こどもとうたたね

 ふわりと、畳の香りといっしょに、一騎の匂いがした。
 ここ最近、すっかり慣れ親しんでしまった匂いは、せっけんの柔らかな匂いに近い。真壁家の洗濯物に使われている洗剤だとか、柔軟剤だとか、あとは、シャンプーの匂いなのかもしれなかった。――ということは、今の自分も同じ匂いがするんだろうかと総士はゆめうつつのなかで考えた。
 柔らかな匂いは総士をゆるゆると弛緩させていく。無意識に、匂いと温もりのそばへ顔を寄せると、こつん、と額に触れるものがあった。おそらく、一騎の胸板だ。
 そばにいる。ちゃんと、そこに。
 触れられる距離にいることに安堵して、そのまま猫のように懐いてすりよった。んん、と、かすかに唸るような吐息のあと、そぉ、し、と、はちみつのように甘い声がする。鼓膜をふるわせ、頭のなかまで蕩かすような一騎の声には、中毒性があるような気さえしている。何度も何度もその声で呼ばれる心地よさを知ってしまっているから、もっと、と、ねだりたくなってしまう。
 そぉし、と、もう一度呼んだ一騎の腕が、しっかり総士の背中にまわる。からだじゅうを一騎の体温と匂いに満たされて、多幸感に溶けだしてしまいそうだった。こんなことを、何度も味わっていたら、抜け出せなくなってしまう。毎日、まいにち、一騎と一緒にいて、名を呼びあって、手をつないで、触れあって、抱きしめて眠っていたら、だめになってしまうんじゃないかと、思う。

 ――島に戻って来て、いったんは隔離措置を取られた総士は、紆余曲折の後に「ふつう」の生活をゆるされた。とは言え、取り戻した肉体は、万全ではなかった。おそらくは、総士の肉体をつくった北極ミールのかけらと、竜宮島のミールのあいだで何らかの反発が起きているのだろうというのが、アルベリヒドと医療スタッフの見立てだった。疲れやすかったり、眠くなりやすかったりするだけで、健康に大きな問題があるわけではない。時間が経てば徐々に馴染むだろう、とのことで、総士自身はおおごとには捉えていなかったのだが――珪素で構成された肉体がひととして環境に適合しているほうがおおごとだった――周りはそうではなかったらしい。
 というのも、総士がアルヴィスの至るところで、身を縮めて眠っている姿が発見されるようになったからだ。総士自身は「倒れるわけでもないので」と事もなげに説明した。突然睡魔に襲われるが、アルヴィスのなかならば安全は保障されているし、自分でも場所を選んで、倒れる前に眠る体勢を作っているのだから、問題はない、と。かつてフラッシュバックに苛まれ、ところかまわず痛みや嘔吐感に襲われていたことを思えば、総士にとっては本当に「なんでもない」ことだったのだ。
 しかし、大人たちは、以前のように「わかった」とは言ってくれなかった。敵の襲来がなく、ジークフリードシステムに総士を乗せる可能性が低い今、かつてのように見て見ぬふりをする必要はないとばかりに、みな、総士を休ませるほうへ方針を転換した。ひとりでいれば無理をする、というのはみな重々承知であったから、同じく休学をして療養中である一騎のもとへ――真壁家へ、総士は「預かり」というかたちになったのである。
 真っ先にそれをよろこんだのは一騎だった。もともと総士のからだを心配していて、なおかつ、離れていた二年を取り戻すようにそばにいたがった彼は、「一緒に住めるんだな!」とそれはもう笑顔で言ってくれた。おかげで総士は、嫌だと言えなくなってしまったのだ。

