きみだけ知っていればいい

 総士は一騎としか、キスをしたことがない。
 一騎はどうかと訊ねたことはないけれど、おそらくは、一騎も総士以外の経験はないはずだ。総士を傷つけた後の一騎は、人との接触を極端に避けていて、誰かとキスをするような仲になったという話は聞いたことがなかったし、彼自身も望まなかっただろうと想像できる。幼いころの戯れに誰かとくちびるをくっつけた、というようなものは、もしかしたらあるかもしれない。――が、それも思い返してみれば、「そうしってやわらかいなぁ」と言いながら、一騎が総士の頬や額にちゅっちゅとくちびるで触れてきた光景がよみがえるばかりである。他のこどもたちにしていたような覚えはない。
 そして一騎と総士がキスをするようになったのは、一騎が一度島を飛び出し、帰ってきてすぐのことだった。その後、二年ほど間が空いたが、肉体を取り戻した総士を迎えた一騎は、それまで以上に総士と触れ合うことを望み、総士もおなじだけ求め返している。ほかの誰かに気を向けるすきなんてない。となれば、やはり、お互いにお互いだけ、なのだろう。
 他者との経験がない以上は、本などで見聞きした情報と、実際の行為の積み重ねに頼るしかない。誰かと比べようもない。――だから、一騎から、「総士って、本当にキスすきだよな」と言われたとき、思わずきょとんと目をまたたかせてしまった。
 ――そう、指摘されるほど自分は何かをしただろうか? 一般的な何かと比べてそう見えるんだろうか?
 よく考えれば、一騎は単に“思っただけ”を口にしたに過ぎなかったのだろうが、総士のほうはつい考え込んでしまった。それを見た一騎が首を傾げ、「どうかしたのか?」と問うてくる。
 夕暮れの近い真壁家の居間には、一騎と総士しかいなかった。夕飯の買い出しをすませて、お茶を飲みながら他愛もない話をして、隣り合って手をつないだりほどいたりして戯れているうちに、くちびるが重なっていた。軽く何度かふれあわせたあとの、さきほどの一騎の発言だった。

「なにか、僕は、ひととちがうのか……?」
「え?」
「その……、」

 そんなに、すきに、みえるような、ことを。
 何を言っているんだろうか僕は、と、思いながらぼそぼそ口にすると、一騎が目をまたたかせた後、ふは、と、ちいさく笑った。ばかにするようなそれではなく、かわいい、とか、愛しい、とか、そういうふうに一騎が口にするときと同じ響きのものだった。

「だって、総士、キスするとすごく、きもちよさそうな顔するから」
「な……っ」
「つながる、前もさ、キスばっかりねだるだろ」

 そんなことはない、と、咄嗟に口にしようとして、総士は顔を真っ赤にして黙り込んだ。そんなことは――ある。自覚があった。からだをつなげることを覚えて、それがどれほどきもちよくて、満たされることかを知っても、必ず総士はキスをねだった。つながる前も、つながってからも、くちびるを重ねていなければ呼吸ができないかのように、離れることをいやがった。理性がほとんど残っていないなかでの行動とはいえ、記憶は残っている。
 どうして、と、問われても答えが出ない。すき、だからだろうか。なぜ?
 何も言えずにうつむいていると、一騎の手が頬に触れた。熱をもつ頬を、てのひらがやさしく撫でる。

「ごめん、揶揄ったわけじゃないんだ」

 総士を傷つけてしまったのではないかと、一騎は思ったのだろう。決して嫌なきもちになったわけではなかったから、ゆっくり顔を上げて、ちがう、と総士はちいさく首を振った。

「どうしてそうなのだろうと、考えていただけだ。揶揄われたと、思ったわけではない」

 総士の言葉に安堵したように一騎は不安そうだった顔をゆるめ、額をくっつけると、良いかと訊ねるように覗き込んでくる。頷くかわりに瞼を閉じると、もういちど、くちびるが触れあった。薄いけれどふっくらとした感触のあるくちびる同士が何度か軽く重なって、無意識に総士が口を開けると、見計らったように一騎の舌がすべりこんだ。ざらりとして、総士自身にはない熱を持ったそれが、総士の咥内の粘膜に触れる。
 からだをつなげるときは、あんなにたくさん手順を踏んで、きれいにして、慣らして、そうでないと内側の粘膜に一騎を迎え入れることができないのに、口というのは存外、無防備だと思う。言葉を紡ぐときも、物を食べるときも、ひとの前で平気でさらしている。けれど、歯科検診でもなければ、他者が簡単に触れられる場所でもない。ここで触れ合うことを、初めに思いついたのは誰だったのだろう。そういえば、動物がなぜキスをするのかという文献を一度だけ見たような――と、考えられていたのは最初のうちだけだった。一騎の舌に、みずからも舌を押し付けて、舐めあうと、思考は散漫になる。きもちがいい。末端神経が集まっているから当然だと分析する思考より、ただただ、一騎と熱を交わし合うことがきもちよくて、しあわせだと感じることのほうが上回る。

「ん……、ふ、ぁ……」

 息を継ぐのにくちびるがすこし離れても、そのあわいで舌をからめあって、飽くことなくくちびるを吸いあう。ときどき目を開けると、同じタイミングでこちらを見ている一騎と視線がかちあった。榛のひとみはとろりと溶けて、熱っぽく総士だけを映している。いつだって総士をまっすぐに射抜く一騎の視線が、このときは特に、総士のまたたきひとつさえ逃さないというように、強い。その強さにぞくりと背筋がふるえ、鼻から抜けるようなあまったるい声がこぼれて、からだが後ろに倒れかけた。それを一騎の腕が受け止めて、そのまま、ゆっくり畳のうえに押し倒される。一騎の両方のてのひらが総士の頬をつつんで、しびれて動きが緩慢になった舌を好き勝手に嬲られ、弱いと知られている上顎をくすぐられると、もうだめだった。かろうじて一騎の背に回していた手がぱたりと畳のうえに落ちて、締まりのなくなったくちもとから、飲み込みきれなかった唾液がこぼれる。

「は……、ぁ、ん……」

 きもちいい。あつい。もっと、もっと、かずき――。
 どうしてすきなのか、とか、なぜキスをするのか、とか、そんなことはもう、意識のなかになかった。言葉を紡ぐことより、物を食べることより、この口は、一騎とつながりあうためにあるのではないかとさえ思う。それだけでいいとさえ、思うほど、あたまのなかがいっぱいになる。くちびるから溶けて、どろどろになって、しまう。

「そう、し」
「ん……」

 呼ばれて見上げた先で、一騎は赤く色づいたくちびるを開き、すきなの、おまえだけじゃないよ、と、とろけた声で、そう言った。



2020.05.23 文庫ページメーカー初出
寝起きの次にキスの話をたくさん書いている気がする