家とごはん
静かな夜だった。
総士は見つめていた液晶画面から顔を離し、小さく息を吐いてワークチェアの背もたれに体重をかける。それなりに広い空間にひとつだけ落ちたため息は、やたらと大きく耳に届いた。
清潔感のある白で統一された研究室はもとより騒がしい場所ではないが、特に今夜は耳鳴りがしそうなほど静かだ。普段は書類が積み上げられているデスクの上も綺麗に片付けられているせいか、より静けさを助長する。「どうせ明日にはまた散らかるんだけどね」と言いながらも身の回りを整頓して最後に帰って行った先輩研究員は、「気持ちのけじめよ」と笑っていた。
液晶の下部に表示された時刻は、十二月三十一日二十一時過ぎ。大晦日の夜だ。
僕はひとりですし、特に予定もないので、と、大晦日の夜勤を買って出た総士に、「悪いわ」「本当にいいの?」と最初はみな遠慮がちだった。しかし研究員には家族のいるものが多く、結局は総士ひとりが夜勤を担うこととなった。家族とともに、あるいは大切な誰かとともに過ごす1年のおわりとはじまり。それを平穏に迎えられることが、どれほど得がたいことなのか総士はよく知っている。だからこそ、自分が夜勤を買って出るくらいで、普段から総士を気にかけてくれている研究員たちが笑顔で年を越せるのならお安い御用だ。
それに、研究員たちは「申し訳ない」という顔をしていたが、総士にしてみれば、ここにいることこそが「家族と過ごす年越し」と言って差し支えない。
CDCなどとは違い、アルベリヒド機関は敵の警戒をする必要はないが、常に稼働している人工子宮やワルキューレの岩戸に何らかの異常がないか監視する業務はある。つまるところ、ここにいれば、コアの様子がわかる。まだ目覚めてはいない彼女の、はっきりとした意思は総士にすらも感じ取れないが、そのかすかな息吹はここにある。
嘗て、父を失った日、家に帰らないのかと狩谷に問われた際に「そんなものは今日なくなりましたよ」と総士は答えた。もう後に引けはしない、強く立っていなければならない。あのころは自分を追い詰め律するためにそう言い聞かせていた。しかし、今は少し違う。
今でも皆城の邸は残っているし、定期的に風を通しには行っているが、総士はあの日以来変わることなくアルヴィス内の部屋に住んでいる。ここには家族の記憶があり、新たなコアがいるからだ。自分の心が落ち着く場所、家族のいる場所、それを「家」と呼ぶのなら、総士の「家」はここだった。
日付が変わる頃に、ワルキューレの岩戸へ行こうか。そう思いながら総士は腰を上げ、空っぽになったマグカップにコーヒーをそそぐべく給湯室に向かう。
普段からコーヒーを飲む研究員が多いのでコーヒーメーカーは常備してあるが、総士はそちらからではなく、隣に置いた保温ポットからコーヒーをついだ。ふわりと香るのは嗅ぎなれた芳ばしいにおいだ。ポットは「夜勤のお供に」と、昼に一騎から手渡されたものだった。
喫茶楽園は今日のランチ営業をもって年内の営業は終了だったのだが、総士が夜勤と知っている一騎はコーヒー以外にも「小腹がすいたら」と軽くつまめる焼き菓子も入れてくれていた。甘さ控えめに作られたクッキーや小ぶりのスコーンは、総士が以前、好きだと言ったものだ。
客ひとりを贔屓するのは良くないのではないか。そう思わないでもないが、こういった差し入れは何も初めてではないし、総士自身、一騎のつくったものを食べるのは好きなのでありがたくいただいている。
特に急ぎの仕事はないし、少しゆっくりしようかと、コーヒーとスコーンを手に席に戻った総士は備え付けのテレビをつけた。普段はあまり見ることは無いのだが、今夜は広登が「ぶっつけ本番の生中継するんで是非見てくださいね!」と楽園で宣伝していた番組があるはずだ。
ちょうど番組は始まったところらしく、マイクを手に画面いっぱいに喋り出す広登の背後で、「突撃!隣の年越し飯!」というタイトルが印字された大きなしゃもじらしきものを持った芹が、貼り付けたような笑みで立っている。どうやら広登がアポなしで各家庭の年越しのご馳走をレポートする番組らしい。またおかしな……いや、独創的な企画をするものだと思いながら総士はしばし作業の手を止めて画面を見つめる。
