或る日の朝から晩まで

【朝】

 最近、気づいてしまったことがある。

 暗がりのなかで目を開けて、枕元の電子時計を確認すると午前六時過ぎを示していた。いつもの一騎の起床時間よりもすこし遅い。ちょっと身じろいで、隣を見れば、すぅ、すぅ、と穏やかで規則的な寝息をたてながら総士が眠っていた。一騎のほうを向いて身を丸めて眠る姿はいつもと変わらない。総士自身に自覚はないようだが、こうして身を丸めるのが落ち着くらしい。
 まるくて白い肩が布団からはみ出していていたので、そっと身を起こして掛け布団を引き上げ、そのまま一騎はベッドから降りた。昨夜はお互いに眠くて、一度抱き合ってシャワーを浴びてから吸い込まれるようにベッドに潜ってしまったから、下着しか身につけていない。それでもアルヴィス内の総士の部屋は適度に暖房が効いているので、寒くて震えることはない。
 うちじゃ無理だよな、と思いながら、一騎はソファの上に脱ぎ散らかしていた服を身につけた。エアコンなどない一騎の家では、冬は裸のからだをくっつけて眠っても寒いから、総士はどんなに疲れても眠くても、必ず一騎の用意したふかふかの部屋着を着て眠る。寒がりの総士のために良い部屋着を探していると言ったら、芹がすすめてくれたものだった。あれを総士は気に入ってくれているらしい。
 しかし、あたたかい総士の部屋で、互いの体温を感じながらぴたりと肌を寄せて眠るのも、たぶん、総士はすきなのだ。
 その証拠に――。

「…………ん…………」

 一騎が着替え終わり、総士の部屋に泊まるようになってから常備しているちいさなポットで湯を沸かし、楽園から持参したコーヒーをドリップ用のフィルターに入れたところで、布団がもぞもぞと動いた。
 肘を立てて、うつ伏せで半身をわずかに起こした総士が、ぼんやりとした顔をのぞかせる。そして、寝ぼけているのか、ソファのほうにいる一騎には気づかず、ぱふぱふと自分の隣をてのひらで確かめるように叩いた。そこに目当ての人間がいないことが分かったのだろう。落ち込むように眉根を下げたあと、まだわずかに温もりが残っているらしい、さきほどまで一騎がいたスペースに緩慢な動きで移動し、ぱたん、と、からだを伏せてしまった。しばらくすると、また布団が呼吸にあわせて規則正しく上下し出す。
 この総士の行動に気づいてからというもの、一騎のなかでは朝のひとつの楽しみになってしまった。何度見てもかわいい。

「……へへ」

 コーヒーの匂いにつられた総士が完全に覚醒するまで、一騎はこんもりふくらんだ布団をゆるんだ顔で見つめていた。


【昼】

 土曜の喫茶楽園のランチタイムは大忙しだ。
 平日は店主の溝口がひとりで回しているために、ランチの数には限りがある。そのため、近場で働いている溝口の知り合いが来るばかりらしい。だが土日はアルバイトの一騎や真矢が入る。一騎の作るランチは、彼が休学しているあいだ、楽園で働いていたころから評判だったので、復学した今は一騎のいる休日を狙ってくる客が多いのだ。
 それが分かっているから、総士はピークの時間帯には、楽園に行く気になれずにいる。
 人と接触したくないというわけではない。賑やかな会話の中に入るのは得意ではないけれど、ひとびとが楽しそうな空気を感じるのは好きだ。フェストゥムのからだを以て島に帰ってきた総士のことを受け入れてくれた彼らは、総士のことを避けたり怖がったりすることもない。
 ただ――どうしてか、一騎が客たちに囲まれて話しかけられているのを見ると、誇らしくてうれしい反面、妙な居心地の悪さを感じるのだ。
 その場にすこし居づらくなって、一騎の顔を見ていられなくなる。しどろもどろになりながらも、やわらかなあの声で受け答えをし、明るい声で笑う一騎に何も話しかけられなくて、つい溝口や真矢のいるタイミングを見て精算をして店を出てしまう。
 どうしてだろう。
 ぼんやりと半分以上減ってしまった珈琲を見つめながら考える。
 ピークを過ぎた店内には総士しかいなかった。真矢は休憩で席を外し、溝口は先に上がってしまって、厨房のなかには洗い物をする一騎の姿しかない。
 黙々と食器を洗っている一騎の横顔は楽しそうだ。総士が島へ帰ってきてからの一騎はずっとこんな調子で、史彦には「ありがとう」と顔を合わせるたびに言われて面映ゆい思いをしている。息子が頻繁に総士のところで寝泊まりしても何も言わないのは、一騎の変化を父親としてよろこんでいるからなのだろうけれど、総士の部屋に泊まってしていることと言えば――と、そこまで考えてふるふると首を振った。昼間に思い出すことじゃない。昨夜は一度だけだったから今朝はあまり痕跡らしい痕跡は残っていなかったものの、記憶力のよい総士の性質上、すこしでも思い浮かべようものならすべてが脳裏に再現されてしまう。
 大きく息を吐いて、ふたたび顔を上げると、ぱちりと一騎と目が合った。榛のひとみが、総士と目が合った、それだけでうれしいというようにとろとろ溶ける。

