はじめましてまでのこと

 ぱた、ぺた、と音がする。
 ――音。
 これが音だ。
 薄い膜を隔てた向こう側でどこか遠く響いていた音が、初めて鼓膜を震わせている。誰もいない廊下には、足音以外の音がない。これが静寂。しん、とした空気。ひとりきりの世界で飽きるくらい味わっていたはずの静寂を、音のある世界に出て、初めて意識する。音があるから、音がないことがわかる。誰かがいるから、自分がいることがわかるのと、それは、とても似ている。
 素肌に触れる空気が少しひんやりとしている。裸――そう、外に出るなら、何かを身につけなければいけない。
 ここから近くて、服がたくさんあるところを思い浮かべる。毎日制服が集まってくる地下十三階……いや、それは遠い。この先にあるものは――ロッカールームだ。みんながふだんの服を脱ぎ、制服に着替えるところ。
 入りたいと思えば、開けたいと思えば、施設内のロックはいとも簡単に解除できる。外に出て初めて「自分のため」にシステムを操作しているのが、なんだか悪いことをしているようで、たのしい。
 ロッカールームも真っ暗でしんとしていた。迷うことなく乙姫はいちばん奥に並んでいるロッカーに向かう。真ん中あたりの扉。いつもひとり、くるしいきもちも、かなしいきもちも、なきたいきもちも、ぜんぶ飲み込んで、制服に袖をとおす姿を、何年も見てきた。

“MINASHIRO SOSHI”

 そう書いてある扉を撫でる。
 みなしろそうし。――そうし。

「……そ、……し」

 何度も何度も、何度も、心のうちでその名を呼んだ。毎日のように傍らに来てはやわらかなひとみで見つめてくるひとを、愛しげにガラスを撫でるひとを、胸のうちに、言葉にできないおもいをたくさん抱いているひとを、システムを通して見てきた。誰よりもそのこころを近くに感じてきた。けれど、初めて、自分のくちびるを使って、その名前をつむぐ。

「そう、し」

 口の端が、ふにゃふにゃと上がる。ああ、これが笑うということだ。うれしい。たった三文字の音がこんなにも心をゆるませる。総士も、そうだったのだろうか。つばき、と、やさしく名を呼ぶ声を思い出せば、早くあの声を、この耳でちゃんと聴いてみたいというおもいでいっぱいになる。
 勝手にごめんね、とこころのなかで謝って扉を開けると、見覚えのある服が几帳面にかけられていた。まだからだがうまく動かないので、いちばん着やすいパーカーを手に取る。ちょっと手間取りながら肩から羽織ると、やわらかな布地が素肌に触れてきもちいい。着替えてから時間は経っているはずなのに、なんだかあたたかいような気がした。
 当然ながら袖も裾も余ってしまうけれど、仕方がない。

「ふふ……ぶかぶか。そうしの」

 ――だってお兄ちゃんだもの。
 意識を向けなくても、島への侵入者を前に、島のこと、島のひとたちのこと、そしてなにより、乙姫のことを心配して、どうにかしなければと焦っているこころが見える。
 ――だいじょうぶだよ、そうし。
 外に出なければ。そして、選んでもらわなければ。
 乙姫は、ぎゅう、と一度、パーカーに顔を埋めてから、また歩き出す。
 初めての外。初めての風。初めての空。それが、乙姫を待っている。



2019.09.25 文庫ページメーカー初出
お兄ちゃんのパーカーを羽織る姿を公式で見られるなんて思わなくて発狂しました