欲しがりのふたり




「今日ってキスの日なんだって」

 囁くような、ひみつを伝えるような小さな声でつぶやかれたそれが、隣のテーブルに食後の珈琲を届けた一騎の耳にころんと転がってきた。
 そこにもやはり食後の飲み物を楽しみながら会話をする女性客ふたりが向かい合って座っているはずだった。ちらりと視線だけ向けてみると、アルヴィスから支給される端末をふたりで覗き込み、楽しげにお喋りを続けている。
 娯楽に乏しいこの島では、支給されている端末からアーカイブにアクセスして、過去の世界の記録を読むのも一種の娯楽だ。「今日は何の日」というのもかつての日本で流行っていた話題のひとつで、ときどき広登が番組のなかでネタにしている。それにしても、何で五月二十三日という、キスのキの字もない日がキスの日なのだろう。ぼんやりそう思いながら視線を下に落とし、一騎は、おや、と首を傾げた。
 一騎がテーブルに置いた珈琲には手が付けられていない。いつもならすぐ一口ふくんで、おいしい、と、そう言ってくれるのに。それを聞いてから厨房に戻るのがいつもの流れなのだ。どうかしたのかと言おうと、席に着いているそのひと――総士を見て、一騎は目を瞬かせる。
 一騎は立っていて総士は座っているから、長い前髪に隠れた総士の表情は読み取れないが、少しだけ覗いている耳がほんのり赤く、きれいな白い指が彼のくちびるにそっと当たっている。総士は肌が白いから、体温が上がると本人が意識している以上にわかりやすく色づく。一騎が好ましく思う総士の特徴のひとつだ。けれどそんなに赤くなるようなことが今、あっただろうか――と、考えたところで、総士は一騎の視線に気づいたのだろう。はっとしたように居住まいを正し、何食わぬ仕草でいつものように珈琲に口をつける。

「……今日もおいしいな」
「よかった。でも、総士、あの――」
「おーい一騎! 注文入ったぞ!」

 早く厨房に戻ってくれと飛んできた溝口の声に、仕方がないと一騎は総士に話しかけるのを諦め、足早にその場を後にした。


       *


 一騎は、総士としかキスをしたことがない。
 それもつい最近の話である。
 総士が島へ――一騎のところへ帰ってきてから、ふたりは離れていた期間を埋めるように互いに共にいる時間を求めた。体調が互いに安定しないこともあって、年が明けるまでは真壁家で共に生活していたし、復学して元のように離れて生活するようになってからも、一騎は足しげく総士の部屋へ通い、総士もまた、以前に比べて気兼ねなく真壁家にたずねてくるようになった。
 手をつないで、抱き合って、そのまま自然な流れでキスをしたのは冬にさしかかる前だったと思う。どちらが先に動いたのかはもう覚えていないし、同時だったのかもしれない。
 触れたくちびるはぬるくて、薄くて、けれど確かに総士のなまなましい剥き出しの皮膚に――ほかの誰も触れ得ないやわらかな部分に触れているという実感があって、一騎はかっと腹の奥が熱くなるのを感じた。最初からふたりはこうするのが当たり前で、きっとお互いずっとこうしたかったのだ、と、そう思えた。
 何度かキスを重ねるうちに、総士はくちのなかを探られるのが弱いのだ、ということに気づいた。正直なところ、初めて舌を入れたときは、嫌がられるのではないかと思った。総士からそういったアプローチをしてこないのは、嫌だからではないのだろうかと考えていたからだ。けれど、総士は一騎を受け入れ、あまつさえ自分も積極的に舌を入れてくるものだから、なんだ、総士だってしたかったんじゃないか、と、一騎は安心したのだった。
 おそらく総士は、したい、と思っていることでも、自分からは言葉や行動に移せないことが多いのだ。生真面目だから、とか、羞恥心が強いから、とか、きっとそうではなくて――欲にすなおになるということを、自分に対して、ゆるせないのだろう。総士という人間は島のために在って、誰かひとりのためには在れない。だけど一騎は総士がすきだし、総士を守ってやりたいし、総士が望むことはなんだって叶えてやりたい。総士が総士にゆるせないことを、一騎だけはゆるすことができる。一騎から仕掛ければ、総士はやっとその欲を見せて、あずけてくれる。
 ――だから、一騎は総士とキスをするのがとてもすきだ。
 