訪ねる家は完全に行き当たりばったりで決められていた。意外にも家に上がることを渋る家庭はなく、外出の際にほとんど鍵をかけることも無い、互いに知った仲のものが多い小さな島らしい雰囲気に総士は頬をゆるめる。知っている家も、知らない家も、それぞれ思い思いの食事を作り、ともに食べ、笑っている。なるほど、良い番組だ、と総士は思った。アーカイブから選別された番組は今でも流されているが、広報担当いわく、広登の製作した番組が圧倒的に視聴率が良いらしい。おもしろいこと、楽しいもの、この島に今ある平穏、見てもいい夢。それを伝えるのが彼の作るものなのだろう。だからこそ、「もう絶対付き合いません!」と言いながら、芹も広登を手伝っているのだ。
そういえば、皆城の家での年越しはどんなふうだったろうか。物心ついたときには、公蔵は家に落ち着いているようなことはなく、果林とふたりで用意された出来合いのお節をつまんでいたような気がする。年が明ければひとりでワルキューレの岩戸に行き、乙姫にあいさつをし、アルヴィスで出会う大人たちからお年玉をもらっていた。それはそれで悪い記憶ではない。けれど、ああして、家族で集まりひとつの食事を囲む、その景色に憧れはあった。乙姫が望んだのもきっと、そういうものだったのだろう。
ふと気を緩めた総士は、しかし、次の瞬間、「続いては皆様お待ちかね!喫茶楽園マスターのお宅にお邪魔します!」と勢いよく聞こえてきた広登の言葉に飲みかけたコーヒーを喉に詰まらせた。
画面を見れば、見覚えのありすぎる家が映っている。店側ではない、住居側の玄関から顔を出したのは一騎ではなく史彦だった。半纏を羽織ったラフな格好で出てきた彼は、「食卓見せてもらってもいいですか?!」という広登の言葉に「うちが断るわけにいかないだろう」と神妙な顔で快諾する。見慣れた居間の炬燵の上には食べかけの年越し蕎麦と、今まさに盛り付け中であろうお節のお重が並べられている。台所には「うちにも来たのか」と一騎が苦笑いで立っていた。
「年越しそば美味しそうですね?!」
「余ってる分あるから食べて行くか?」
「ぜひ!そういう番組なんで!」
一騎は手際よく小さめのどんぶりに茹であげたそばとだし汁を入れ、画面からでも伝わってくるほどさくさくに揚げられたえびをのせて食卓に用意した。ここまでの家庭ではなんとなく遠慮して食事には手をつけていなかった芹のぶんもしっかり用意し、「立上も食べろよ」と箸を渡している。蕎麦とえび天だけのシンプルな蕎麦であるのに、ほかほかと湯気が上がるどんぶりがアップで映されると極上のご馳走に見える。どうして一騎のつくるものはこんなにも美味しそうなのか。いや、これだって一騎のつくったものだ。そう思いながら手の中のスコーンをかじる。おいしい。
「いや~本当に美味しいです!さすが一騎先輩!これを毎日食べられる司令がうらやましいですね!」
「……そうか」
史彦はなんでもないような顔をしているが、照れているだけだろう。彼のどんぶりの中身はいつの間にか空になっていた。ことさらに口に出すことはなくとも、息子のつくるものを史彦は好んでいるのだ。
一騎はそのようすを微笑んで見ながら、せっせとお節の盛りつけをしている。彩も鮮やかなそれを映していた広登は、「あれ?」と首を傾げた。
「一騎先輩、その、小さいのはなんですか?」
広登が指さしたのは小ぶりのお重だ。二段になっているそれの中にも、お節の具が詰められている。さらにその横にはスープジャーらしきものがふたつと、タッパーに入れられた先程のえび天。
一騎は、なんでもないことのように「総士が夜勤だから」と答える。
「……は?」
声を上げたのは総士だった。しかしそれがテレビ画面の向こうに伝わるわけはない。広登は「あっ、出前するんですか?」と察しよく返してしまった。
「ああ、もう少ししたら」
「いいですねぇ~、総士せんぱーい!見てますかー?!もうすぐ一騎先輩が出前に行くらしいですよ~!待っててくださ――」
ぱつん、と、思わず総士はテレビの電源を切った。なんだこれは。なんだ。なぜ、年越しでくつろいでいる多くの島民のご家庭に、一騎が明らかに総士を贔屓し、甲斐甲斐しく食事の世話をしているとしか思われないであろう映像が、お届けされてしまったのだ?!
