おなかとせなか

 どうしておなかがへるんだろう、という歌をちいさいころに歌った記憶がある。喧嘩をしていても、仲良くしていてもおなかはへる。へりすぎて、おなかとせなかが、くっついてしまう。そんな歌だ。
 どうしてそれを思い出したのかというと、一騎はいま、じぶんの腹に、総士の背中のぬくもりを感じているからだった。そして手は、総士の腹にまわって、そこをゆっくり撫でさすっていた。くすぐったい、変な感じがする、と、居心地悪そうにしていたはずの総士は、うとうと微睡み始めている。
 簡素な総士の部屋の、テーブルのうえには、出前用の岡持ちが置かれたままだった。数日間、アルベリヒドの研究室の奥の奥に引きこもっていた総士が、ひととおりの実験を終えて部屋に帰ったと剣司から教えてもらった一騎は、楽園の営業時間が終わると同時に、お腹にやさしい雑炊や煮物をこさえて持って来たのである。
 総士は根を詰めるとろくな食事をしない。一方で、気が抜けると途端に空腹を意識する。これは、総士が島に帰って来てから、一騎がせっせと食育――と、剣司には言われる――をしたせいだ。三食きちんと食べる。できるだけ、できたての、温かなものを食べる。それをからだに覚えさせるため――というわけでもなかったのだが、一騎が「総士にしてやりたい」と思うまま食事を運んでいたら、総士のからだは食事にあわせた体内時計を作り上げた。よって、ときどきこうして「狂う」と、それを正せとからだが悲鳴を上げるし、宥めてやるのは一騎の役割だと、一騎自身は認識していた。

 ――とはいえ、悲鳴を上げたからだは、すぐに食事をとれる状態ではないこともある。総士は、空腹が過ぎると、胃がじくじくと痛むタイプだったらしい。研究に没頭しているとき、たべものを口に入れることを忘れるくせに、珈琲ばかり飲むからじゃないのか、と、一騎は思っているけれど。
 胃薬は飲んだというが、そのまま効くのを待っているのも落ち着かなかったので、一騎は総士を背後から抱えてベッドに引き込み、うしろからよしよしと腹を撫でることにしたのだった。
 アルヴィスで支給される制服のシャツ越しに感じる総士の腹は、引き締まっている。硬すぎず、柔らかすぎず、ほどよい。あまり力を入れないように、てのひらであたためるように、ゆっくり、撫でる。全身を一騎に預けるように力を抜いた総士の頭が、かくり、と、一騎のほうへ傾いだ。すうすうという寝息が、頬をかすめる。ほとんど寝ていなかったのだろうな、と、思いながら、一騎は総士の顔に頬をすり寄せるようにして、腹を撫で続ける。
 どうしておなかがへるのだろう。
 ひとは、食べ物を生きるエネルギーに変えるからだ。代謝し、血肉を造り、おいしい、あたたかい、と感じることで精神的にも満たされる。賢い総士なら、幼いころからそれを知っていただろうし、一騎に教えてくれたこともあったかもしれない。
 けれど、ひとのからだではない、と、そう、総士自身が自覚しながら、ましてそれを研究に使いながら、総士はお腹を空かせる。ひとではないからだで、ひととして生きることを、総士は選んだから。お腹が空いたとか、眠たいとか、そういうものを、総士がだいじにして、一騎にこうして身を預けてくれるのは、総士がひととして生きたいと、選び続けているあかしなのだ。そう思うと愛しくてたまらなくなる。
 ぎゅっと思わず力を入れると、んん、と、総士が息苦しそうに声を上げた。ごめんな、と、起こさないように胸のうちで謝って、労わるように腹を撫でる。
 ――そういえば。
 こんなふうにするのは、総士が胃の不調をうったえるときだけではない。まさにこのベッドのうえで、総士とつながって、総士の腹のうちに熱を解放して、すべてがおわったあとで、堪えきれない愛しさで、一騎を受け入れてくれる腹を撫でながらまどろむ。言葉で聞いたことはないが、総士はあれが好きらしい。ゆっくり撫でるときもちよさそうに目を細めて、すやすや寝入ってしまう。
 いまこうして眠ってしまったのも、もしかしたら、一騎が腹を撫でると眠くなる、というのを、総士のからだが覚えてしまったからなのかもしれない。食事をする時間を、覚えてしまったみたいに。
 それはとても幸福で、同化とはちがう、「ひとつ」になる方法なのかもしれないと思った。
 おなかとせなかはくっつかないし、同じものにもならないけれど、総士の腹はへるし、一騎は総士を空腹のままでいさせない。
 どうしておなかがへるのだろう。
 ――それは、俺とお前が、こうして一緒にいるためかもしれない。

