kiss me

 ランチタイムがとっくに終わった喫茶楽園のなかは静かだ。夜の営業のために一度店を閉め、厨房では新たな仕込みが行われている。本来ならば客はひとりもいないはずの時間に、当たり前のように総士はカウンター席に腰かけ、一騎が総士のためだけに淹れてくれたコーヒーを飲んでいた。
 今日は真矢が空に上がっていて、暉も予定があったらしく、総士が店に来る前には帰ってしまったらしい。それゆえに、鍋の中で何やら煮込みながら、ランチタイムの名残である汚れた皿を一騎はひとりでせっせと洗っている。
 総士がなにげなく一騎の手元をちらりと見やれば、気づいたらしい一騎が「美味かった?」と首を傾げた。ランチの残りだったカレーと、今まさに口をつけているコーヒーのことだろう。「変わらず美味い」と返せばうれしそうな微笑みが浮かべられる。ざっと水で手の泡を洗い流した一騎が総士の前までやってきて、総士は思わず――身をかたくした。一騎はそれに気づくことなく、米粒ひとつ残さず平らげたカレー皿を、総士の前からひょいと取り上げ、再び洗い物に戻る。
 ――僕は、期待、した…のか。
 気づかれなくてよかったと思いながら、総士はコーヒーを啜る。耳が少し熱い。幸いにも長い髪に隠れているそれは一騎からは見えないだろう。


「今日ってキスの日なのよ」

 などと言ったのは、シャオだったろうか。
 報告書を提出するためにCDCにいた総士の耳に飛び込んできたのは、待機中の女性オペレーターたちの楽しげな会話だった。
 史彦と話しながら、聞くともなしにその会話を耳に入れていた総士は、女性はこの手の話題が好きなのだな、と思いながら、やるべきことを早々に済ませてCDCを出た。しかしどことなく、「キスの日」という言葉が頭の中に残ってしまったらしく、廊下を歩きながら不意に浮かんだのは、触れ慣れた、かさつくくちびるの感触だった。
 総士にキスをしてくる相手など、ひとりしかいない。――そういうときだけ、とろけるような蜂蜜のように色を変える榛の瞳、名前を呼ぶ甘い声、頬に触れる指先のやさしさ、額に触れるやわらかな黒髪、くちびるに触れる、ぬるい温度――。

「…………っ、」

 ――何を、考えて、いるのか。
 思わず額に手を当てて大きく息を吐いた。
 勤務中に、こんな廊下で、なぜ一騎のキスなど思い出しているのだ。気が緩むにも程がある。
 そうだ、そもそも、キスと聞いてすぐに思い浮かんでしまうほど、毎日毎日一騎がことある事に触れてくるのがいけない。
 一騎ときたら、ふたりきりになった、という瞬間には必ずと言っていいほどくちびるを触れ合わせてくる。部屋だろうがアルヴィスの廊下だろうが外だろうが楽園だろうが、場所を選ばない。周りに人がいないんだからいいだろ、という彼のことばに反論できない自分も問題だとは思うのだが、どうしてああも一騎はしょっちゅうキスをしたがるのだろう。
 無論、総士とて、嫌だというわけではない。一騎に触れると安心してしまうのは、昔からだ。手をつなぐのも、抱きしめあうのも――絶対に口にすることはないが――好ましい。ただ、素肌を重ねる関係になってからもう随分経つが、あれだけは未だに羞恥が勝っていて、苦手だ。いくらすべてを委ねられる相手に対してであっても、自分のみっともないところをさらけ出す行為はひどくおそろしい。その先に言いしれない安堵とよろこびがあるのももちろんわかってはいるが、慣れることはできなかった。
 その点、キスはいい。
 軽く触れ合わせるだけでも体温をわけあい、相手の存在をつよく感じられる。何より、言葉を交わさなくても、たしかに伝わるものがある。羞恥が勝って余計なことを口走ることもないし、変な声を上げることもない。直接粘膜に触れるときはすこし身を引いてしまうけれども、きもちがいい。それでいて、からだを重ねるときのように、自分を見失うほどの熱に流されるということはない。気分が乗っていれば、主導権を握り、一騎を慌てさせ、動揺した真っ赤な顔を堪能する余裕だってできる。
 そう、だから、嫌いなわけではないのだ――。

 ――そんなことを思いながら楽園に来てしまったせいで、妙に、一騎のことを意識してしまっている自覚があった。

 おまけに今日に限って、こんなにシチュエーションが整っているというのに、一騎はまったく総士に触れてこない。いつもであればキスのひとつやふたつ、すでにされているところだというのに。
 一騎はやりすぎだ、などと思っていたはずだったのに、いつの間にやら期待しているのは総士のほうだ。それが悔しい。

