十字路の喫茶店
芳ばしい香りがした。
挽いた豆のうえにそそがれる湯のゆっくりとした動きにあわせて、ふんわりと広がってゆく香り。日に何度も味わっていたはずの香りなのに――いや、だからこそ、これは「ちがう」と思う。珈琲には個性が出る。使う道具ひとつ、湯のそそぎ方ひとつで、香りも味も色も変わる。それを最初に教えてくれたのは溝口で、淹れ方を変えるよろこびを教えてくれたのは、もう、ここにはいないひとだ。
「……起きた?」
かすかに陶器のふれあう音がして瞼をゆっくり上げると、見慣れた顔が、見慣れぬものをして、一騎の顔を覗き込んでいる。ぱちぱちと目をまたたかせて「……寝てたわけじゃ、ないんだけど」と苦笑すると、テーブルの上に白いカップに入れられた珈琲を差し出された。ゆらゆらと揺れる水面の色は、やっぱりちがう。一騎が淹れてきたものとも――総士が好んでいたものとも。
「……甲洋の珈琲って、こんな感じなんだな」
「見た目だけでわかる?」
「色とか香りとかちがうし、当然、豆だって、前のとはちがうだろ?」
椅子を引いて一騎の向かい側に座った甲洋は、自分のものらしいカップをつまみ、ゆったりと香りを味わっている。人間ではないからだになって、それでも周りにあわせて少しだけ成長し、甘い表情に精悍さが加わった彼は、そうしているだけでどこかの雑誌に載りそうなくらい様になっている。ほほえんだ顔は、島に帰ってきたばかりの一年ほど前よりずっと、かつての甲洋に近づいた。
並んだ窓からさしこむ茜色の日差しが、キャラメル色の店内をより濃く染めていく。
――海神島へ来て約一年。ほとんどのシステムが復旧し、敵意を向けて来るフェストゥムの群れの襲来はほぼなくなった。システム復旧までのあいだ、島の防衛のために常に待機しているような状態だった一騎や甲洋も、ようやく他の人々と変わらない日常生活をおこなう時間の余裕が出てきた。そんなとき、喫茶店をやらないか、という声がかかった。かつての喫茶楽園の常連だったひとびとが、一騎のつくるものを食べたい、と声を上げたらしい。
新しく設えられた店は、かつてのものとは違う。けれど、落ち着いた色合いで統一された店内は、どこか、ほっとする雰囲気があって、好ましいと思う。
ただ、一騎はひとたび戦闘に参加すると、しばらくのあいだ、眠りに入ってしまう。また、まだ幼い総士を育てるという役目もあった。以前のように、四六時中、厨房に立つことはできない。そこで白羽の矢が立ったのが甲洋と操だった。もともと喫茶楽園も甲洋の家であり、幼いころから両親を手伝っていたので、ある程度の調理も、接客も、問題なくこなせる。甲洋も力を使いすぎれば眠りが必要にはなるけれど、一騎ほど頻繁ではない。操は、「戦力外だろ」と甲洋に言われ逆にやる気になったらしく、目下、修行中だ。
ようすを見ながら、三人の思うようにすればいい、と言われたので、最初のうちは一週間に二日程度でも営業できればいいだろう、というのを目標にしている。時間も、今のところまちまちだ。ふらりと寄ったときに開いていれば運がいい、くらいの緩さだが、「そういうの、すてきだね」と真矢は笑ってくれた。
今日は総士が遠見家に泊まることになっているので、今から夜にかけて営業をする予定だ。
一騎が出勤するのはこれでやっと二度目なので、甲洋の珈琲をこうして飲むのは初めてだった。一騎が淹れ慣れたものより、すこし酸味が強いが、美味しい。ほっと息を吐きながらカップを置いて、甲洋の顔をうかがう。
その顔にはさきほども気にかかった、見慣れぬものがあった。シックな色合いの眼鏡だ。似合ってはいるけれど、どうしたってそんなものをかけているんだろうか。