     *

 総士がふと目を開けると、背中のぬくもりが消えていた。
 一騎に腹を撫でられながら、彼にからだを預けて眠ったような記憶があるのに、今の総士はベッドに横たわり、布団をかけられているようだ。ぼんやりした視界には、テーブルに置かれた岡持ちが映るだけで、一騎の姿は見えない。
 ――帰ったのだろうか。
 そう思ったとたん、布団をかぶっているはずなのに、妙に背中が心もとない。久しぶりに感じた一騎の体温が、心音が、なにより総士を安心させた。だから、眠っているあいだにそれが失われて、ゆめうつつの狭間にある、ふだんよりも剥き出しになったこころは、素直に、さみしい、と、感じてしまう。
 しかし、総士がしっかりとした思考を取り戻す前に、しゅん、と、扉の開く音がして、誰かが中へ入ってきた。――いや、この部屋に無言で入って来られる人間など、ひとりしかいない。

「――あ、総士、起きたの……か、」

 一騎は手に盆を持っていて、そのうえには、タッパーがいくらか乗っていた。ああそうか、出前の食事を、食堂で温めていたのだ。総士の部屋には、電子レンジの類はないから――そうか、なんだ、そうだったのか。と、安堵する総士とはちがい、一騎はおろおろとしたようすで眉を八の字に下げ、盆をテーブルの上にやや乱暴に置くと、慌てて総士のそばへ寄ってきた。ベッドの脇に膝をついて、総士の頬へ手を伸ばしてくる。

「……どう、した」
「いや、だって、なんか、お前がすごく……さみしそうな顔してるから」

 ああそうか、まだそんな顔をしてしまっていたのかと思いながら、どちらが捨てられた犬なのかわからないくらいしょげている一騎の頭へ手を伸ばす。わしわしと撫でると、少しだけ表情がやわらいだ。かわいいな、と思って、そのまま頬へ手をすべらせて、やわらかい頬を、ふに、と、つまむ。

「ひゃに」
「仕返しだ」

 一騎は総士を置いて帰ってしまったわけではないのだから、本当は仕返しなんて受ける必要はない。これは、総士の、さみしい顔をさらしてしまった照れ隠しだ。そんなことはきっと一騎にはわかっているのだろうけれど、やめろよぉ、と、くすぐったそうに笑っただけだった。

「ご飯、あっためてきたんだ。もう食べられそうか?」
「ああ……、大丈夫だ。いただこう」

 ゆっくり身を起こすと、一騎が背中を支えてくれる。なにも病人ではないのだから、そこまでしなくてもと、思わないでもないが、心もとなく感じていた背中に触れる腕の温度は心地よく、手放しがたい。つい、そのまま一騎に身を寄せると、宥めるように肩を抱かれた。

「後でいっぱいしてやるから、ご飯、先に食べよう」
「……何をする気なんだ」
「え、いろいろ……?」

 ベッドから降りてソファに向かいながら、一騎の答える声音はこどものようで、それでも意図しているのはこどもがするようなことではないに違いなく、総士は思わず苦笑した。

 ――だが仕方がない。こんなに、お互い、腹はへっているのだから。



2021.03.04 文庫ページメーカー初出
「食べる」行為と総士と一騎、が私の中では永遠のテーマです