こっちを向いて笑ってくれたら、
彼の笑顔がすきだった。
例えるのなら夏のひまわり、まばゆい太陽。あれらと同じ、きらきらとした笑顔がすきだった。
それはいつだって無条件に、自分に対して向けられていた。そうし、そうし、と、まるでそれしか知らないかのように、くりかえし呼ばれる自分の名前に、必ずといってよいほど添えられていたその笑顔は、確かにあの日まで総士だけのものだったのだ。
どこにもいなかった総士に傷を与えてくれるよりもずっと前から、一騎は総士に惜しみなく、屈託のない笑顔を向けてくれていた。
自己の確立とあわせて総士に残された傷は、総士にとってなにより大切なあかしであったし、それを与えた一騎の存在もまた、今まで以上に大切なものになった。けれど、あの日を境に、一騎は総士に対して笑わなくなった。それどころか、話すことも、目を合わせることすらなくなってしまった。
自分が一騎を責めなかったからだということには、すぐに気が付いた。一騎は総士の事情など知らないし、島の真実も知らない。総士がどれほど一騎に感謝していても、だから大人たちに嘘を吐いたのだと言っても、真実を知らない一騎の耳に届きはしないことも理解していた。
仕方がないんだ、と、幼い総士は思った。
一騎に本当のことは言えない。本当のことが言えないから、誤解を解くこともできない。だからといって、一騎の望むように彼を責めることだってできはしない。傷つけたのは総士であって、一騎ではないのだから。
だから総士は、一騎が総士を避けやすいように敢えてクラスは別々にしてもらったし、なるべく彼の家にも近づかないようにした。とはいっても、狭い島で、一学年にクラスはふたつしかない。課外活動だとか、各種学校行事ともなれば学年全体で集まるわけで、避けようにも避けられない場面は多々あった。そういうとき、一騎は決まって、総士のそばにだけは行かないように、総士の視界にだけは入らないようにと息をひそめて輪の外にいて、総士は総士で、一騎のことは気にも留めてもいないとでもいうように、他のクラスメイトたちの輪の中にいるようにした。
一騎がそうやって他人と関わらないようにしながらも、そのことがかえって人目を引かなかったのは、いつも甲洋か真矢がそばにいたからだ。一騎自身がそれを自覚していたかはわからない。
ひとりになろうとしながら、それでも、すべてを拒絶はできない。頑なに身を縮こまらせながらも、誰かの手を握っている。必死に視界に入るまいとしながら、そうすることで、強くつよく総士を意識する。一騎の思考と行動は一致せず、それは彼自身にもままならない、手に余るものだった。それを遠目で見ながら、総士はいつも安堵を覚えていた。
一騎は総士を忘れていない。
一騎は総士をずっと見ている。
一騎が総士を避ければ避けるほど、おそれるほど、おびえるほど、一騎のなかは総士でいっぱいになっていく。
決して目の前にいる総士を見てはくれないのに、一騎は一騎のなかの総士をずっと見つめている。目を逸らしたいと思いながら、総士のいる「ここ」にはいたくないと思いながら、一騎は自分のなかに総士へのおそれを飼い続ける。抱えれば抱えるほどおおきくなっていくことを、知らぬわけではないだろうに。
――一騎のなかに僕はちゃんと存在している。
そのことに安堵する自分がひどく醜くておそろしいものになったようで、総士はそんな自分が嫌だった。嫌なのに、心の奥底にたしかなよろこびがあって、それがとてもこわかった。
本当は、そうではないのに。
一騎にあんな顔をさせたいわけではない。
おそれてほしいわけでもないし、おびえてほしいわけでもない。
ほの暗いよろこびが、ほしいわけでは、決してなかった。
例えば、放課後の教室、夕陽のさしこむ窓辺で、解けなかった問題を甲洋に教えてもらい「ありがとう」と、ぎこちなく笑っているとき。例えば、校門に遅刻寸前で駆けこんできた真矢の自転車を、教室の窓からみおろしている横顔が、少しだけほころんでいるとき。例えば、通りがかった朝の羽佐間家の下で、二階の窓を見上げながら、きょとんとした顔で、ちいさく手を振っているとき。
そんなときの一騎は、幼いころのあの笑顔を思い出すような、やわらかな空気をまとっていた。
その、そばに、いきたかった。
ひとりでいるようで、ひとりでいない。
ひとりになりきれない一騎。
だってお前はあんなふうに、だれもかれもを惹きつけてしまう、やさしい笑顔を持っている。どれだけ息をひそめたって、暗い海へ沈んでいこうとしたって、その腕のなかに閉じ込めたぬくもりが消えるわけじゃない。
――僕はそれが、ほしかった。