 ランチ営業を終え、厨房で最後の一枚の皿を拭き終わった一騎は、未だに窓際の席に腰かけている総士をちらりと見やった。手元の端末に視線を落としてはいるが、心ここにあらずのようで、少し前に追加で出してやった珈琲は半分も減っていない。午後のやわらかな日差しがほんのり総士の頬を色づかせ、亜麻色の髪は透き通るようにひかりに溶けて、きれいだ。これを独り占めできるから、いつも何やかんやと口実を作って自分が最後に店を片付けて出るようにして、総士がすきなだけ居座れるようにしている。総士はきっと気づいていなくて、「そういうもの」だと思っている。決して鈍いわけではないし、あれこれ理由を知りたがり、意味づけをしたがるくせに、日常のささやかなものに対してはふっと気が抜けている総士が一騎はとてもすきだ。
 だからきっと――いま自分が、どれだけかわいい顔をしているのか、なんてことも、わかっちゃいないのだ。
 一騎が話しかけられずに席を離れたあとも、ちらちら視線をやった先で、総士は何度も指でくちびるに触れて、それに気づくたび目元をぱっと染めて手を引っ込め、居心地悪そうに、何かを思い出すように瞳を揺らしていた。一騎以外があんなかわいい総士に気づいてしまったらどうしようかとそわそわしたが、閉店間際だったこともあり、客は少なかったので、おそらく大丈夫だろう。暉や真矢がいたら何かを言われそうだが、幸いにも今日のシフトは溝口と一騎だけだった。
 一騎は拭き終わった皿をすべて棚にしまい、エプロンをとって、そっと総士のもとへ向かう。途中で気づいたらしい総士が顔を上げて、「終わったのか」と問うのには返さず、日に当たってほんのり温かくなった頬を両手で包んだ。そして総士が何かを言い出す前に、くちびるにかぶりつく。――触れる、ではなく、正しく、かぶりついた一騎に、総士は一瞬ぎょっとしたようだったが、ぺろりとくちびるを舐めてやると、たやすく咥内へ招かれる。だというのに、総士の手は一騎を押し返そうと胸元に押し当てられていて、そのちぐはぐさが少し、おかしい。

「んっ……、ん、ぅ……」

 どれだけ逃げようとしたって、力では一騎のほうに分があるし、総士のすきな上顎をちろちろとくすぐると、総士の喉奥から甘えるような声がひびいて、力が抜ける。総士だって嫌ではないのだ。その証拠に、しばらくすると、おずおずと一騎の舌に総士のそれがからまって、目の前の灰色のひとみがとろりと気持ちよさそうにとろけた。総士のほうが上向いている格好だから、あふれた唾液は自然と総士のほうへ流れ込む。それを躊躇いなく、こくりと飲み込むのが喉の動きでわかって、一騎はたまらなくなり、その喉元を指先でくすぐった。すると、敏感になっていたらしい総士が、くちびるのあわいで甘くなく。それがあまりに煽情的だったので、これ以上は――いろいろまずい気がする、と、一騎は文字通り食んでいた総士のくちびるを離した。
 はふ、はふ、と息をする総士は、しばらく深いキスの余韻に浸ったようにぽうっとしていたが、はっと気づいたように目を開き、「お、お、お前!」と涙目で一騎を睨みあげる。

「な、なんだ急に…!」
「だって総士、ずっとキスしてほしそうにしてるから」
「っ」

 心当たりはあったのだろう。総士は目元を染めたまま、ぐっとくちびるを噛む。
 そう。あのとき、「キスの日なんだって」と隣で話す声は、総士にも聞こえていたはずだ。そしてあれからずっと、総士はくちびるを気にしていた。昨日も、一昨日も、ほとんど毎日、一騎と触れ合わせているそのくちびるを。

「総士、結構、そういうの隠すのだけ、へたくそだよな」
「……う、うるさい……」

 自分から欲にすなおになって行動することはできないのに、一騎を求めてしまうその表情を、一騎がいるところでは、つい、出しがちなのだ。この、一見、隙がなさそうなおさななじみは。きっと自覚もあるのだろう。失態だとでも言いたげな顔をする総士に、「俺、総士のそういうところ、すきだよ」と言うと、困ったような顔になる。

「公衆の面前で醜態をさらすのが、か?」
「俺しか気づいてないし、総士がそういう顔するの、俺がいるところでだけだろ」
「……もしそうではなかったらどうするんだ」
「え……」

 そんなの絶対に、嫌だ。総士が、一騎のことをほしいと思っている顔は、一騎だけが知っていていいものなのだ。
 自信満々だった一騎が、途端に意気消沈したのが面白かったのだろう。総士は溜飲を下げたようで、ふふ、と、満足そうに笑う。

「冗談だ」

 その表情もやっぱりかわいくて愛しくて、もう一度くちびるを――今度はゆっくりやさしく触れ合わせて、すぐに離れる。薄く開いた総士のくちびるのあわい、赤くのぞく舌はまだ一騎を誘っている。一騎だって、灯されてしまった熱はまだ引かない。

「もう、今日、これで店じまいだから、うち、来ないか?」
「……司令が」
「父さん、夜にならないと帰って来ないぞ」
「……さきほどアルヴィスですれ違ったとき、会議がなくなって早く帰れそうだと仰っていた」

 だから僕の部屋に来い、と、そう言った総士の声は少しの後ろめたさを含みつつも期待に満ちている。一度スイッチを押してしまうと意外に欲しがりで、一騎をどこまでも飲み込む色香を抑えなくなる総士のからだを抱きしめて、うん、と、一騎は熱っぽく息を吐き出した。




2021.05.23
このあとめちゃくちゃキスした。3年連続キスの日達成できてよかったです。