 真壁家での生活はあまりに穏やかだ。一騎はときどき楽園のアルバイトへ出かけるが、それ以外は、総士と一緒に、復学のために出された課題をこなす毎日である。総士を突然襲う睡魔は相変わらずだったが、ほとんど一騎がそばにいるので、気づけば布団に運ばれている、ということが多い。何度か一騎の不在時に居間や廊下で眠ってしまったこともあるが、そういう時は、史彦が運んでくれている。あまりに申し訳なく恥ずかしいので、放っておいてくださいと言ったこともあるが、険しい顔で「できない」と言われたので、引き下がるしかなかった。アルヴィスのなかで司令官と指揮官として接していた時間のほうが多いせいなのか、どうにも、彼に、保護者のような態度を取られることには、慣れない。それでも、三人で囲む食卓は静かでありながら心地良くて、総士は、すきだ。
 一騎は一騎で未だ療養中の身であり、総士と同じような不調があるため、アルバイトのシフトは減らされているし、家事もできるだけ総士と分担している。一騎も自分の不調には無頓着で、無理をしがちなところがあるので、お互いが監視役になっているようなものだ。
 だから、課題をこなしながら、お互いに疲れたなと感じたら、そのまま横になってまどろむことも多い。それを、総士は自分にゆるすようになった。
 今もそうだ。
 さきほどまで向かい合って解いていた課題は卓袱台の上に投げ出したまま、畳のうえでふたりして寝転んで、どれくらい経ったのだろう。アルヴィスのなかにいた時には気にして見ていた時計を、ここにいると、あまり見ない。ただ、頬に触れる太陽の角度で、ああ、朝だな、昼だな、もう日が暮れるのだな、ということを感じている。
 すこしだけ、瞼の向こうに感じるひかりが赤くなったような気がして、日が暮れ始めたのだろうか、と、思った。今夜は、史彦が溝口を連れて帰ると言っていた。だから一騎が、おつまみを作り置きしていたはずだ。夕飯は、四人でつつきやすいように鍋にすると言っていた。そろそろ起きて準備を始めなければいけないのではないだろうか。
 そう、思いはするものの、総士のからだはまるで、もっと、このままでいたいというように、一騎の腕のなかへ潜りこむ。胸元に顔をうずめて大きく呼吸をすると、不調からくる睡魔とはちがう、あまったるい眠気が押し寄せる。無意識なのか、むにゃむにゃとなにかつぶやいた一騎が、総士の髪に手を差し入れて、ゆっくりと撫でる。きもちがよくて、抗う気なんて起きなくて、総士はすべてをゆだねるように、もういちど眠りのなかへ沈んでいった。

        *

「どうしたもんかねぇ」

 と、言ったのは溝口だった。
 日も暮れかかったころ、一騎に「買ってきて」と言われた鍋の材料と、酒を手に提げて帰宅した史彦と溝口は、居間の畳のうえで、ぴったりくっついて眠っている一騎と総士を発見した。卓袱台のうえには課題が広げられていて、きっといつも通り、途中でふたりとも眠くなってしまったのだろう。だいたいいつも、一騎のほうは、史彦が帰宅するころには起き出しているが、今日はすっかり寝入ってしまっているようだ。
 ふたりのそばにしゃがみこんだ溝口が、「こどもだなぁ」とぽつりと言った。
 総士を抱き込むように眠っている一騎と、その一騎の胸元に顔をうずめ、背中に腕を回してしがみつくようにしている総士は、まるでふたりとも、絶対に、互いを離すまいとでもするようだった。寝顔はどこまでもあどけなく、おだやかで、幼い。
 命を削る戦いに身をおいて、痛みも苦しみも引き受けて、身を引き裂くような別れを経て、こどもたちはやっと今、互いに手の届く場所で、平和を享受している。
 頑なであるしかなかったこどもは――総士は、ずいぶんと柔らかくなった。けれど、おそらく、こんなにあどけない顔は、ここでしか見られないのだろう。一騎の、そばでしか。あるべきものが、あるべき場所に在る。それはこういうことなのだと、最近の一騎と総士を見ていると、思う。それを、この時間を、こどもに戦いを強いることしかできない自分たちがどれだけ守ってやれるのかはわからない。わからなけれど――守ってやりたい。守らなければならない。おだやかに笑うふたりがそばにいることに、史彦自身が、救われているのだから。

「あ~あ、起こせねぇよなぁ、これは」
「当たり前だ。鍋くらい俺でもできる。お前は米を炊いてくれ」
「待て待て、逆のがマシだろうが。俺は料理できるんだぞ」

 がたいの大きな男がふたり、台所でがちゃがちゃと音を立て始めても、こどもたちは夢のなかだ。


 ――すっかり日が暮れて、鍋のにおいが居間に届きだしたころ、ぼんやりとねぼけた顔で身を起こしたこどもは、なぜか互いに首まで真っ赤になってから、あたふたと卓袱台を片付けて、溝口特製のカレー鍋に「おいしい……」と感嘆の声を上げたのだった。



2020.12.02 文庫ページメーカー初出
HAE後のふたりはずっとくっついてるし大人はそれをそっと見守っててほしい