おやすみ三秒のせなか

 器用なやつだな、と思いながら総士はちらりと視線を左後ろへ動かした。見えるようになった左のひとみに、肩にちらばった柔らかそうな黒髪が映る。すぅ、すぅ、とかすかに聴こえてくるおだやかな吐息と、ぴたりと密着した背中につたわってくる背後の一騎のからだの、ゆるやかな鼓動にあわせた動きに、くすりと笑みがこぼれた。今日はお客さんが多くて疲れたと言って、部屋へ訪れたときから眠たそうな顔をしていたのだ。
 各々シャワーを浴びて着替えて、ベットに上がったのは数十分前だ。総士がどうしても今夜中にチェックしたかった資料を端末で開くなり、構ってもらえないと思ったのか、一騎はちょっと不満そうな顔をした。部屋へ招き入れておきながら悪いという気持ちはあったので、三十分だけだからと言って、せめてくっつきたいという一騎の腕のなかへおさまった。しばらくは総士の髪をいじったり頬をすり寄せたりしていたが、眠気に勝てなかったのだろう。
 一騎の胸に背中を預けているから、総士もそのぬくもりと心音につられて眠くなる。とはいえ、このままでは眠れないから、まずは一騎の腕から抜け出そうと、腹にしっかりまわされているその腕に手をかけた。しかし、ぐぐっと手に力を入れて外そうにも、外れない。それどころか「んん……」と、ぐずるこどものような声を上げた一騎は、よりいっそう腕に力をこめてしまった。

「……」

 腕力では総士に勝ち目はない。粘ったところでどうにもならないだろう。まして一騎は、起きているときより、眠っているときのほうが手強いのだ。ふだんの彼は、高い身体能力を、他者を傷つけないよう無意識に制御しているのだろうと思う。眠っていると多少、その加減が効かなくなるのだ。
 仕方がない。もう少ししたら、起こしてやろう。
 そう思いながら、総士は端末を横へ置き、がっちりと自分を抱える一騎のからだへ体重をかけて、ちからを抜いた。ほう、と、思わず息がこぼれる。
 背中というばしょは、自分の視界からは外れてしまうから、つねに無防備だと思う。だから総士は、誰かに背後を取られるのは、あまり得意ではない。左目が見えなかったあいだ、死角になってしまう左半分を補うために気配を探るくせがついていて、今でも無意識に警戒してしまうのだ。急に振り返って、たまたま背後を通りがかったひとを驚かせてしまうことも、ままある。
 だが、一騎が背後に立つ気配がすると、警戒どころか、逆に安心してしまう。こうして抱きかかえられると、どうやっても、そのぬくもりに抗えなくなる。正面を向いて抱きあうのとはすこしちがう、包まれるようなきもちよさに、すべてをゆだねてしまいたくなる。そんな自分を知られるのはすこし恥ずかしいのだけれど、きっと、一騎にはきづかれているのだろう。こうしてふたりきりで時間を過ごすとき、よく彼は、この体勢になりたがる。総士がもたれかかるとうれしそうにする。あれは、自分がこの体勢を好きだから、ではなく、総士の反応が良いのをよろこんでいるときの顔だ。一騎は総士をあまやかし、総士が抗わずにあまえると、とろとろ笑み崩れる。あれには負ける。総士は一騎のしあわせそうな笑顔がなによりも好きなのだ。
 おだやかに眠りつづける一騎の頭にそっと頬をすりよせて、ぞんぶんにぬくもりを堪能したら、ちゃんと眠るために起こしてやらねば、と、思う。
 けれど――ああ、もうしかしたら、これは、ふたりして夜中に、からだが痛いと目覚めてしまうパターンかもしれない。
 抗いがたい眠気がじわじわと思考を散漫にする。今日は、ずっと研究室に詰めていて、総士も疲れているのだ。あまいせっけんのにおい、寝息、心音、ぬくもり、――一騎。ぐっすりと眠るために、いっとうだいじな条件が、そろってしまっている。これはむりだ。一騎のためにも、自分のためにも、体勢を変えたほうが、いいと……、わかって、いるけれど――……。

 とぎれとぎれの思考は、やがて、完全に途絶えた。



2020.05.29 文庫ページメーカー初出
こういう話をずっと書いていたい