珈琲を口にしながら、「それ、」と視線を向けると、何を言われているのか察したらしい甲洋が「ああ」とうなずいて、眼鏡の淵に触れた。
「伊達だよ。作ってもらったんだ。みんなそろそろ落ち着いてきて、俺たちも島の中で暮らす時間が多くなるし、ここで働くうえでも、あったほうがいいかなって」
来主もさ、おそろいがいいって、作ってもらってたよ。
甲洋の言葉に、なんで、と、言いそうになって、一騎は口をつぐんだ。おなじように、なぜ、と、言ってしまったことがある。困ったように微笑んで、「僕が、人として生きるために」と言ったあの表情を、今でも覚えている。
その眼鏡には、ひとみの色を隠す役割があった。
かつての総士や、今の一騎たちは、からだの組成が人とは異なる。フェストゥムに近い存在で、ふだんは人と何ら変わりない姿をしているが、力を行使しようと思えば、かれらと同じようにからだやひとみは金色に光る。ひとみに至っては、自分の意図しないときにも金に変わることがあった。総士のそれを、一騎は、きれいだなぁとしか、思ったことがない。からだの組成が人とちがっても、一騎にとって総士は総士だった。朝焼けのひとみを愛おしくおもうのとおなじように、金色のひとみを、総士が帰ってきたあかしのように、大事におもっていた。
けれど、島の人々がみな、それを受け入れられるわけではないのだと、かつて総士は言った。
フェストゥムと対話し、共存の道を模索する島の人々でさえも、フェストゥムに対して、その未知のちからに対して、恐れを抱いていないわけではない。かれらの因子を取り込み子を為して、かれらの力の一部を戦うための兵器に取り込んでいてもなお、恐怖も憎悪も、欠片もないなんて、言い切れるひとはいない。
遺伝子に因子を取り込むことにまだ不慣れだった時代、それによって死んでいった子どもたちがいる、その親がいる。ファフナーが今よりずっと不安定な兵器だった時代、搭乗実験だけで命を失った者もいる、その友も家族もいる。そしてなにより、かつて日本があった時代に、まだ何の力もなかった時代に、ただ圧倒的な力によって破壊されていく故郷や家族を見てきたおとなたちがいる。
日常のなかに不意に「敵」とおなじ力を見つけたとき、あたりまえのように総士を総士だと、そういう目で見てくれるひとばかりではないのだと。それは仕方がない事なのだと。
――僕が人として生きるために、この日常のなかにいるために、必要なものだから。
総士の言葉の意味は、一騎にもよくわかっていた。何より総士が傷つくことがないように、それは必要なものなのだと、そう理解した。けれど、一騎はあの眼鏡が好きではなかった。
総士のために必要なもの。総士自身が望んだもの。島のひとびとを愛し慈しむからこそ、総士はあれをかけていた。そんな総士が一騎は愛しくてかなしかった。歩み寄るための道のりは、そんなに、遠いものなのだろうか。
そう、思っていた。
けれど今、自分自身がひとではないからだになって、思う。笑顔を向けてくれる島のひとびとが、もし、自分のことを「敵」を見るような目で見て来たら、きっと苦しい。“そうしたくはなかったのに、そんな目で見てしまった”彼らの心のうちを思うと、苦しくてたまらない。きっと彼らは傷つくだろう。優しいから、優しいひとたちだから、自分のなかにある「敵」と「味方」を区別するこころに、共存を選びながら未だ存在する憎悪に気づいて、傷つくだろう。
総士はきっとそれが、いやだったのだ。
誰よりもさきに島の真実を知って、いとしい妹が、島の一部として、フェストゥムとして、ひとびとに認識され、あつかわれるさまを、誰よりそばで見守ってきたのだから。それでもなお、ひとびとがあの子を、乙姫を、人として受け入れ、見守り、短い生を謳歌するさまを見守る姿も、知っていたのだから。
