どうせ君しか見ていない
一騎は総士の髪がすきだ。
総士を構成するものすべてが一騎にとっては「うれしい」や「たのしい」、「いとしい」につながるものではあったけれど、亜麻色の長くうつくしい髪は群を抜いてすきなパーツだった。触れればやわらかく繊細で、指のあいだをさらさらと流れおちてゆくのがきもちよかったし、頬をすりよせれば甘くていい匂いがする。ふんわりとした髪をとおして感じる総士の体温も心地よい。ほんのときどき、一騎がなんらかの琴線に触れてしまったとき、総士が困った顔や怒った顔をして一騎に乗り上げたり押し倒したりしたときに、うすいカーテンのように上からこぼれおちてくる亜麻色は、蛍光灯のひかりをふくんできらきらしていてきれいだ。逆に、一騎がいろいろと堪らなくなって総士を組み敷くとき、白いシーツのうえに散らばり、身を捩るたびに擦れあい絡まっていく細い糸のような髪は艶やかだった。
暇さえあれば総士の髪を梳き、指に絡め、くん、と鼻先を寄せる一騎に、総士はいつも呆れた顔をしている。だが、「くすぐったい」とか「何がそんなに嬉しいんだ」とか言いながらも、一騎のすきなようにさせてくれた。そばにいなかった二年の時を、一騎が総士に触れることで取り戻そうとしていると、思っているのかもしれなかった。本当のところはすこしちがって、取り戻すとか、不安だとか、そういう思いよりも、ただ一騎は目の前にいる総士に胸をつかまれたようなきもちになって、触れたい、という、単純な衝動に突き動かされているだけだった。
今日も今日とて、総士のもとへ会いに来た一騎は、誰もいない総士の部屋に入ってから、総士が「明日の午前中はメディカルチェックがあるからいないぞ」と言っていたことを思い出した。じゃあ午後は、と訊いた一騎に、CDCで報告が終わったあとならば、と、総士は言ったのだ。寝惚けていたわけでもないのに、ここへ来るのが習慣化しすぎて、すっかり頭から抜け落ちていた。まだどうにも、足元がふわふわしているというか、総士がいることに浮かれている気がする。
仕方がない、出直そうと、踵を返しかけた一騎はふと、足元になにかが落ちているのに気が付いた。
「…あ、」
総士の髪ゴムだ。つまさきの少し先で踏まれることを免れた焦げ茶のゴムをひろいあげる。どうしてこんなところに落ちているんだろう。うーん、と、しばらく考えた一騎は、最近の総士がすこしだけ寝坊気味なのを思い出す。島へ帰って二ヵ月。総士のからだは一騎たちと変わらない見た目と中身をしているが、実際にはちがうものだ。それが島の環境――主には、総士のからだを生成した北極ミールのかけらとこの島のミールのちがいによるものだと千鶴はもっとむずかしい言葉で言っていた――に適応するために変化をしている途中で、眠くなりやすかったり、つかれやすかったりするらしい。深刻になるほどのことではない、と、総士は言っているし、こうして定期的に検査もおこなっているから、心配はないのだろう。
だが、ただでさえ朝に弱い総士が、髪を結ぶのも忘れてあわてて出ていくくらいには、今日は朝の調子がよくなかったらしい。
検査でつかれて帰ってくるだろうし、いったん家に戻っておいしくて栄養価の高い昼食を作ってこよう。「食事はたいせつよ。一騎くんに悪いと思わずに、つくってもらいなさい」と千鶴からのお墨付きももらっているため、ここのところ、一騎はせっせと総士に食事を運んでいる。
今日は何がいいかな。肉をメインにして、野菜もたっぷり…と考えていた一騎は、無意識に手にしていた総士の髪ゴムを、そのままポケットにつっこんでしまっていた。
――しまった。
そう思ったのはずっしりとした弁当箱を抱えてアルヴィスの廊下をCDCに向けて歩いているときだった。
片手に弁当の風呂敷をもち、もう片方の手を、認証キーを取り出すためにポケットに突っ込んで初めて、一騎はそこに総士の髪ゴムを入れたままであったことに気づいた。
総士はきっと、メディカルチェックから一度部屋に戻って、資料をそろえるなりしてCDCに向かったはずだ。ということは、どこかに忘れた髪ゴムがないことに気づいただろう。困っているかもしれない。
申し訳ないことをした、と、思いながら突っ立っていた一騎は、ふと、前方から聞こえてきた話し声に気づく。たのしげな女性の声と、それに何らかを答える低い声。聞き覚えのあるものだ。
「皆城くん、ほんとうに髪きれいね」
「髪飾りならいつでも貸してあげるのに」
「いえ…、それはご遠慮します…」
案の定、向こうから歩いてきたのは総士だ。一緒にいるのは、ジェレミーたち、CDCのオペレーターだった。よく見ると、総士の髪はやはりいつもと違い、結ばれずに流れている。歩くと揺れる髪がきれいだ。そう思ってぼんやりしていた一騎は、「一騎?」と、総士の呼ぶ声で我に返った。
「あ、その…、昼飯、作って来たから、迎えに行こうと思って…」