「……珈琲、おかわりいるか?」
「……いただこう」

 わかった、待ってて、とほほえんだ一騎の横顔をちらちらと見ながら、総士は一騎にはわからないようにため息をこぼした。
 ――一騎に声をかけられただけで、きもちが浮き立っている自分だって、大概だ。
 ぬるくなってしまった珈琲を飲み干して、二杯目を待つ。
 その珈琲が、寝起きに飲んだものとはすこしちがうことも、どちらも総士の好む味であることも、――そのどちらも他の客には出されないものであることも総士は知っている。

 ああそうだ。
 他の客には囲まれている一騎を見て居心地が悪くなるのは、自分が特別扱いされているという罪悪感と――それからすこしの、優越感と、さみしさなのだ。

 かつての自分ならば、自分自身に抱くことをゆるせなかったであろう感情を、午後のやわらかなひざしのなかへ、呼吸にのせて吐き出した。


【夕】

 すこしずつ、日の沈む時間は遅くなっている。
 楽園は本日、夜営業はお休みだ。片付けをして最後の戸締りをしたところで隣で待っている総士に時間をたずねると「十六時十分過ぎだ」と正確な答えが返ってきた。じわじわと茜色に染まりつつある空を見上げて、「今日夕飯どうする?」と問えば、ことん、と首を傾げられる。
 総士のささいな仕草がやけに可愛らしいと思うようになったのは、最近のことだ。今まで気づかなかっただけなのか、総士の雰囲気が変わったせいなのかは分からない。相変わらずがつがつと大股で歩くし、意外に無頓着で、風呂上がりに髪を中途半端に乾かして端末に夢中になっているし、「可愛らしい」とは必ずしも結びつかないところも多いのだが。

「夕飯、うちで食べるだろ? 何がいい?」

 もう一度聞き直すと、合点がいったらしい。最近はしょっちゅう総士が真壁家で夕飯を食べていて、当たり前のようになっているから、どうしてもそのあたりを省いて訊いてしまう。

「なんでも……、というのは困るんだろう?」
「うーん、まぁな。でも、ありあわせでいいなら、適当に考えるよ」

 冷蔵庫に何が残っていたか思い浮かべつつ、楽園のランチがオムライスだったから和食にしよう、できれば魚がいいな、と考える。足りないものがあるかもしれないから、一応商店街へ寄って帰ろうと総士に言うと、うなずいて隣を歩き出した。

「たまには、司令の食べたいものにしたらどうだ?」
「父さんの? 父さんこそ何聞いてもなんでもいい、って言うんだよな」
「そうか。……その気持ちはわかる気がするな」

 総士がくすりとちいさく笑って言う。なんでだと一騎が首をかしげると、「なんでも“良い”んだ、ほんとうに」と言ったあと、口元に手を当てて「いや……」とちょっとなにかを考えるポーズをとった。

「言い方が良くないな。なんでも……ではなく、なにもかもが、良いんだ。お前がつくるものは、何を食べても美味しい。長年お前の料理を食べてきた司令なら、その美味しさはわかっているし、なにより……司令にとっては、息子であるお前のつくるものなのだから、余計に特別だろう」

 総士の言葉に、一騎は思わず足をとめた。何を出しても総士は美味しいと言って食べてくれるし、それはうれしい。面と向かって言われると、それが何度目だって心が浮き立ってしまう。けれど気になったのはそこではなくて――。

「一騎?」
「じゃあ……、じゃあ、お前にとっても、俺のご飯って、特別か?」

 総士はきょとんとしたあと、目をまたたかせて、ふんわりと笑った。茜色の陽が、風に揺れる亜麻色の髪をふちどって、あんまりにもきれいで見惚れる。

「――特別にきまっている。こんなに“あたりまえ”にお前のつくるものを食べられることは、僕にとって、“あたりまえ”のことではなかった。こんな、ほとんど、毎日……、夢のようだと、思う」

 ――今でも。
 総士はそれを言葉にはしなかった。けれど一騎には伝わる。一騎よりもずっとずっと、総士は、“あたりまえ”の重みを知っている。たべものを口にする、そのからだすらも失っていた総士は、あたりまえがあたりまえじゃないことを、誰より知っている。だから一騎は、もっともっと、あたりまえを総士に手渡したい。美味しいものを食べて、あたたかい風呂に入って、あたたかい布団で身を寄せ合って眠ることを、もっと――もっと。もどってきたからだに、染み込んでいっぱいになるくらい。毎日続く特別が、特別なまま、総士にとっての日常になるように。

