春が来た
春のにおいがする、と言ったら、それは何のにおいだと総士が首を傾げた。
灰色の瞳ににじんだ紫のひかりが木漏れ日のようにきらきら揺れている。間近にそれを見つめられるのは、一騎だけの特権だった。
あたたかな日差しのこぼれる海岸線に人の姿はない。島の裏側にある山や浜辺には、夏になれば海水浴を楽しむ子どもたちが姿を見せるけれど、三月のいま、用もないのにこんな、何もない辺鄙なところへ来る者はいない。じぶんたち、以外には。
浜から山へ入るところへ石積みがあり、ちょうどよい木漏れ日になっているそこへ腰掛け、ふたりは何をするでもなく身を寄せあっていた。
アルヴィスの出入口がこんな島の裏にもあるのを教えてくれたのは総士だった。ほとんど利用するものはいないだろうそれを総士がどうして知っているのか、一騎は知らないし、訊くつもりもない。
「なんだろう、なんか……ないか?そういうの」
抽象的すぎると、総士は顔をしかめながら一騎の髪へ頬を寄せ、「……春というか、同じにおいがするな」と言ってちいさく笑った。昨夜は総士の部屋に泊まったし、起きてからふたりでシャワーを浴びたから、まだ新鮮な、同じシャンプーのにおいがしているはずだ。総士がそれを、揶揄するように口にするのは珍しくて頬が熱くなる。
ちょっと、今日の総士は変だ。そもそも昼近くまでベッドに潜っていたくらい疲れているくせに、外へ出たいと言い出したのは総士だったし、腰を掛け、先に身を寄せたのも総士だった。
からだを取り戻した総士が島へ戻って半年以上が経つけれど、以前より距離が近くなって、肌を合わせることを知ってから、総士はすこしだけ一騎に甘えてくれるようになった。他者が見ればわからないくらいの、ほんのちいさな変化だけれど、一騎にとっては衝撃だったし、大きなよろこびだったのだ。
とは言っても、こうあからさまに総士が態度や口に出すのは、そうそうないことである。うれしいけれど、どう扱ってよいか、わからなくなってしまう。総士を、ではない。自分の、この、わきあがってくる感情を、だ。
ついに耐えきれなくなって、一騎はそわそわしながら「あのさ……」と視線をあさってのほうに向ける。
「……総士、なんか、あったのか? それか、俺がなにか、」
「一騎」
しようがないな、と笑うように名を呼んだ総士を見やれば、困ったようにほほえんでいる。それがあんまりきれいで、一騎は動揺していたことも忘れ、みとれた。
「春だからな」
簡潔に告げた総士は、もうこれ以上は言わないぞと言いたげに、ふたたび一騎の肩に頭をあずけて、視線を薄青の海の先へ向けてしまった。春だからって、なんだ。一騎の答えは抽象的だと言うくせに、総士のほうがもっとふわふわしている。春だからだろうか。日差しはやさしく、風はあたたかく、花はつぼみをふくらませ、どこか浮足立つ季節。
――いや。
ああ、と、一騎は、呼吸にまじって、嘆息する。
そうだ。
初めてだ。
ちらちらと揺れる木漏れ日にひかる、総士の傷痕へ指を伸ばす。そっと触れれば、総士が受け入れるように目を伏せて、喉元を撫でられる猫のように一騎に身を委ねる。
何度もめぐってくる春。クラス替えの表を見るたび、安堵し、安堵することに罪悪感を覚え、目を逸らし、うつむいた季節。
それを越えて、ふたりで迎える初めての、春がきたのだ。
2020.03.14 文庫ページメーカー初出
同じタイトルでもっと書きたいことを書きこんだ話をオフ本「花の呼吸/光、微か」に収録しています