夢のあわい

 ――痛い。
 その夢は、鈍い痛みからはじまる。
 からだのうちに、なにかが、うごめく、不快感。自分のなかに自分ではないものがいる。あらゆるところから総士を食い破ろうと這いまわっている。肉が、細胞が、飲みこまれる。耳に届いてくるざりざりという音は、自分が破壊されてゆく音。
 きもちわるい。いたい。くるしい。
 慣れていたはずだった。
 何度も何度もくりかえしたフラッシュバックにだって、耐えられたはずだった。
 それでも――痛い。
 怖い。
 いやだ、いやだ――一騎。
 暗闇のなかにたったひとつ、ひかりをはなつものに手を伸ばすように、名を呼んだ。


「――っ!」

 びくん、と、からだが大きく震える。はぁはぁと聞こえるのは、自分の、吐息だ。全力疾走したあとのように荒く、心臓がどくどくと激しく鳴っていた。一瞬、自分の置かれた状況がわからず困惑する。
 目の前には薄ぼんやりとした闇と、無機質な天井。肌に触れるのはなめらかなシーツ。ここは――部屋だ。アルヴィスのなかにある、自分の部屋。決して、北極ではないし、ましてや同化されたジークフリードシステム内であるはずがない。
 ――夢だ。
 状況を認識し、はぁ、と、大きく息を吐く。思わず手の甲を額に当てると、じっとりと蒸れた感触がある。もう季節は冬に近く、室温は適温に設定されているというのに、からだにはぐっしょりと汗をかいていた。あまりの不快感に、総士はゆっくりと身を起こす。暗がりのなか、手で机の上をさぐってミネラルウオーターのボトルを手に取り、一気にあおった。照明をつければいいのだが、どうしてか今は、蛍光灯の白々しい明かりが厭わしく思えてつける気にならない。

(…シャワーを…あびたい…)

 そう思うのにからだは動かなかった。ボトルをおざなりにシーツの上に放ったまま、立てた膝のうえに顔をうずめる。
 こうなるのは、初めてではなかった。
 二年ぶりに島へ帰還して、検査や隔離など紆余曲折があったものの、数週間で総士は、もとの自分の部屋で寝起きをする生活に戻った。とは言え、今の総士のからだを作ったミールと、島のミールの相性の問題なのか、疲れが出やすかったり、眠くなりやすかったりして、未だに普通の状態とは言いがたいところがある。その点は、千鶴から「ゆっくり適応していくから、大丈夫よ」と言われていて、特に大きな問題があるわけではない。また、以前は頻繁に起こっていたフラッシュバックが、このからだになってからは全く起きなくなっていた。これに関しては、一度肉体が砕け、完全にあたらしいものになったためではないか、と言われている。もし今のからだでまたシステムに乗れば、新たな痛みの上書きはおこなわれるかもしれない。それはまだ、未知数だった。
 そう、だから――これは、フラッシュバックではないのだ。
 あくまでも、ただの夢。ただの、記憶。
 フラッシュバックのように直接的な痛みがからだに再現されるわけではない。夢から覚めれば痛みはなくなる。

(…精神的な、問題だ)

 思いたくはなかった。耐えきったと、そう思った痛みを、悪夢にまで見るほど覚えているなんて、怖がっているなんて、そんなことは思いたくなかった。
 しかし、この部屋での生活に戻って――つまり、身の回りが落ち着いたと思った途端に見始めた悪夢は、今のところ毎日、途切れることがなく続いている。おかげでほとんど眠れていない。
 今は、なんらかの仕事を与えられているわけではないし、復学もまだしていない。自主的に、フェストゥムの世界でのことを言語化しようと試みてはいるが、眠れないからといって進捗に影響があるわけでもなかった。それゆえに、様子を見ようと、一週間以上はこの状況を放置している。だが、明日は久しぶりに検査がある。体調が芳しくないということは見抜かれるだろうし、今の総士が何かを隠す、というのは、総士自身にとっても、島にとっても、好ましくはない。

「そろそろ…睡眠薬くらいは…もらうべきか…」

 ぽつりとつぶやいた言葉が、しん、と静まった部屋に虚しく落ちた。



「どうして、そんなに黙っていたの」

 予想はしていたものの、思っていた以上に、千鶴はおかんむりだった。
 かつてフラッシュバックが起きていたころも、痛みがひどければすぐに言いなさい、と口酸っぱく言われていた。副作用の強い薬を処方してもらう時には相当渋られたものだ。しかし当時の総士は総士で、自分の痛みのことよりも、痛みによって戦闘に支障をきたしてはならない、という思いの方が強く、頑なだったため、強い物言いで無理やり処方してもらったこともある。
 だが今は、思わず、「その…」と口ごもってしまう。あやふやな総士の存在が、島に何らかの悪影響を及ぼすから、ではなく、純粋に自分のことを心配されることに、慣れない。