「ああ…、すまない、ありがとう。今から帰るところだった」
ふたりのやりとりを見ていたジェレミーたちは、「じゃあわたしたち、食堂に行くから」と軽く手を振って去って行った。それを見送ってから一騎は「髪飾り?」と、さきほど聞こえた言葉を総士になげかける。総士はすこし気まずそうな顔をしてから、無意識にか、長い髪の先をいじる。
「髪ゴムをなくしてな。このままCDCに入ったら、彼女たちに玩具にされそうになった」
「おもちゃ?」
「…ツインテールにしたいだの、お団子にしたいだの…かろうじて三つ編みで妥協してもらった」
「み…、みつあみ、したのか」
「すぐほどいたぞ」
まったく、何が楽しいんだ、女性というのはああも髪いじりがすきなのか――などと総士がぶつぶつと呟いているのは一騎の耳には入らない。みつあみ。想像してみる。たぶんそれは、とても、かわいいだろうな、と思った。総士の髪は滑らかでつるつるとしているから、編まれた痕跡はひとつも残っていない。いいな、みつあみ。俺も見たかった。いやそれよりも――総士の髪を、彼女たちは触ったということだ。それに気づいて一騎のなかになんともいえないきもちが湧き上がった。
「…一騎?」
どうかしたか、と、総士が首を傾げる。それに構わず、なかば無意識に、一騎は総士の髪に手を伸ばした。指先に絡めて一房引き寄せ、鼻先を寄せる。あまい。でも、いつもとすこし、ちがう。たぶん、お洒落な彼女たちは、仕事の支障にならない程度ではあるが、なんらかの香水をつけているのだろう。総士の髪に彼女らが触れたことで、すこしだけ、においがうつったのだ。
――やだな。
彼女たちのことは嫌いじゃないし、総士のきれいな髪を見て、ふだんとは違う、流されたそれを見て、いじってみたいというきもちも分かる。けれど、なんだか、すごく、もやもやとする。
先をひとつに結んだいつもの総士の髪型はいい。誰もが見慣れているものだ。でも、こうやって結ばれずに流された髪がやわらかくて甘いことは、自分だけが知っていたかったのに。
検査をするときにメディカルスタッフは解かれた髪を見ているだろうし、学校でも着替えのときに解いていることはあっただろうが、それを棚に上げて一騎は思う。
「一騎、ここは廊下だ」
「…うん」
わかってるけど、と、言いながら一騎は、髪にくちびるを寄せる自分を制止するように伸ばされた総士の手を、髪のかわりに握りこんで踵を返す。ずんずんと総士の部屋に向かう一騎の背後で、はぁ、と、総士のため息が聞こえた。
――あきれてる。
怒ったかな。困ったのかな。そう思って一騎が総士の部屋の手前で足をとめ、おそるおそる振り返ると、意外にもそこにはやさしい顔の総士がいた。
なんで、と、口にするより早く、総士が困ったように笑う。
「お前はわかりやすいな」
ぽかん、と、する一騎の顔の横を総士の手が通り過ぎ、部屋のロックを外してしまう。
握った手を引いたのは総士だった。たたらを踏むように総士の部屋のドアレールを跨ぎ、しゅん、と、背後で扉の閉まる音を聞く。
「そう、」
「ほら、早くその弁当を食べるぞ。僕はお腹が空いている」
「あ…、えっと…、うん」
「食べ終わったら、お前が僕の髪を結べ」
「え…」
「お前が持っているんだろう、僕の髪ゴム」
「何で…」
思わず呟いた一騎に、やはりな、と、総士が笑う。
「部屋を慌てて出たときに落とした、という記憶はあったんだ。それが、一度戻ってみるとなくなっていた。この部屋に僕が不在のときに入るのは、お前だけだ。おおかた、拾ってそのままなんだろう?」
「う……、み、見てたみたいだな…」
「わかりやすいんだ、お前は」
さきほども言われた言葉がくりかえされる。だが反論はできない。きっと、総士の髪を他人が触った、ということにもやもやとしている一騎のきもちだってとっくに見透かされている。見透かされて、そして、受け入れられているうえに、甘やかされている。耳まで熱くなる。単純な自分への羞恥と、やさしい総士の言葉に対する照れだ。どうにも島に帰って来てからの総士は、一騎に甘すぎるきらいがある。
「最近のお前…、そばにいると、俺がどうにかなりそうだ」
ソファに座った総士のすぐ横に腰を下ろして、ぴたりと頬を肩にすりよせる。やわらかい髪が触れて、きもちがいい。ずっと触れていたい。きれいなものを自分のものだけにしたいというこの衝動を、みにくさも呼び起こすこの感情を――いったい、なんて呼ぶんだろう。
「……僕をどうにかしたのは、お前が先だろう」
へ?と、見上げた先の総士の耳が、真っ赤に染まっているのを見て、テーブルのうえに置いた特製弁当のことはあっけなく意識の外へ飛んでいった。
きづいたときには、しらない香水のにおいなんてわからなくなるくらい、総士の髪にもからだにも、ふたりだけがしっている甘さがしみついている。
2019.03.10 文庫ページメーカー初出
書いた当時は香水が手元になかったけど今はあるんだよな……