能が充分ではない海神島では、索敵の精度も高くない。敵意のあるフェストゥムであれば美羽が感知するが、彼女にばかり無理もさせられないし、攻撃をしかけてくるのはフェストゥムだけとも限らない。故に、一騎と甲洋、そして操が、「俺たちなら大丈夫だから」と、他のファフナーパイロットに代わり、交代で警戒をしている状態だった。一騎は先ほどまで当番だったのだろう。
「あー、ぅ」
一騎の腕のなかで、小さな手が空に伸ばされている。何かを探すようなそれに、一騎が微笑みながら指をかざすと、きゅ、と、迷いなく握る。そのようすを見て目じりを下げ、剣司は一騎の腕のなかをのぞきこんだ。
「ごきげんだなぁ、総士」
あ、う、と言葉にはならない声を出しながらまたたく瞳は、覚えのある色をしていた。
総士と名付けられた赤子は、亜麻色の髪と、紫がかった灰の瞳を持っている。つい二週間ほど前まで、剣司たちとともにいた――一騎の隣にいた、同じ名をもつ彼の魂を持っているこども。
皆城総士を知っている誰もがそれに驚愕し、そして、誰もが疑わなかった。疑えなかった。かつての彼の喪失とともに生まれ託された希望の名を、総士だ、と、一騎が言ったからだ。
「記憶も、運命も、何もまだ持っていない。でもこいつは、総士だ」
そう言い切った一騎に、剣司は、ああ、そうか、と、思った。ベイグラントを止めてくれと、総士にそう頼んだとき、彼から流れ込んできたのは仲間とともに戦うことができる喜びだった。指揮を預けてみずからが前線へ迎える、みずからが仲間を守ることができる、その高揚感。同時に、もうこれが総士の最期なのだということも、分かってしまった。彼とのクロッシングが完全に途切れるその瞬間、きっと無意識に、わずかに共有された感情は、恐怖と――未来への確かな希望。信頼。満ち足りた想いだった。
知っていたんだ、と、剣司は思った。
こうして自らが再び生まれることを、それが希望となることを、総士は知っていたのだ、と。
だから、一騎が生まれたこどもを育てると言ったとき、少し渋る様子を見せた史彦たちに、俺たちもみんなで協力するから、と、剣司は一騎の背を押したのだった。
その選択は正しかったらしい。一騎の腕のなかにいると総士はまったくぐずらない。そのかわり一騎が離れるとわんわんと泣き出すものだから、一騎がファフナーで待機に入っているあいだ、代わりに面倒を見ている咲良や真矢たちは結構手を焼いているようだ。「でも可愛いのよ」と咲良が言うので、剣司はなんとなく複雑な気持ちになっている。
きっと今日もそうだったのだろうな、と思いながら、一騎の指を満足そうに握る総士に剣司は微笑んだ。そしてふと一騎に目をやると、総士に差し出しているのとは反対の手に、小さな白い花が握られていた。
「花、手向けに来たのか」
「ああ…、うん。でも、かがむと総士を落っことしそうで…」
「俺が抱いててやるよ」
ほら、と剣司が腕を差し出すと、一騎は暫し悩むようにしたのち、頼む、と、総士のからだを剣司へ預ける。ここにいるから、大丈夫だからな、と、一騎が総士の頬を柔らかく撫でて離れると、少しばかり泣きそうな顔はしたものの、総士はおとなしく剣司の腕におさまった。
一騎は白い花に両手を添えて、そっと膝をついた。ざん、ざざん、と波は昼間と変わらず打ち寄せている。夕陽に染まる空と同じように茜色にひかる海の向こうを、一騎はじっと見つめた。夕陽を溶かしたような榛色の瞳は、陽のひかりを受けてきんいろに光っているように見える。その目に何が見えているのだろうか。一騎がずっとずっと遠くを、剣司の知らない場所を見ているような気がして、どこかへ行ってしまいそうな気がして、不安になった。一騎はもう、剣司たちと同じ人間ではない。それを剣司は知っている。しかし、それでも、海風になびく柔らかな黒髪のかかる白い横顔は、剣司のよく知る一騎のそれだ。穏やかで、優しくて、けれど苛烈な面もある。何かを、誰かを守ることに必死になる横顔だ。それなのにどうしてこんなにも、遠いのだろう。
――総士が、いないから、か。
なぜかそう思った。いや、総士はここにいる。総士と同じ魂をもったこどもは、ここにいる。けれど、剣司が生まれたときから知っていたあの皆城総士は――一騎とずっと一緒に、互いにこころを預けあって生きていた総士は、もういない。当たり前に一騎の隣にあった総士の存在がないから、総士に呼びかけ、嬉しそうに笑い、ときに怒り、不器用だなぁと仕方がなさそうに、それでも愛しそうに苦笑していたあの一騎の姿もともに消えてしまった。
一騎は、常に総士とともにあった。離れていたときでさえ、一騎は強く総士を意識していた。それが剣司の知っている真壁一騎の姿だったのだ。
膝をついた一騎の手から、白い花は波にのって流されてゆく。
そうし。
