ブルーローズの君

「きれいだねぇ」

 厨房でコーヒーをドリップしている一騎の耳に、ささやかな声が届いた。そうだね、という同意の声に頬がゆるむ。敢えて顔を上げなくとも、それが何を指した言葉なのかはわかっていた。
 一騎ひとりで営むちいさな喫茶店には、午後のやわらかな日が差し込んでいる。落ち着いた焦げ茶の木目の壁にはめ込まれた同じ色の出窓。そこには今朝方届けられたばかりの花がささやかに咲いている。透き通った青色のガラス瓶に挿されたのはブルーローズだ。不可能を可能にした花。夢を叶えるという言葉をもつ、可憐な花だ。


「一周年だろう」

 おめでとう、と言いながらブルーローズを抱えた男は、どことなく不機嫌そうな顔だった。しかし、それが早起きをしたせいでも、何かに憤っているわけでもないことは、長い亜麻色の髪からわずかにのぞく、赤く染まった耳朶を見ればわかった。慣れないことをしている自分自身に対しての、照れ隠しだろう。何を黙っているんだ、まさか自分の店の記念日も覚えていないのか、仮にも経営者なのだからこういう場合にはイベントを打ち出すなどして集客を云々と早口でまくし立てだした、男にしては柔らかいと知っている唇を、一騎は衝動的に自分のそれでふさいだ。あいだで潰された薔薇がだめになってしまう、と気づいてすぐに離れたが、突然のことに対処ができずに顔を赤くしたまま固まる総士がかわいくて、またキスしたくなるのを一騎はなんとか耐えた。

 喫茶店の近くで花屋を営む皆城総士という男と出会ったのは、一年と少し前だ。
 店員として働いていた喫茶店から独立して、自分の店を出す準備をしていた一騎に、花のあるお店がいいなぁと言ったのは常連客の真矢とカノンだった。自分の作るものを提供する、ということ以外、店の内装などに特にこだわりがなかった一騎のために、彼女たちはあれやこれやとアイデアを出してくれていた。
 男女ともに入りやすくて、珈琲一杯で長居ができるような、ゆったりとした場所を作りたいという一騎に、「花は心を落ち着かせてもくれるし、季節で替えやすいでしょう?」「絵画や写真はあまり、お前は得意ではないだろうしな」と助言してくれたのだ。なるほど確かに、何も無く殺風景な店では居づらいだろう。絵や写真は選ぶのが手間だ。花なら、季節ごとに合うものを花屋で見繕ってもらえばいい。一騎が勤めていた喫茶店の店長である溝口にも、馴染みの花屋があって、そこで花を仕入れていた。
 店を出す近くで、良い花屋はないかと探していた一騎に、「愛想はないけど、品揃えと花の選び方には定評がある」と、同級生の剣司が教えてくれたのが、総士の勤める花屋だった。
 落ち着いた外観の店先には、整然と、しかしのびのびと、花々が並べられていた。見たことの無いような花も多くあって、思わず惚けて立ち尽くした一騎が、多くの花々の向こうにとらえたのは、長い亜麻色の髪。振り向く動きにあわせて揺れる、長くふわふわとした髪は肩あたりでひとつに結ばれ、すらりと伸びた長身の痩躯にやわらかな印象を与えていた。
 後に一騎は、「なんかきらきらしてきれいで、人間だと思わなかった」などと表現し、総士からたいそう胡乱な目で見られることになるのだが、このときの一騎は本当にそうおもったのだ。
 そのうつくしいひとは、近づいてみれば一騎より長身の男で、剣司の評したとおり、愛想はなかった。一見すれば不機嫌そうで生真面目な顔はあまり動かず、強い灰色の瞳がまっすぐ一騎をとらえ、すこしたじろいだ。
 しかし、事情を話した一騎に「うちで良ければ」とあっさり頷いてくれ、何も買わずに帰るのも…と、今のおすすめを包んでほしいと頼んだ一騎に、真剣に花を選んでくれたのだ。
 花を抜き取る指先は仕事柄なのか荒れていて、俺とおんなじだな、などと思った。けれども骨ばって白く細い指が花を丁寧にあつかうさまが、動かない表情とは対称的にやさしく、やわらかく、――艶やかで、一騎は思わずどきりとした。
 おまけに、花を受け取ってなんとなくにおいを吸い込み、清々しい香りに思わず顔をゆるめた一騎に「……花が似合いますね」と言った彼はかすかに笑んでいた。それを見た瞬間に、一騎の頬には熱が集中し、こころがとんでもなくおおきな音をたてて、彼にむかってころがりおちたような気がした。
 それから何度も何度も花屋に通い、総士に花を届けてもらい、あれこれ話をして、花屋の二階に住んでいる彼の不摂生を知り、店に呼んだり、食事をもっていったりしているうちに――互いの家に上がり込んでひとつの布団で眠ることが当たり前のような関係になっていた。
 そんな彼が、店の一周年を覚えていてくれたことが、一騎はとてもうれしかったのだ。
 まして、ブルーローズは、総士自身が大切にしている花だ。
 生物学を専攻し、植物の品種改良などを研究していた彼は、今もなお細々とその研究を続けている。しかし一方で彼は、動植物に人の手を加えることを厭うきらいもあった。自分のなかで相反している想いに悩むことは多く、品種改良や遺伝子組み換えでつくられた数々のブルーローズも、彼にとっては複雑な存在であるらしい。
 けれど、不可能と言われたブルーローズが世界に生まれ、不可能を可能にする花だと言われ、それを好ましく思い、心の支えにしたのが彼の双子の妹たちだったという。先天性の難病を患っていた妹たちは、総士にあんな花が見たいこんな花が見たいとせがみ、総士はその夢を叶えてやりたくて植物の研究を始めた。そんななかでブルーローズは、彼女たちの――そして総士の、希望になった。今は後遺症もなく元気に暮らしている妹たちは、総士のことがだいすきで、花屋にも、一騎の店にもよくやってくる。
 そんな経緯を知っているから、彼にとってのブルーローズの意味を知っているから、それを一騎のために選んでくれたことが、とくべつに嬉しい。

 ドリップしおわったコーヒーをテーブルに持って行き、「良ければ一輪持ち帰られますか?」と、予め包んであったブルーローズを差し出す。一周年だから、と特別なイベントは何も企画していなかったが、総士の持参してくれた花は飾っても余るほどだったので、先着で配布することにしたのだった。しあわせは分けるものだからな、とは、総士の弁だ。

「これ、薔薇ですか?」

 礼を言って受け取った女性客に訊かれて「青い薔薇なんですよ」と一騎はほほえむ。

「たいせつなひとからもらったしあわせの、おすそわけです」

 からん、とドアベルを鳴らしてまさに店に入ってきた亜麻色の髪の男が、さりげなく向けられた一騎の視線に何かを感じたのか、わずかに染まった目元をぱちぱちとまたたかせた。



2019.06.06 文庫ページメーカー初出
喫茶花屋パロのプロトタイプですがほぼ違う設定になったので、こちらはシリーズ外として載せました。葬儀場で花のカタログ見て思いついた話なんですがそんな雰囲気は欠片もない。