「あなたが北極に捕らわれたあいだのことは報告書で読んでいるわ。あれで精神的な後遺症が残らないほうがおかしいでしょう。前の検査では何も異常がなかったから、気づかなかったわ。隔離されていたあいだは、別のところに気を取られていて、出てこなかったのかもしれないわね」
「あの、総士、大丈夫なんですか…?」

 ――そう、これも、総士の分が悪いひとつの原因だ。
 今日の検査は、一騎がたまたま、偶然、一緒だった。
 総士はまったく知らず、仕切られたカーテンの向こう側に一騎がいるなどとおもわないまま、千鶴に睡眠薬がほしい、と零してしまった。それを耳に挟んだ一騎が黙っているはずがない。結局、どうしてなのか、検査後の診察室で、椅子に座った総士のうしろに一騎がそわそわと立って話を聞いている。――いや、総士がここのところ、一騎を邪険にできないのがいちばんの敗因だ。

「睡眠薬を処方しても、夢を見ないとは限らないわ。無理やりに眠る、ということよりも、精神的に安心して過ごすことのほうがだいじね」

 そうは言われても、総士としては、元の生活に戻って、じゅうぶんに安心している――はずだったのだが。どこかでまだ、こころが落ち着かないままなのだろうか。精神的な面で自分をコントロールしきれないとは、情けない。そんなことを考えていたせいか、背後の一騎の気配がすこし変わった。

「お前、うちに来ないか」
「………は?」

 振り返れば、一騎が真剣な顔で総士を見ている。表情があまりに真剣なので、一瞬、「何を言っているんだ」と声を出すのが遅れた。そのあいだに、千鶴が「そうねぇ」などと前向きな声音で頬に手を当てている。

「真壁司令に相談しましょう。あなたひとりで部屋にいたら、このままずっと無理をしそうだし」
「え、いや…遠見先生――」

 待ってください、という総士の声は、完全になかったことにされた。


        *


 総士が放っておくと無理をする、というのはおとなのなかでの共通認識であったらしい。
 千鶴から事情を聞いた史彦は真壁家で総士の様子を見ることを快諾し、しばらく総士には通常の検査以外の負荷はかけない、ということで意見が一致してしまった。かくして総士は、端末ひとつと、わずかな着替えを手に、真壁家に泊まる――いや、暮らすことになった。

「……腑に落ちない」
「そう言うなよ。みんな、お前を心配してるんだぞ」

 総士が敷かれた布団の上に座ってつぶやくと、隣に並んだ布団の上で、一騎が苦笑する。
 一騎のつくった豪華な夕食を美味しくいただいた後で不満を口にするのは今更のような気もするが、言わずにはおれなかった。みな、あまりにも、段取りが良すぎるのではないだろうか。
 はぁ、とため息をひとつ吐くと、隣にあった一騎の気配が、すっと近づく。身構えるより先に、一騎の手が総士の頭を引き寄せている。一騎の肩口に顔を埋めると、風呂上がりのせっけんのにおいがした。

「もし夢を見たら、ちゃんと、起こしてくれ。絶対だ」
「……なぜだ」
「そうじゃないと、ここにいる意味がないだろ」

 一騎からすこしからだを離してその顔を見れば、不安そうな榛色のひとみが、総士をじっと見据えている。

「嫌なんだ、もう。お前が、知らないところで苦しむのは」

 声音が、あまりにも、切実なひびきをもっていて、総士はすこし狼狽えた。こつん、と額同士がくっつく距離で、一騎が見つめている。

「言ってくれ、総士。つらかったら、痛かったら、言ってほしい。いま、俺はお前のそばにいる。ちゃんと触れられる。だからひとりで我慢するのは、やめてくれ」

 わかった、と、素直にうなずいてやれればよかったのだろう。けれど総士にはまだ、むつかしい。
 うろうろと視線をさまよわせてから、「…善処する」とちいさく答えた。それでも、一応は、納得したのだろう。一騎が「ぜったいだぞ」ともう一度重ねて言って、いのるように、総士の手を握った。