いや、もはや周知の事実かもしれない。かもしれないが、なんだこれは、とてつもなく恥ずかしい!
総士は思わずデスクに突っ伏した。静かすぎる研究室には揶揄って和ませてくれる人もいない。
うう、と呻いて暫く動けないままでいた総士の耳に、遠くインターホンの音が鳴り響く。総士が動かないままでいたからだろう、外からドアは開けられて、「総士?いるのか?」とさきほど画面の向こうで聞こえていた声がする。ゆっくり顔を上げて振り返れば、風呂敷包とランチバックを持った一騎が立っていた。
「総士?どうした?」
「…………僕は今年いちばん恥ずかしい思いをしている」
「え?ああ、もしかしてテレビのことか?」
あれがどうかしたのかと言わんばかりに一騎は首をかしげた。いつものことだろ、出前するのは、と言う一騎に、まぁそれはそうだがと総士は口ごもる。
いつものこと。当たり前のこと。
一騎が総士に食事を用意することが、いつの間にかそうなっていた。周りが認識してしまうほどに、当たり前に。
恥ずかしいと思ってしまうのは、それがまるで、一騎にとって総士は「特別」なのだと流布しているようでいたたまれないからだ。だがおそらくその「特別」ですら一騎のなかでは「当たり前」に分類される。それが総士も決して嫌ではない。むしろ――。
じわじわと胸があつくなる。頬が火照る。総士は一度口を引き結んでから、かずき、と、小さく呼んだ。
「なんだ?」
「……蕎麦を食べたい」
「ああ、すぐ用意するな」
「あと、お節は、彼女にも見せてやりたい」
誰と言わずとも理解してくれたらしい一騎は、「うん、分かった。付き合うよ」と微笑む。
テレビ画面に映った炬燵の上には、史彦の蕎麦しかなく、そのかわりに、スープジャーはふたつあった。一騎は両方を開けて、それぞれにえび天をのせる。最初から一騎はここで総士とともに食べるつもりだったのだ。ランチで会ったときにはそんなことは言ってもいなかったけれど、きっとそれも一騎のなかでは「当たり前」だったからなのだろう。史彦には申し訳ないと思うけれど、彼のことだから、構わないと笑うのだろう。
「去年とだし汁変えてみたんだ。美味いといいけど」
「お前のつくるものはなんでも美味しい」
「女の子ってきれいなもの好きだよな。うちのお節って結構茶色いから、もっと彩り良いもの入れればよかったかな」
「乙姫はなんでも、おいしいものが好きだった。新しいコアの好みはわからないが、お前のつくったものは必ず気に入る」
「なんだよその自信」
ふは、と一騎が笑う。
ひとりで年越しをするのは構わないと思っていた。ここには家族の記憶がある。コアがいる。それで充分に満たされた年越しだと思っていた。けれど、ここに一騎がいて、あたたかな食事があることがこんなにもうれしい。
「一騎」
「ん?」
「家は、ふたつあってもいいと、思うか?」
なんだそれ、と言われるかと思った。しかし一騎は目を瞬かせたあと、「いいだろ」と微笑む。
「いくつあっても。今日の広登なんか、たぶん島中が自分の家だぞ」
「……そうだな」
自然と頬が緩む。その頬に一騎の手がすべる。少しだけ冷たい。外は寒いのだろうな、と思いながら頬をすり寄るせるようにすると、小さく笑う声がする。
ピピ、と小さな音が日付の変わり目を告げ、かすかに触れたくちびるのあいだで、今年もよろしくな、と一騎が言った。
2019.01.01 文庫ページメーカー初出
島も人々もコアも一騎もみんなひっくるめて総士のそばにあってほしい