彼女も総士も、人として人生を歩んで生ききった。ならば――それならば、総士は、今、一騎のてのなかで懸命に手を伸ばし、笑顔を見せ、毎日をせいいっぱい生きようとしているこどもは、どういう道を歩むだろう。どんなふうに、生きていくのだろう。
「……甲洋は……、自分のために、かけるのか? それとも、島の人のために?」
揺れる珈琲の水面を見つめながらぽつんと問うた。かつて、フェストゥムと同化したばかりのころ、彼は島のひとびとによって「排除」されそうになったことがある。その記憶が彼にはあるはずだった。
甲洋はちいさく笑って頬杖をつく。
「そうだなぁ……、俺は、そんなに簡単なことじゃないと、思うよ。まったくちがう思考や歴史をもった者同士が、お互いを受け入れるっていうのはさ。竜宮島のひとたちと、シュリーナガルのひとたちだって、そうだろう。ましてや、フェストゥムと人間は、互いに、憎む時間が多かった。今もだ。戦わずに対話する術が完成されたわけじゃない」
「……ああ」
「俺だって、翔子が飛んで行った空の色も、自分が同化されたときの海の底の冷たさも、憶えていないわけじゃない」
「……うん」
一騎だってそうだ。翔子や衛
を、道生たちを奪い、総士を連れ去り、ながい旅のなかで数々のひとびとのいのちを奪っていったフェストゥムたちのことを思い出すと、胸の奥底で疼くものがある。憎しみ、奪い合い、戦うだけでは未来は作れない。それでも、しこりのように残ったものを、溶かしてしまうにはまだ、時間が足りない。
「みんな、どうにかして、一緒にいる未来をつくりたいと思っている。どれだけ心の奥に取り除けないものがあっても、それは確かだ。だから俺は、寄り添いたいよ、みんなのおもいに」
自分のためとも、島の人のためとも、甲洋は言わない。
そうか、と、一騎は細く長く息を吐いた。
「……一騎は?」
「え?」
「一騎は、かける気はないんだろう?」
どうして、と、甲洋はやわらかな声音で言った。やさしい表情がそこにある。ああ、そういえば、まだ竜宮島がただひたすらに平和な時間を刻んでいると思っていたころ、夕暮れの教室で、どうしても解けなかった数式とにらめっこする一騎に、「もうちょっとで解けるじゃないか」と決して急かすことなく付き合ってくれた甲洋は、いつだってこんな顔をしていた。一騎のペースにあわせて、必ず待っていてくれた。とても気が楽で、ここちよくて、好きな時間だった。
お互いに人間としての生を終えてしまったというのに、それでも、まとう雰囲気はあのころと変わらない。
すこし泣きそうになってしまったのは、懐かしさからだったのだろうか。戦闘後の長い眠りから覚めて時間が浅いせいで、まだどこか、こころが緩んでいるのかもしれない。落ち着かせるように珈琲をひとくち飲み込んで、一騎は店の外を見やった。仕事帰りのおとなたち。遊び疲れて家に帰るのだろうこどもたち。故郷も思想も文化も歴史も、なにもかもちがうひとたち。そのなかで、一騎のだいじなこどもは育ってゆく。
「……俺は、……総士に、何も気負わずに、生きてほしい。ひととちがうことで、傷ついてほしくない。後ろめたさを感じてほしくないんだ」
総士は、身体的に一騎たちとおなじような変化が起こるかどうか、まだわかっていない。一騎や甲洋のからだも特殊だが、総士にいたっては未知の部分が多すぎる。それでもきっと、いつか、「人間」と呼ばれるものたちと、「ちがう」ことに苛まれる日は来るだろう。そのとき、人として生きてゆくかどうか、この島で暮らしてゆくのかどうか、選ぶのは総士自身だ。けれど、できることならば、その日までも、その日からも、総士が総士であることに、当たり前に生きることに、傷ついてほしくない。
