青空傘の皆城くん
はぁ、というため息がひとつ聞こえた。今日何回目か、数えていないので分からないが、きっといつもよりは多いだろう。隣を見れば空を軽く見上げ、なんとなくつかれたような顔の総士がいる。
今朝、総士の家の前であいさつを交わしたときにもうそんな顔をしていたので、あ、今日は低気圧だ、と一騎はぴんときた。明日は午後から雨だぞ、と昨日の帰り際に総士が言っていたから、傘はちゃんと持ってきていた。しかし、雨か晴れかという以外の天気予報にあまり興味のない一騎は、気圧なんてもちろん気にしていない。ただ、総士が見るからにつかれた顔をしていると、低気圧なんだと気づく。
一騎には全くわからない感覚だが、総士は天気の悪い日や気圧の低い日に弱い。頭痛と言いようのない倦怠感に悩まされるらしい。生真面目な総士は学校を休みもしないし、授業中に居眠りなどしないし、教師に当てられて何食わぬ顔でいつも通り正解を黒板に書きこむので、一騎以外はきっと誰も気づいていないだろう。
今日は金曜日。時刻は午後五時。
予定では、このまま総士は一騎の家に帰って泊まることになっている。休みの前の日に総士が泊まりに来て、一緒に夕飯を食べて、勉強を教えてもらう、というのはよくあることだった。しかし、今日はどうだろう。家に帰ったほうがいいんじゃないかな、と思いつつ隣をうかがうと、なんだ、と言いたげに総士が一騎を見る。
「お前、本当に今日うちに来るのか?」
「都合の悪い理由でもあるのか?」
「いや、俺じゃなくて…」
「僕のことなら気にしなくていい。夜遅くに雨は止む」
総士はなんでもないことのように言って、手にしていた傘をぱっと開いた。持っているときにはシンプルな濃紺の見た目だったそれは、冬の雨空とは真逆の、夏の真っ青に晴れ渡った空を総士にむかって広げている。総士自身がとても選びそうにはないその傘を、総士はとてもだいじにしていた。あんなにつかれた顔をしていたのに、その傘をさすと、すこし表情がゆるんだ。その横で、一騎はシンプルな黒い傘を広げる。
本当は、一騎も総士と同じ、内側に空がペイントされた傘を持っている。しかし、一騎は、やれ傘を忘れた人がいただの、濡れる捨て犬がかわいそうだっただのと言って、すぐに傘を貸したり置いてきたりして失くしてしまう。だから総士から「僕と一緒に出掛けるようなときにだけ使え」と言われているのだ。どうして総士がそこまで口を出すかというと、一騎の傘も総士の傘も、彼がそれはもうかわいがっている、双子の妹たちがプレゼントしたという代物だからだ。
「いつものお礼よ」と言って一騎に手渡されたのは、総士の青空とは対比的な、茜色の空が描かれた傘だった。「総士のものとお揃いよ、一騎!」「総士と一緒に使ってね」と彼女たちに言われて、一騎は素朴に「どうして俺のは夕暮れなんだ?」と疑問を口にした。まったく同じ顔をしていて、けれどまったくべつの物言いをするふたりは顔を見合わせて言った。
「だって一騎はごはんのにおいがするもの」
「一騎は帰るところだからよ」
それぞれの言いようはちがったが、意味するところは同じだと言いたげな顔だった。彼女たちの言葉はシンプルでときどきむずかしい。けれど、なんとなく、本当になんとなく、ふたりの言いたいことはわかったような気がしたので、一騎はその傘を気に入っている。――あまり出番は、ないのだけれど。「総士、食べたいもの、あるか?」
隣で、青空のすきまから雨粒を見て歩いている総士に問いかける。学校を出てしまったからか、灰色の瞳はとろんとしていて、一騎を視界に入れてもぼんやりしている。気を抜いてくれるのはうれしいけれど、まだちょっと早い。しかし、ぼんやりしているわりに、やっぱり家に帰った方がいいんじゃないかと一騎が言おうとしたのは察したらしく、「しつこい」と睨まれた。
「…夕飯は、鍋が良い」
「えっと…じゃあ、さっぱりして食べやすいし、鶏で水炊きにしよう」
「締めは雑炊だからな」
「ああ、わかった」
「食後はコーヒーがいい」
「…う、うん」
いつもは寝る前にコーヒはだめだと言うところだが、明日は休みだしいいか、と、一騎が頷いたところで、総士は傘をちょっと前に伏せた。傘のせいで総士の表情が隠れる。
「…あと、布団は一枚でいい」
「うん、……えっ?」
思わず流れで頷いた一騎が意味に気づいて顔を上げるより前に、総士は歩を速めて先に行ってしまう。ぱしゃん、と、水たまりを踏んだ音がした。絶対に制服の裾が汚れたにちがいない。早く帰って手洗いしなければと思いながら「そ、そうし!」と慌てて一騎は追いかける。
日の暮れかけた雨空の下に、ちらちらと青空が揺れながら一騎をさそっている。
甘えているんだ、気づけ、馬鹿。
追いついた先でちいさく総士はそう言った。
2019.01.31 文庫ページメーカー初出
双子には記憶があるなんとなく転生パロみたいなつもりでした