与えられた傷も、そこから過ごした一騎の「いない」時間も、総士のなかではかけがえのないものだ。一騎が総士にだけ与えてくれたものだ。けれど、それでも、総士はずっと、一騎のあの笑顔が、ほしかった。
こちらを見ろ。僕の目を見て、そして、そして――…
「…そー、し?」
「…………」
覚醒はあまりにもゆるやかだった。視界には茜色のインクが落ちて滲んだようなひかりがいっぱいに広がっていて、他はよく見えない。からだの左側がじんわりとあたたかく、髪のうえをなにかがやわらかく撫でていくような感触があった。ゆっくりと瞬きをくりかえしていると、茜色の視界に、規則正しく並べられた机と椅子と白い壁が徐々にはっきりと映し出される。ああ、教室だ。けれど、自分の席からいつも見ている景色とちがう。総士の席は右端の一番前で、こんなふうに、教室をうしろから見渡せるような席ではない。どうしてだろう、と、考えようとするが、うまく思考が機能していない。いくつもの事象を同時に処理できるはずの脳が、どうしてだか、動くことを拒否している。ここちよさのせいだ。そう思った。
さらさらと微かな音をたてながら、重ねた腕にうつぶせた総士の頭をあたたかなてのひらが、撫でている。それはおそるおそる、といったようすだったが、ゆったりとした動きがきもちいい。おおきく息を吸って、そして、吐いた。
どことなくからだの中に倦怠感があるのは、昨夜よく眠れなかったせいだ。かつて感じた痛みが波のように押し寄せては引いて、薬が効くまで時間を要したのだ。そのせいで、ここに腰をおろした後、うっかり寝入ってしまっていたらしい。
徐々に、今見ているものと、感じているものと、記憶が結びつきはじめる。
そうだ、今日は放課後まで敵の襲来がなかった。久しぶりにみんなで一日、教室で過ごせたのだ。しばらくは皆、教室に残って追いついていない課題に取り組んでいたが、ひとり、またひとりと帰って行って、総士だけが残った。一騎がまだ学校のなかにいることを知っていたからだ。
一騎、また呼びだされてるんだなぁ、と、言ったのは誰だったか。剣司だったろうか。
呼び出し、というのが、教師によるものでないことはわかっていた。教師でないなら、残る可能性はふたつ。一騎に挑もうという男子生徒たちの果たし状によるものか、あるいは、女子生徒からの告白か、だ。前者は一騎がエース・パイロットとして認知されはじめてから減ったようだが、なくなってはいない。後者は、以前はまったくなかったものが、ここ最近、突如として増え始めたようだ。
息をひそめて、目立たないように生きていた一騎が、島を守る英雄になった。
一騎に限らず、ファフナーパイロットたちに羨望のまなざしを向ける者は多い。しかし、一騎が圧倒的な敵撃滅率を誇っているのはすでに生徒たちのあいだでも有名な話であったし、島を出奔したというマイナスイメージを覆す程度に、彼がもたらした新たな力は、「生き延びたい」と願うものにとっては大きな希望になっている。だが女子生徒たちが一騎に惹かれるようになったのは、決して彼の力だけが原因ではないだろうと総士は思っている。
――真壁くん、変わったよね。
そう、生徒たちが口にするのを何度も総士は耳にした。
幼いころの活発なイメージが全くないわけではないだろうが、自己を押し込めて密やかに生きてきた四年七カ月という年月は、一騎の印象をがらりと変えてしまっていた。
だから、一騎は「変わった」のではない。押し込めていた、本来の姿が出てきただけなのだ。
元より一騎に近しいものたちだけが、それを知っている。
総士は一度、目を閉じて、それから、ゆっくりと顔を上げた。驚いたように、総士の頭に乗せられていた一騎の手が跳ねる。
「お、起きてたのか」
「さわられていれば、いやでも起きるさ」
総士の座っている前の席に腰かけた一騎は、「そうだよな、ごめん」と言いながらも、名残惜しそうに総士の重ねた腕に触れている。
――あんなにも、遠かったのに。
夢の残滓に目を細めながら、総士は一騎の手に自分の指先を触れさせた。あのころより、骨ばって、大きくて、長くなった指だ。さするように滑らせると、一騎が小さく笑った。
「なんだよ」
くるんと丸い瞳が怖気もなく総士を見つめ、くすぐったそうに口元がほころんでいる。すぐそばに、あんなにも求めていた笑顔がある。それをじっと見つめていると、一騎がすこし、首を傾げた。
「なぁ総士、なんで、ここにいたんだ」
一騎が総士の指先に自分のそれを絡めた。幼いころにやった手遊びでもするように、互いが互いの指を触れ合わせる。「ここにいた」というのが、一騎を教室で待っていたということを指すのか、それとも、敢えて自分の席ではなく一騎の席に座っていたことを指すのか、はかりかねる。前者については、単に、待っていれば一緒に帰ることができると思っただけであったので、答えなくてもいいだろう。後者については、うまく言葉にできるか、わからなかった。しかし、伝えないことで、もう後悔はしたくなかった。躊躇いつつも、口を開く。