「……夢だって思わないくらい、いっぱい食わせてやる」
「そうか。またメディカルチェックで体重の増加を喜ばれるのだろうな」

 冗談交じりに言葉を交わし、ふたりはどちらからともなく、手をつないだ。


【夜】

 真壁家の風呂場は、アルヴィスの部屋に設えられているバスルームとも、かつて暮らしていた皆城の家の浴室ともまったくちがう。薄青のタイルが敷き詰められた壁に、不揃いの色とりどりのタイルが敷かれた床、ステンレス製の湯船という古めかしい装いだった。
 シャワーだけすこし真新しいのは、最近になって増設されたものだからだ。一年間の昏睡状態から目覚め、体力も視力も衰えていた一騎のために、史彦が家のなかの家具などをわかりやすく配置するのにあわせて設えたらしい。風呂桶で湯を汲むのは大変だと思ったのだろう。一騎は「父さんに風呂に入れてもらうのって抵抗があったから、これがいちばん助かったかもな」と言っていたので、大ざっぱなように見えて、史彦はやはり息子のことをよくわかっているのだと、シャワーを使うたびに総士は思う。
 一方、総士は、真壁家の風呂の、すこし狭いが深めの湯船がなによりすきだった。自室のバスルームではほとんどシャワーしか使わない。だいたい夜遅くまで作業をしていることが多いせいで、湯に浸かるのが面倒になってしまうのだ。一騎が泊まるときとて、風呂にゆっくり浸かるという雰囲気ではないことが多いので滅多に湯は張らない。ゆえに、真壁家に泊まるとき、たっぷりの熱めの湯に浸かるのが、総士にとってひとつの楽しみだった。
 からだがすみずみまで温まって、ふわふわとした心地よさを感じながら脱衣所に出れば、タオルから着替えまでひととおりのものがしっかり用意されている。下着も部屋着も、急に泊まることになっても間に合う程度のものが、いつの間にか一騎の部屋の箪笥に常備されるようになっていた。――いや、下着はさすがに自分で持って来たのだが。
 部屋着は一騎が買ってきてくれたもので、冬用なのか、厚手のふかふかした生地で、着るととてもあたたかい。エアコンのない真壁家で風呂上がりに歩き回ってもまったく冷えないという優れものだ。
 ――改めて考えても至れり尽くせりだな。
 がしがしと濡れた髪を適度にタオルで拭きながら一騎の部屋に入ると、「あっ、また適当にしてるな!」と、先に布団の上で待っていた一騎がしかめっ面をした。以前は一騎のほうが総士より後に風呂に入っていたのだが、そうすると、髪を乾かす前に総士が寝落ちる頻度が高いと言って、最近では必ず一騎のほうが先に入って、こうして総士を待ち構えている。
 ほら座って、と促され、一騎の前に腰をおろすと、すぐに後ろからドライヤーの音が聞こえ出した。ほどよい温度が髪のうえを撫ぜ、ときどき髪の束を梳くように動かされる一騎の指先が頭皮や首元に触れるのがくすぐったい。
 この、髪を乾かしているあいだ、ドライヤーの音にまぎれてしまうから、ふたりのあいだに会話はない。熱風の音だけがひびいて、夜に立てるにはうるさいほうに分類されるはずのそれが、どうしてか、眠気を誘発する。瞼がじわじわと落ちてきて、そのたび、なんとか起きていようと総士は目をぱちぱちと瞬かせるが、あまり効果がない。いつもこうだ。一騎の手料理を食べて、史彦とすこし話しながら洗い物をして、風呂にゆっくりと入って、髪を乾かされると、自分でも信じられないくらいにからだもこころも緩みきってしまって、気づけばすべてを一騎にゆだねている。
 せめて自分で髪くらい乾かさねばと毎回思うのだけれど、一騎にしてもらう、という心地よさを覚えてしまったせいで、今更自分でやると言い出せなくなってしまった。
 ――……このまま、ねむってしまいたい。 
うとうとと、からだが前に傾いて揺れるのを自覚すると同時に、ふとドライヤーの音がやんだ。

「そぉし、もう寝そうだな」
「ん……」

 やさしく笑う声がすぐそばで聞こえて、ドライヤーを片付けたらしい一騎が、総士のからだをゆっくり引き倒す。抗うこともなく身を委ねれば、すぐにやわらかな布団がからだを包みこんだ。ぼんやりとした視界に、一騎のうれしそうな顔が映る。さきほどまで髪に触れていた手が伸びてきて、総士の左頬を包むように撫でた。

「俺、お前がおいしそうにご飯を食べてるときの顔と、眠そうにしてるときの顔が、いちばんすきかも」

 そうか、と、返したかったけれど、口がうごいただけで、声にはならなかった。一騎が目を細めて苦笑して、ぐっと顔を近づけてくる。当然、避けるような間も、ちからもなく、薄いくちびるが、総士のそれに触れた。かすめるだけのそのキスを、一騎があたりまえのようにするようになったのは、いつだったろう。ぬるい温度に安心して、思考はすぐに散漫になり、あまったるい眠りのなかへいざなわれる。からだを重ねたわけでもないのに、からだの内まで、一騎に与えられるぬくもりでいっぱいになってしまう。この瞬間がなによりしあわせで、それを伝えたいのに、もう瞼もくちびるも動かない。
 眠りにおちるその間際、おやすみ、と、やわらかな声が耳に届く。

 それが、おれもしあわせだと、言っているように聞こえたのは、きっと、まぼろしではないのだ。



2020.01.28 文庫ページメーカー初出
思いつきで、リアルタイムで朝昼夕晩、と書いてアップするのが楽しかったです