 ――その夜は、断続的に夢を見た。
 
 魘されて起きては、その声が一騎に届いていないことを願った。は、は、とちいさく息を吐いて、なるべく、伝わらないように、聞こえないように、布団のなかにもぐりこむ。
 自分でもどうしてここまで頑なになっているのかわからなかった。
 けれど、総士にとって、自分自身の痛みは自分のなかでだけ抱えていくものであって、共有するものでは、なかった。
 仲間たちの痛み、フェストゥムたちの痛みを共有しながら、自身の痛みは内側に閉じ込める。
 そうすることできっと――忘れないようにしたかったのだ。
 誰かの痛みを。誰かの悲鳴を。自分が生きるために譲られてきたいのちの声を。
 フラッシュバックがない今、悪夢に拠り所を求めていたのは――自分だった。


          *


(…わかってしまうと、余計に、夢を見る…)

 ふあ、と、総士はあくびをかみ殺した。
 昼下がりの真壁家の縁側は、晩秋の日差しでぽかぽかとあたたまっている。一騎は楽園のアルバイトのために出かけていた。一騎自身もまだ療養中のはずなのだが、少しずつ慣らしたいと言って、ランチタイムの混雑時を避けて、数時間だけ手伝いに出ているらしい。
 総士はぼんやりと端末の画面をながめていたが、眠気で作業は進んでいない。
 状況を変えるには自分が変わるしかないのだと、そう、わかっていた。一騎の家に来てもう3日が経つ。一向に眠れていないようすの総士に、一騎は何かを言いたげにしている。夜中に総士が目を覚ましていることに、気づいているのかもしれない。それでも総士が何も言わないから、一騎も、迷っているのだろう。
 北極での記憶は、いいものではない。
 忘れられるものなら、忘れてしまいたい。 
 けれど――フェストゥムに痛みを教えた、そのことを、忘れてはならない。
 自分のしてきたこと。払った犠牲。与えられた役目。忘れないために痛みがあった。

 ――だがその痛みは、自身の罪悪感を紛らわすためのものではなかったはずだろう。
 
 ああ、そうだ。そうだったはずなのに。
 おもいながら、眠気が限界に達していた総士の思考はぱつんと途絶えた。

 夢だ。
 自分を内側から食い破られる夢。
 肉を、細胞を食む感触、音。
 痛い。
 苦しい。
 もう無理だ。

 ――一騎。

 気づかれないようにしたくせに、頷けなかったくせに、結局呼ぶのはその名前だ。それしか知らないように、自分自身がなくなってしまう恐怖のなか、縋るように呼ぶ。
 一騎、一騎、一騎、かずき――

「総士くん!」

 ひびいたのは、求めた声ではなかった。
 あまり聞いたことがない焦ったような声音。ついで、からだが抱き起されるような感覚。視界が滲んでいてぐらぐらと揺れている。起きているのか夢を見ているのかわからない。不愉快な呼吸音は――自分の、もの。

「っは…、ぁ…っ」

 くるしい。呼吸が早い。からだが自分のコントロールを逸脱して、勝手にうごいている。息を、したい。いや、呼吸はしているはずだ。しているのに、どうして、こんなに。
 ふと、口元に弾力を感じた。自分の吐いた息が、そのまま自分にもどってくる、感覚。

「ゆっくり、息を吐きなさい」

 命令ではない。強いる響きはないのに、こころのうちに滴るように入りこんだ声に、からだが従う。背中をゆっくり撫でている手の感触に、初めて気づく。
 ゆっくり、ゆっくり、うながされるままに呼吸を繰り返していると、酸素がきちんと自分のなかに入ってくるのを感じた。あんなにも苦しかった呼吸が楽になる。
 ぼんやりとしたままでいると、こどもにするように、背中をとん、とん、と、一定のリズムで叩かれる。それをしているのが史彦だと、わかっていて、早く謝って離れなければとおもうのに、疲弊しきったからだは言うことを聞かない。

「…きみは」

 ぽつんと落ちた言葉にのろのろと顔を上げれば、困ったような顔の史彦がいた。

「もっと、おとなを、頼りなさい。いや…おとなでなくてもいい。誰かに頼ることは、咎められることではない」

 ――君をそういうふうにしたのは、我々だとわかっているが。
 ちいさくつぶやかれた言葉に、総士は目を伏せる。
 不快感と痛みは、すっかり消えていた。ただ倦怠感がある。しかし、そろそろ起き上がらなければ。史彦の腕の中にいる、というのは、なんとも居心地が悪い。そもそもおとなに、こんな風に接された経験はほとんどないのだ。
 そう思ったとき、がらがら、と、玄関の開く音がした。タイミングが最悪だ、と思ったときにはもう遅い。