一騎は総士に、眼鏡をかけろなんて言うことはできない。そのひとみを隠せとは言えない。ありのままのお前を受け入れて、愛してくれる、そんな世界であってほしい。それだけを願っている。だから一騎も眼鏡をかけない。傷つけることになるのだとしても、傷つくことになるのだとしても、そうやって足掻いてゆくなかで、互いの境界が解け合う日がくるのだと、思っているから。
それは決して甲洋たちの想いを否定するのでも、対立するわけでもない。それぞれが、それぞれの方法で、互いの交わる場所を見つけていければいいと思う。だからもしも、総士が眼鏡をかけたいというのなら、そのときは、一騎は何も言わないだろう。自分で選ぶ。そのちからが養われるまで、見守るのが一騎の役目だ。
甲洋は、「そっか」と目を細めてかすかに笑んだ。否定も肯定もしない、けれど、一騎の言葉を受け止めてくれるその声が、うれしい。
一騎もほっと息を吐いて、珈琲に口を付けたところで、ばん、と、ものすごい音で店のドアが開いた。
「っあ―――! 一騎と甲洋ぬけがけだー!」
からんからん、と本来ならばもっと情緒のある音を鳴らすはずのドアベルがけたたましく鳴り響いて、それよりも大きな声が空間を揺らす。
「……来主、うるさい」
しまった、気を抜いてて気配を感じられなかった、と、甲洋が顔をしかめる。操はずかずかとふたりのテーブルまで寄ってくると、「俺が来るまで待っててくれてもいいじゃん!」と頬を膨らませた。先にふたりで珈琲を飲んでいたのがお気に召さないらしい。おそろいがいい、いっしょがいい、というのがここ最近の操の口癖だ。一騎と甲洋が眠ってしまうと、操はひとりになる。それがどうも嫌らしく、起き抜けは特に「いっしょ」にこだわるのだ。ふとその顔を見れば、甲洋と「おそろい」の眼鏡をしている。操のほうがまるっこいデザインで、くりくりとした彼のおさない目にはよく似合っている。
「お前、珈琲飲めないだろう?」
「飲めないわけじゃないよ。砂糖とミルクたっぷり入れてくれたら!」
「これブラックだから」
淡々と言葉を返す甲洋に操がますます頬をふくらませる。これがふたりなりのコミュニケーションだとわかっているので、一騎はおもわず笑いながら「俺が淹れてやるよ」と席を立つ。
「砂糖とミルクたっぷりのカフェオレでいいんだろ」
「やったー! 一騎ありがとう!」
「あ、一騎の珈琲、俺も飲みたい。ブラックで」
「甲洋はもうそれ飲んでるじゃん。珈琲の飲み過ぎは良くないって容子が言ってたよ?」
一騎は一気ににぎやかになった店内に明かりをともし、手慣れた動きでフィルターやサーバーを用意し、ドリップポットに薬缶から湯を移し替える。淹れ方は今も昔も変わらない。挽いた豆をペーパーフィルターに入れて、細く長い湯をゆっくりとそそぐ。かつての総士には、時間があるときだけ、ネルフィルターでもっとじっくりと抽出した珈琲を出していた。あの味をふたたびつくることはきっとない。自分のために同じ淹れ方をしたって、味わう相手がいないのだから、同じ味になりようがない。今は、今ここでしかできないものを、これまでの過去を活かしてつくるのが、一騎の仕事だ。
いつか総士も連れてこよう。珈琲のかわりにホットミルクを出してやろう。彼は何を好きになるのだろうか。珈琲だろうか、紅茶だろうか。日本茶かもしれないし、そもそもお茶に興味も抱かないかもしれない。彼が何かを好きになる。それがいい、これがいいと、選ぶようになる。その日が、待ち遠しい。
カラン、とドアベルが鳴る。
不定休、営業時間未定、開いていれば運がいい。そんな店への来客に、「いらっしゃいませ!」と三人は口々に声を上げた。
2019.09.23 Privatter初出
一騎と甲洋と操の話はもっと書きたいです