「…お前の席から、僕の席が見えるのか、確認したかった」
え、と、一騎は目を瞬かせる。なんでだ、と、その顔は問うていた。
一騎の席は総士の席とは対極にある。総士が最前列の席になるのは珍しくはない。元より学校を休みがちな自分が、席替えのときに不在で、最もみんなの厭う席を割り当てられるのはいつものことだったし、特に席に対してこだわりもなかったからだ。一方、一騎がこの席に落ち着いたのは、単なるくじ運であった。くじにさえ、僕らは「そばに寄るな」と言われているんだろうかと、学期始めに少し傷ついたことをきっと一騎は知らないし、教える気もない。
けれど。
「結果、ここは教室全体が見渡せることがわかった。つまり僕が常日頃感じていた背後からの視線は、お前のものでほぼ間違いないということだ」
「…っ」
目の前の一騎が息を呑んだ。思わず、といったふうに総士の手を離す。
「え…、えっと、それは…その…」
そんなふうに動揺しなければいくらでも誤魔化せたものを、と、思いながらも、自分の予想が外れていなかったことに総士はほっとする。そして、小さく微笑んだ。
あの日からずっと別々のクラスだったふたりが、三年生になって初めて同じクラスになった。島の真実が明かされる年。ならばこの年くらいは、共にいてもいいだろう、と、そう思ってのことだった。相変わらず一騎は総士を避けていたけれど、総士はいつからか、ちらちらと自分に向けられる視線があることに気づいた。自分は最前列にいる。背後の生徒の誰かしらのものであろうが、一騎だ、という確信が持てていたわけではない。しかし、一騎が島を出て、再び帰って来てから、明らかに視線を感じる時間が増えた。
一騎は視線をあちこちにさまよわせた後、「だって…」と、こどもが言い訳をするときのようにもごもごと口を動かす。
「最初は…、お前が同じ教室にいるのが久しぶりで…、落ち着かなくて…、見ないようにしようって思えば思うほど、視線が向いてたんだ。お前とまた話すようになってからは、お前が何を考えているのか知りたくて、つい、見ていたんだと思う…。でも、最近は…」
「最近は?」
先を促すように問いかけると、一騎は少しためらうようにしたあと、眉をハの字に下げて、ふにゃりと、困ったように笑った。
「…うれしくて、さ。お前を見ていてもいいんだって…、そばにいても、いいんだって、そう思ったら」
なんか自分でもわからないんだけど、と、言いながら一騎は、一度離した総士の手に触れる。一騎につられたように、今度は総士が困ったように眉を下げた。訊いたのは自分だが、なぜか、こころのなかが、むずがゆい。いごこちが、わるい。触れられている手が妙にくすぐったくて、そして――うれしい。
ずっと一騎に笑ってほしかった。
昔のように、自分に笑いかけてほしかった。
目を見て、名前を呼んで、当たり前のようにそばにいてほしかった。
お前が苦しんでたことが、すこしだけわかった気がすると、そう言ってくれた一騎の言葉にどれほど総士が救われたのか、きっと一騎は知らない。今こうして一騎が総士から目をそらさず、触れてくれることが、どれほど総士のこころをあたたかくしているかなんて、一騎は知らないのだ。
ぼくもだ、と、ちいさな声で総士は言った。聞き取れなかったらしい一騎が首を傾げたが、総士はそれ以上言葉を重ねることはしなかった。ただ一騎の指に触れ、のぞき込んできた一騎の額に自分のそれをぶつける。いて、と、一騎が小さく呻いたが気にしない。勢い余って痛かったのは総士も同じだ。おかしくて少し笑ってしまう。訝るような顔をしていた一騎も、総士につられたのか、口元をほころばせる。
茜色の空にすこしずつ紫紺が滲みはじめ、反対向きの太陽がじわじわと海の向こうへしずんでいく。今夜も痛みと悪夢にうなされて、満足に眠ることさえできないかもしれない。明日目が覚めて、まともに学校へ来られる保障なんてないし、いつ敵の襲来を告げるサイレンが鳴るとも知れない。それでも、総士は、たしかに笑っていた。
ずっとずっと望んでいた笑顔といっしょに。
「いっしょに帰ろう、総士」
ためらうことなどなく差し出された手に、総士は微笑んで手を伸ばした。
――こっちを向いて笑ってくれたら、僕はもう、ほかになにも、
2019.01.24 文庫ページメーカー初出
アニメと小説の設定を混ぜています。総士から一騎へのベクトルの大きさもとんでもないんだよなぁ。