坂のまちの地域猫【春】
そうしはねこだ。
海や島がみおろせる、坂のうえの公園をねじろにしている、ねこだ。
おだやかな春の海は今日もきらきらと太陽のひかりを反射させ、にんげんを乗せて行き交う船によって、じゃぶじゃぶと波を立てている。さすがにここまで波の音は運ばれてこないが、ぽう、という、船の汽笛はよく聞こえる。それが聞こえるということは、今日も変わらず、にんげんの営みはおこなわれているということだ。
はらはら、ひらひら、と、白っぽい花びらが途切れることなく降りおちる木の下で、そうしはあくびを噛みころした。ちょうど太陽はてっぺんを通りすぎたころである。いつも世話になっているにんげんの家でたっぷりごはんをいただき、腹はふくれている。「あったかくなったから、お前もちびも元気だな」と、いつも食べ物のにおいをからだじゅうから漂わせている黒髪のにんげんは言って、もうやめろと振り払うまで、そうしとちび――と彼が呼ぶ黒猫をわしゃわしゃと撫でくりまわしてくれた。
ちびと呼ばれる黒猫は、そうしの前脚の先でごろんと仰向けになってねむっている。かれの名を、かずきという。べつに「ちび」ではないし、小さくもない。それはあのにんげんも分かっているらしいのだが、そうしと比較すれば小さく見える体躯と、彼が世話をするようになったころの幼い黒猫のすがたを懐かしみ、ときどき「ちび」と呼ぶのである。かずきは気にしていないらしく、何と呼ばれようが、黒髪のにんげんの手ににゃうにゃうと懐いて喉を鳴らしている。警戒心が猫一倍強いくせに、あの家のにんげんにはこれでもかというほど甘えたな態度を取る。そうしも他猫のこと言えないだろ、と、かずきは言う。それに反論する気はない。生まれて間もないころから世話をしてくれている彼らには、そうしも特別なおもいがある。飼い猫になる気はないけれど、あの家と、この公園が、二匹にとっては安らげる場所だった。
そよかぜが吹いて、また何枚も、花びらが木の上からおちてくる。にんげんが毎年待ちどおしく焦がれ、見上げてばかりいるその花は、さくらというらしい。これが咲くと、かずきも上機嫌になる。冬の終わりを意味するからだ。
そうしは長い毛をもつねこだけれど、かずきは短い毛しかない。だから寒いのにはめっぽう弱いのだ。ふだんはそうしより活発で俊敏なかずきが、冬になると元気をなくし、ぐりぐりとそうしの長い毛のなかへからだを押しこんで、じっとしているばかりになる。あんまりにも冷える日は、そっと、黒髪のにんげんの家の軒下へもぐりこむ。ぼろぼろになったふかふかの布が置いてあるのは、にんげんの気遣いだ。その布と、じぶんの長い毛のなかでかずきをまもって、そうしは冬を越す。今年もどうか、なにごともありませんようにと、そうおもいながら、元気にかけまわるかずきの姿を夢に見る。
だからかずきだけでなく、さくらが咲くと、そうしもうれしい。
春がきたのだ。あたたかな春が。かずきとともに寒さを乗り越えて、いきて、ここにいるのだ。
さくらの花びらが、ふんわりと、かずきのつやつやした黒い腹のうえに舞いおちる。ほとんど重さなどないだろうに、何かが触れたということは感じ取ったのか、ぴぴっと黒い耳が動いた。起きただろうかと様子をうかがうが、規則正しい寝息はそのままだ。仰向けでねむっているから、かれが呼吸をするたびに、ゆったりと腹が上下するのがよく見える。誰が来るとも知れぬ公園のすみっこで、無防備すぎるだろう、と、そうしはおもう。おもうけれど、かずきが安心してねむるのは、そうしの傍にいるときだけだと知っているから、とがめる気も起きなかった。
今日はにんげんの姿もすくないし、他猫もみんなのんびりと、あちこちで昼寝をたのしんでいる。あらそいごとは起きそうにもない。
くあ、と、噛みころしきれなかったあくびをこぼし、そうしはかずきの、黒い毛並みに鼻先をうずめる。喉元にすりよると、ごろごろ、ごろごろ、と、心地よさそうにかずきが喉を鳴らして身をよじった。無防備に投げ出されていた前脚が、そうしのあたまを抱えこむように動く。少々息苦しいが、振り払うほどのことでもない。
春の陽ざしはあたたかく、ゆるやかだ。触れるかずきの体温も、からだのうちから聞こえてくるいのちの音も、そうしを安心させる。どうせかずきが起きたら「そうし、蝶々だぞ!」「そうし、菜の花!」などと目につくものすべてに飛びついて、そうしをあっちこっちへ振りまわしてくれるのだ。体力を温存しておくに越したことはない。
ねむりにおちるそうしの口もとが、ふにゃりとゆるんでいるのを見るものは、ここにはいない。
さくらの枝をゆらすそよかぜの音に、かすかに、二匹ぶんの、喉を鳴らす音がとけていた。
2020.04.05 文庫ページメーカー初出
疫病で人が消えたおのみちで、猫は静かな時を満喫しているのかなと思いながら書いた話でした。ちなみに「海の見えるまちで、」とつながっています。