「総士、コーヒーのおかわり淹れようか?」
「あ…」

 思考に耽っていたせいか、いつの間にやら手のなかのカップが空っぽになっていることに気づいていなかった。無意識にずっと口をつけていたらしい。総士が何かを答えるより先に、「またなんかむつかしいこと考えてるんだろ」と笑いながら一騎がカップを持ち去っていく。次はブラックじゃなくてカフェオレな、と、勝手に決められて、一騎はてきぱきと用意を始めてしまった。総士が職場でブラックコーヒーばかり飲んでいることはすでに知られている。総士が嫌がらない限り、「ブラックばっかりだと胃が悪くなる」と顔をしかめる一騎の淹れる二杯目は、カフェオレと決まっていた。
 一騎は牛乳を小さな鍋で火にかけ、沸騰しない絶妙な加減であたためながら、フィルターにコーヒー豆をセットして、丁寧なハンドドリップでコーヒーを抽出する。すでにその動きは手慣れたものだ。なめらかで無駄のない手さばきは見ていてきもちがよくて、目で追ってしまう。その視線が、つい、微笑みを浮かべたままのくちびるに吸い寄せられてしまい、総士は慌てて目を逸らした。
 ――だめだと、いうのに。
 意識しないようにすればするほど、どうしても気になってしまう。
 女性のようにふっくらとしているわけではないけれど、触れればやわらかくて厚みもあるくちびる。手入れなんてしないせいで、かさついていることが多いそれ。冬場にあまりに乾燥すると、お互いにぴりっとした痛みを感じることがあって、示し合わせたわけでもなく、リップクリームをポケットに入れておく癖がついた。
 そう考えてみれば、キスを望んでいるのは確かに一騎のほうだけではない。いつも一騎のほうが行動を起こすのが早いというだけで、こうして放っておかれれば、総士だってじれったくなってしまう。認めざるを得ない。

「はい、総士」

 それを目当てにくる女性客も多いと噂に聞く、一騎のとろけるような笑顔といっしょに差し出されたカップを、総士は「…ありがとう」とうつむきがちに受け取った。総士が好む、濃い目に抽出したコーヒーと丁寧にあたためられたミルクが混ざったカフェオレは、甘くも香ばしいかおりがする。口をつけてほっと息を吐けば、一騎が満足そうな顔をして洗い物に戻っていく。
 ――ふれたい。
 一騎の淹れてくれたカフェオレのあたたかさが身に沁み込むと、もっと生々しくてぬるい、一騎自身の体温に触れたくてたまらなくなった。やっぱりどうにも、今日の自分はおかしい。一騎が、触れてこないせいだ。キスの日だなんて、聞いてしまったせいだ。そう言い訳をして、総士はカフェオレを持ったまま、席を立った。
 一騎はきょとんとした表情を浮かべたものの、総士がふたりきりのとき、厨房のなかで一騎のそばに立ってようすを見ていることもままあるためか、特に疑問には思わなかったらしい。洗い物を続けたまま、「なぁ、そういえば今日さ、里奈たちが話してたんだけど」と口を開く。食器を洗っているせいで、視線は手元に向いたままだ。なんだ、と、総士が相槌を入れながら、そっと眼鏡を外したことにはもちろん気づいていない。

「今日って、キスの日なん――」

 だって、と、言おうとしたであろう一騎のくちびるを、総士は自分のそれでふさいだ。
 ちいさな音をたてて、すぐに離れる。
 何度も反芻してしまったとおり、一騎のくちびるはかさついていて、ぬるくて、やわらかい。触れたかったおもいが満たされて、ほう、と総士は息を吐く。
 完全に固まってしまった一騎がじわじわと頬を赤く染めるのを見ながら、総士は総士で、首から耳まで熱くなってくるのを誤魔化すようにさっと眼鏡をかけなおした。それを視界に入れて、ようやっと我に返ったらしい一騎が「おっ、おま、お前…!」と手にしている泡だらけの皿を落とさんばかりに動揺して肩を震わせる。

「な…っ、何で今しちゃうんだよ!手が放せないだろ!」

 抱きしめられない!と喚く一騎に背を向けて、総士は手のなかのカフェオレをごくごくと飲み込む。はずかしい。衝動的な行動を取るのはらしくない。しかし、悪い気分ではない。そしてなんとなく――一騎がどうしてあんなにキスをしたがるのかが、わかってしまった気がする。

「そうし、なぁ、もういっかい」

 ねだるような声音で一騎が言う。ちらりと振り返れば、洗い物を手にしたまま、一騎が物欲しげにそわそわと総士を見ている。そんなにしたいのならば、手の中のものを置いて、さっさと洗い流して自分が動けばいいのに、そうしない一騎の意図を総士はもう察していた。せっかく総士が積極的にキスをしてくれたのだから、もう一度、総士から動いてほしい、という一騎の望みが透けて見える。
 ――仕方がない。
 今日は、総士のほうががまんできずに先に動いてしまったのだから、責任は取らなければならない。
 それが自分に対する言い訳に過ぎないことも、そんな言い訳がなくたって、自分もまだ一騎に触れていたいのだということもわかっていて、総士はもういちどそっと、眼鏡を外した。



2019.05.24 文庫ページメーカー初出
総士からアプローチしていくの好きなんですよね