隣は何をする人ぞ
その日はいつも通り、静かな夜だった。
夕食と入浴をすませてソファに身を沈ませた総士は、淹れたばかりの珈琲を片手に、タブレットを手に取る。先週までは繁忙期で、深夜に家に帰る生活が続いていたが、今週に入ってからは落ち着いた。ほぼ定時に退勤できるようになったので、好きな珈琲を豆から挽いて淹れ、読みかけの本や、チェックしていなかったニュースに目を通す時間が作れるようになった。仕事が嫌いなわけではないが、こうして寛ぐ時間を取れるのはやはり嬉しい。
そういえば、そろそろ豆がなくなるし、週末は久しぶりに街へ買い出しに出掛けよう――と、そう思いながらカップに口をつけたところで、ふと総士は顔を上げた。
「……?」
何か、聞こえた気がする。
気のせいだろうかと思いつつも、耳をすます。部屋のテレビは消えているし、音楽なども流していない。しかし、確かに音が聞こえる。
いや、これは――歌だ。その歌は、壁の向こうから聞こえてくる。
気づけば総士は、誘われるように、壁のほうへ近づいていた。築年数の浅い賃貸マンションの壁は、生活音が気になるほど薄くはない。角部屋にあたる左隣の住人は、ふだん、本当にいるのかと疑いたくなるほどに静かな暮らしぶりだった。彼と特に話をしたことはないが、ときどき廊下ですれ違うことはある。いつも目深に帽子をかぶっていて、マスクをしていることも多い。それだけだと少し怪しげな風貌なのだが、ちらりと見えるのはさらさらとした黒髪と、やさしげな榛の瞳で、やわらかい声音で「おはようございます」「こんばんは」と言うその表情は、隠れていても、人の良さそうなそれだとわかる。だから総士は、彼のことを不審に思ったことはないし、良い隣人だと思っていた。
その彼の部屋から聞こえるのは、あの、挨拶を交わすときと同じ、やわらかな声だ。
聞いたことのない歌だった。けれど――やさしくて、心地が良い。思わず、壁に耳をつけて、そっと目を伏せる。隣の部屋に聞き耳を立てるなんて失礼極まりないと冷静な自分は思ったが、耳を離す気にはならなかった。
――きもちのいい、声だ。
雑味をふくまない、まるくて、おだやかな声だ。ずっと聴いていれば眠れるのではないかと、思うほどの。
しばらくそのまま歌に耳をすませていた総士は、ふと、それが途切れたところで我に返った。
「……っ」
――僕は、何を。
急に悪いことをしているような気になって、総士は壁から距離を取り、後ずさるようにソファに戻る。しん、と静かになった部屋はどうにも居心地が悪くて、誤魔化すようにぬるくなった珈琲をすすった。
「……」
――いい歌だった。
物静かな隣人が、あんな歌を歌えるひとだとは、思わなかった。今までこんなことはなかったというのに、どうしたのだろう。挨拶だけを交わす間柄では、問う機会もないだろうけれど――。
そう思いながら、ぼんやりネットニュースを指でスクロールしていた総士は、怪我で休養中のとある芸能人が退院した、というちいさな芸能記事には、全く気づかなかった。
*
「おはようございます」
翌朝、昨夜聞いたのと同じやわらかな声がして、ゴミ袋を片手にぼんやり地面を見ながら歩いていた総士ははっと顔を上げた。マンションの駐車場にあるゴミステーションの前に、件の隣人が立っている。反射的に「おはようございます」と返しながら、彼の見慣れない姿に総士は目をまたたかせる。
右手にゴミ袋を持った彼は、松葉杖をついていた。いつもかぶっている帽子やマスクはなく、部屋着にダウンを羽織っているだけだ。短めに切りそろえられた黒髪も、やわらかな目元も、人好きのする微笑みも、隠されていたときに想像していたとおりのもので、初めて見るその姿になんとなく、惹きつけられる。
よいしょ、と、軽く手首のスナップを利かせて、ゴミステーションにゴミ袋を放り入れた彼は、脇で杖を支えたまま、ぱんぱんと手を叩いた。よく見れば、右足にはギプスらしきものがはまっている。総士がそれを見ていると気づいたのだろう。彼は「あ、ちょっと折ってしまって……」と肩を竦めた。「痛々しいですね」と総士が思わず口にすると、彼はそのまま苦笑した。
「もう少し病院にいたらって言われたんですけど、俺、動いてないと落ち着かないタイプなので……、早めに帰ってきたんです。少し不便だけど、暮らせないことはないし。……って、あ、すみません、訊かれてもないのに喋っちゃって……」
「あ、いえ……、こちらこそ、不躾に、申し訳ない」
挨拶しか交わしたことがなかった相手との会話が続いてしまったことに、総士は少なからず驚いた。総士はあまり人付き合いが得意なほうではないがゆえに、相手が話しやすい人か話しにくい人か、少し言葉を交わせばすぐにわかる。彼は前者だ。
彼がその場から動かない気配を感じつつ、総士もゴミステーションにゴミ袋を放り込んで、引き戸をしめた。振り返ると、「あの……」と何か言いたそうに彼が総士を見ている。
「何か?」
「えっと……、昨夜、俺、うるさくなかったですか?」
彼からその話を出されるとは思っておらず、総士は思わず「あ、」と言ってしまった。それを肯定と受け取ったのだろう。彼は申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません、夜分に……。でも、もしかしたら、何度かまた……、その、やってしまうかもしれなくて……。夜じゃないと難しいんです。どうしてもご迷惑になるようだったら、」
「――良い、歌でした」
「……へ?」
総士の言葉に、彼はきょとん、とする。榛のひとみが、ぱちぱち瞬いた。
「とても良い歌声で、夜に聞こえるのは、むしろ、心地が良かったです。ですから気にしないでください」
それでは電車が来てしまうので、と、踵を返した総士は、足早にマンションの駐車場を後にする。駅までは徒歩一分だ。冷たい朝の風が頬を撫でて、総士は、自分のそこが火照っていることを自覚する。
――はずかしい。
本当にとても良い歌だったから、迷惑ではないし、謝る必要もないということだけは、伝えておきたかったのだ。だが、面と向かって、あまり話したこともない他者に感想を告げるというのは、なかなか、羞恥を伴うものだな、と思う。だが気分は良い。それに、また近いうち、壁の向こうからあの歌が聞こえるのかと思うと、楽しみになった。
――その数十分後、上機嫌で出勤した総士は、「昨日の真壁くんのインスタライブ良かったよね~!」と話をしている後輩のスマートフォンから聞こえてきた歌声に、衝撃を受けることとなる。
2020.12.09 文庫ページメーカー初出
以前フォロワーさんと某アーティストのインスタライブで盛り上がった時のネタ。続きをふくらませたい。