一騎のくちびるが、そう、動いたように見えた。
「ありがとう、剣――」
剣司?と、一騎の声が困惑に揺れた。あ、あ、と、小さな声が腕の中で上がっている。ああどうして今なんだろう、今になって、なぜ。そう思いながらも剣司の頬を伝うあつい雫はとまらない。
「け、剣司、どうしたんだ?」
「う…、っ、おま…、だって…」
ぼろぼろと流れる涙はそのまま、ぱたぱたとおさない赤子の頬に落ちる。知っているものと同じ色の瞳が、剣司を見上げている。それを見て、たまらなくなった。
「お前らが…っ、泣かねーから…っ!」
「え…」
一騎の目が見開かれる。しまった、と思ったがもう遅い。喉から零れる嗚咽を抑え込みながら、剣司は目を伏せる。記憶の中の一騎も総士も、物心ついてからというもの、剣司の前で泣いたことなんてない。いや、一度だけ、総士が二年ぶりに島へ帰って来たあのときだけは、一騎はぼろぼろ涙を流したし、総士も目に涙を浮かべていた。そう、たったあのときだけだ。
存在が消えていくことをおそろしいと思いながらも、総士は泣かなかった。その総士を見送り、残された赤子を抱き上げた一騎も、泣きはしなかった。
そうだ、お前らが悪い。
お前らが泣かないから、俺が泣くんだ。
剣司につられたのか、腕のなかの赤子が突然くしゃりと顔をゆがめ、うあぁんと高く泣き声を上げた。そうだ、お前だって泣けばいいんだ。泣くのが赤ん坊の仕事だ。お前の魂だっていっぱい、いっぱい、泣きたかったはずなんだ。
「け、剣司、総士…」
ここ最近、どこか達観したような顔をしていたはずの一騎が、おろおろと戸惑いを見せる。
「わ、わるかった、俺が悪かった」
「何がだよ」
「う…」
わかってないのに謝んな!と言いながら、剣司はなんとか自分の涙をひっこめ、鼻をすすり、あやすように腕を揺らした。
「お前のとーちゃんは頑固だな」
「…何の話だよ……」
困ったように眉がハの字になっている一騎を見て、いつもの一騎が――知っている一騎がすこし顔を出したような気がして、剣司はほっとする。総士の泣き声は少しおさまったものの、自分が抱いていてはご機嫌はなおらないのだろう、と、剣司は一騎の腕へ返した。
「…ちいさいのに、重いな」
ぽつりと素直に感想をこぼせば、ああ、と、一騎が目を細める。その目元になんとなく目を惹かれてじっと見つめた剣司は、ようやくそこで、自分の間違いに気づいた。
赤い。
そうだ、夕日に照らされていたから、気づけなかった。
きっと明るいときに見ていたら、すぐに分かっただろう。なにせ一騎の肌は本当に白い。真っ赤になった目元は、どう考えても泣き腫らした痕だった。よくよく見れば瞼も腫れぼったい。ああ、しまった。剣司は先ほどとはまったく別の感情をのせて、大きく息を吐く。
「…あー…、一騎」
「なんだ?」
「…ごめん」
「…お前さっきから何なんだよ…」
訝しげな一騎の目元に、迷いつつも指をのばす。わずかに一騎が目を瞠った。
「後で、氷、持ってくか?」
言葉の意味を理解したらしい一騎は、あ、と、口を開けたあと、いや、と、小さく言いかけて一度視線を落とした。ぐす、ぐす、と泣いたあとの余韻を残した声を出す赤子を見て、「…頼む」と顔を上げる。困ったような、苦笑にも似たその顔に、剣司は目を細めた。
きっと一騎は、こんなふうに泣いた痕を誰かに見せるのは本意ではなかったのだろう。もう誰にも見せる気はないのだろう。だから素直に、剣司の言葉に頷いたのだろう。
一騎も総士もきっと、お互いの前でならば泣けたのだ。泣いて、それを互いに受け止めて、昇華できたのだろう。けれどもう、総士はいない。だから一騎はひとりで泣く。総士がいないことをかみしめて、のみこんで、それでもめぐる魂とともに前に進むために。一騎が選んだのはそういう道で、剣司にできるのは、こうしてお節介を焼くことくらいだ。たったそれだけでもいい。お前は一人じゃないんだぞと、自分が一騎のちかくにいられる間は、言い続けたい。
あう、う、と、総士が声を上げた。一騎の腕のなかで機嫌よさそうに頬を緩めている。それを見て、一騎も剣司も目を細めて笑う。
一騎が生きているように、生きることを選んだように、剣司もここで生きることを選んだ。
ただひとつまっさらな総士のいのちは、これから一騎と手を繋ぎ、一騎とともに歩み、一騎と何を見るのだろう。何を、選ぶのだろう。
どんなものを選ぶのだとしても、生きてほしい、と、剣司は思う。
生きていてほしい。
たくさん泣いて悲しめばいい。そう思うのと同時に、できることならもっとたくさん笑っていてほしいとも、思うのだ。
泣いて、笑って、生きて。
そうしていつかみんなで一緒に、泣き笑いの顔で会おう。
いつか必ず帰ると決めた、あの島で。
2018.11.23 Privatter初出
総士の命日であり総士くんの誕生日に