「総士…っ?」

 帰ってきた一騎が、史彦と、その腕のなかでぐったりとしている総士を視界に入れて声を上げる。

「ど、どうし…」
「夢を見たらしい。部屋で休ませてあげなさい」

 駆け寄ってきた一騎に、史彦が総士のからだを預けた。「じ…、自分で、動ける」とかすかに声を出したものの、一騎には黙殺された。そんなに軽いはずもないのだが、ひょい、と抱え上げられてしまう。
 一騎に抱きかかえられた総士に、史彦はとどめのように問うた。

「ほんとうは夜も、眠れていないのだろう?」
「……」

 沈黙は肯定だ。わかっていたが、否定はできなかった。一騎が、まるで自分が傷を受けたようにくしゃりを顔をゆがめている。
 ――ああ、そんな顔を、させたかったわけじゃないのに。

「一騎、今日は総士くんについていてあげなさい」
「う…、うん」

 言われなくてもそうすると言いたげに、総士のからだを抱く一騎の腕に力がこもった。
 居間を出る間際、「すみません、でした」と謝る総士に、史彦は「謝る必要はない」と、困ったように笑った。


          *


「言えなかったんだ」

 その夜、やはり悪夢に魘された総士を今度こそ躊躇うことなく腕の中にとじこめた一騎が、泣きそうな声で言った。

「お前が眠れてないの、わかってた。だけど、お前が何も言わないから…、言わないのに、俺が、勝手に手を伸ばしていいのか、わからなかった」

 短く呼吸を繰り返す総士のからだを、一騎はゆっくりと撫でた。あたたかな手だ。性感を煽るようなものではなく、ただやさしく、かたちを確かめるように、存在を総士自身に知らしめるように、やわらかく這う。からだの内を食い破る悪夢とは真逆の、痛みとは対極の、ここちよさ。
 これがずっとほしくて――怖かった。
 弱くなってしまうような気がした。
 甘えて、もどれなくなってしまうような、気がしていた。

「ごめん。早く、言えばよかった。手を伸ばせばよかった」
「…ちがう、かずき」

 ――ちがうんだ。
 悪かったのは僕の方だ。
 痛くて苦しくて逃げてしまいたかったのに、痛くて苦しいことで、自分を保とうとした。
 自分を抱く一騎の背中に腕を回して、強くしがみつく。とっくに、悪夢の痕跡は消えていた。

「痛みをだれかと共有するのも、自分の痛みを伝えることも、…僕はあまり、得意ではない。それでも…、夢を見たとき、いつもお前の名前を呼んでいた」
「…呼んで、総士。夢のなかだけじゃなくて、痛いとき、苦しいときに、呼んでほしい。そばにいくから」

 とくとくと、一騎の心臓の音が聞こえる。総士、と、自分の名前を呼ぶやわらかな声音も、やさしい手も、ぬくもりも、享受してしまえば、いとも簡単にここをゆるませていく。
 大きく息を吐いて、目を閉じると、どっと、眠気が押し寄せてきた。それは不愉快なものでも、恐怖を呼び起こすものでもない。おもわず、ねむい、と、ちいさく零せば、一騎が笑う。

「……当たり前だろ」
「…そうだな」

 言うやいなや、一騎は総士を抱いたまま、布団に横たわった。総士が抵抗するより早く、掛け布団をひきあげ、総士のからだを抱きなおす。

「このまま寝て、総士」

 強いるでもないのに抗えないそのひびきに、「…親子め」と言えば、一騎が「何か言ったか?」と首を傾げる。なんでもないと誤魔化して、総士はごそごそと居心地のよい場所を探し、一騎の首元に懐くように顔を埋めた。
 干された布団の太陽のにおいと、せっけんのにおい。さそわれるように、とろとろと瞼がおちてくる。

「おやすみ、総士」

 あまい声は、まどろみのなかにやわらかく溶けた。


 ――その夜、総士は夢を見た。

 青い空、青い海。その狭間で両腕を広げた一騎に、ためらいながら手を伸ばす。
 おかえりと、うれしそうに一騎が笑う。
 そんな、夢だった。
 



2019.05.06 Privatter初出
RCC地上波再放送の26話放映前にワンドロの勢いで書いたものでした。書いてから見ないと耐えられそうになかった。