同じだけ甘い

 ひとの皮膚に味はあるのだろうか。
 初めてのキスはレモン味、なんていう広告がむかしから西尾商店の隅に貼ってある。日に焼けて古ぼけたその広告は、一体何を売るためのものだったのか、一騎は知らない。ただ、大きく書かれたキャッチコピーだけが記憶にこびりついている。
 一騎が総士とした初めてのキスは、少なくともレモンの味ではなかった。なんの味だったのかと訊かれても、うまく答える自信はない。ただひたすらにやわらかく、あまく、きもちよくて、幸せだった。そうだ、ひとの皮膚に味なんてない。レモンの味がするのは、レモン味の何かを食べて、それがくちびるに移っただけだし、一騎も何度目かのキスで、自分の作ったカレーを味わうはめになったことがある。それでも決して不快感はなくて、ああ、確かに俺の作ったものが総士のなかに入ったんだな、と思って確かなよろこびを感じたくらいだ。
 けれど不思議なのは、何を食べたあとでなくとも、総士のくちびるがとても甘いことだ。総士は甘いものを好んで食べはしないし、いくら今の総士がひととは異なるからだであっても、皮膚に甘さがしみ込んでいる、なんてことはないだろう。

(でも……あまい)

 は、と、一騎は少しだけ息を吐いて、もういちど目の前のくちびるを食む。うっすらと開けた瞳には、かすかに震える長い睫毛が映っている。髪と同じ色をした亜麻色のそれが光を吸いこんできらきらと光って見えて、きれいだな、と思う。総士はどこもかしこもきれいで、そして、甘い。

「……ふ、ぁ……、かずき……」

 咥内から舌を抜いてくちびるを離すと、総士がじっと一騎を見つめてきた。言葉はない。けれど、うん、と、頷いて一騎はまた総士のくちびるを塞ぐ。
 キスを、言葉にして求められることは、ほとんどない。だというのに、一騎にはなぜか、今がほしいタイミングなのだ、ということが必ずわかったし、まちがえたことはない。
 朝焼けの、日が昇ってくる瞬間の空の色。灰色に微かにまじる紫。一騎を見つめるそのうつくしい瞳が、吸い込まれそうなほど深く色濃くまたたいたときが、総士の「ほしいとき」だ。あからさまに物欲しそう、という顔はしないのに、確かに瞳の奥には一騎にだけ向けられる熱が灯っている。
 総士はおそらく、キスがすきだ。決して口にはしないけれど、こうして一騎が抱きしめてキスをしているあいだ、いつもは頑ななほど自分を律して立っている背中は力を失って、一騎にしがみつきながら、安心したように身を委ねてくる。そして、一度くちびるを触れ合わせると、それだけで満足してはくれない。もっと、もういちど。言葉より雄弁に語る瞳に一騎は何度もねだられる。ねだられることによろこびを覚え、愛しさでいっぱいになり、一騎も止められなくなる。
 やわらかくて、あまくて、きもちがいい。総士もそうなんだろうか。甘くてあまくて、離れると口寂しくて、止められないんだろうか。甘いものが好きではないくせに、――ああ、いや、皮膚に味はないのだ。そういえばここへ来る前に、総士のために作った味噌汁の味見をした。総士はそれを味わっているのかもしれない。一騎もあまり甘いものは食べないから、総士はいつもしょっぱいと思いながらキスしているのかもしれない、なんて思って、少しおかしくなった。

「ん……、なん、だ……?」

 笑ってしまったのがくちびる越しに伝わったのか、総士がとろんとした瞳を開いて、首を傾げる。

「いや……、お前、いつも、甘いなって」

 言葉足らずな自覚はあったが、くどくどと説明するようなことでもない。総士はしかし、正しく意味を読み取ってくれたらしい。「恥ずかしいことを言うな」と少し眉間に皺を寄せて、そして、言った。

「お前こそ、いつも味見で菓子を摘んで来ているんじゃないだろうな」
「え」

 そんなはずはない。今の自分の舌に残っているとしたら出汁と味噌とあと――……そこまで考えて、一騎はなんとも言えずくすぐったい気持ちでいっぱいになって、総士をぎゅうと抱きしめた。

「な、なんだ……?」
「うん……」

 皮膚に味はない。けれどキスには味がある。レモン味の広告を無碍にしたことを、一騎は心のなかで謝った。

 ――この甘さが思い込みだというのなら、ふたりとも、同じだけ深みにいるということだ。



2019.02.11 文庫ページメーカー初出
キスひとつでどきどきしている初々しい14歳無限に見たい