投げた匙なら、きみがくわえた




 飴が溶けるみたいだなぁ、と、思うことがある。あるいは、カラメルソースを作るときに、鍋で溶けはじめた砂糖を、ヘラで撫でまわしているときのような。とろりとして、零れおちそうで、甘くて、ぬるいもの。
 それ、、を作りだすのは一騎の手だ。分量と混ぜ加減を間違うだけでも失敗してしまう菓子づくりと同じで、ちょっとでも一騎の口がすべって過分な甘さを与えたり、既定の――これは特に表記されているわけではなく、時と場合で変わるのだが――時間より長めに表面だけ炙ったりすると、物理的な打撃を背中や腰に受ける。けれどそれは決して痛いと感じるほどのものではなくて、じゃれあいのような、かわいいものだ。
 お菓子を作るときよりも、腕によりをかけているはずの、今まさに溶けだそうとしている腕のなかの存在を、一騎はひとつ撫でてうっとり目を細めた。いつもより感じる体温が高いのは、たぶん眠いせいだろう。こういうときに、火加減を誤ってはいけない。そう思いつつやわらかい髪の毛にくちびるを寄せると、まんざらでもないらしく、すり、と、首元にすりよってくる。不器用で他者に頼ることを苦手とする彼は、一騎の手によって、ずいぶん甘える術を覚えてくれたように思う。
「……総士、眠たいんだろ」
 お前、また徹夜していたんだろと暗に含ませれば、「んー……」と不明瞭な声が上がった。答えにはなっていないが、一騎にはそれでじゅぶんだ。これはおそらく、二日くらい寝ていない。
 二日とは、楽園に総士が顔を見せなかった日数である。
 高校を卒業して、アルベリヒド機関の研究員を始めた総士は、研究に根を詰めると楽園に来なくなる。時間がないからというよりは、隈のある顔を一騎に見せると小言を言われ、総士いわく「お前の顔は本当にずるい、絆されそうになる」――という表情で、最終的に泣き落とされるからだ。もちろん一騎だって、総士が誰のためにそんなに研究に必死になっているのかなんて分かっているし、彼が決めたことに対して過干渉になる気だって、これっぽっちもない。ないけれど、からだは大切にしてほしい。
 一騎は、総士が初めて隈を作って楽園に現れたとき、「このからだでも、隈はできるらしい」と嬉しそうに彼が言うものだから、自分の不調で人間らしさを確かめるのはやめてくれと口酸っぱく言ったことがある。あれ以降、元より自身の不調を隠しがちである総士が、一騎に対して、より一層不調を告げなくなってしまったので、失敗だったと思っている。もちろん、総士なりに体調管理はしているし、自身の特殊なからだは自覚しているから、一騎に言わずとも、剣司や千鶴には比較的素直に申告しているようだ。それに、隠したところで一騎は気づいてしまうので、今のところ問題はない。
 その総士が、唯一、みずから一騎に不調を告げることがある。それは、「眠れない」というものだ。
 総士は何かに集中しているあいだは、他のこと――特に自分に関することを、疎かにしがちだ。そのかわり、集中が途切れたり、ひとまずキリが着いたあとは、反動なのか、とにかく眠りたがる。しかし脳が活性化しているとどうにも寝つきは悪いらしく、眠りたいのに眠れない、という、一騎にはまったく理解できない状態になるらしい。そういうとき、往々にして総士は、様子を見にきたり、出前を持ってきたりする一騎を捕まえる。なにもそれは、放っておいた一騎を甘やかしてくれるためでも、美味い食事のお礼をしてくれるためでもない。
 ――疲れ切った総士は、一騎に、おもむろにハグを求めるのだ。

 最初にそれを求められたとき、もしやこれは、誘われているのでは、と、一騎は期待に胸を高鳴らせた。しかし、こどものような体温の、いかにも眠たそうなぬるい空気をまとったからだを抱きしめたとたん。
「いいか、一騎。他者とのハグは、ドーパミンとオキシトシンを分泌させる」
「うん?」
「つまり、リラックスして眠れる」
「……う、ん?」
 という会話を最後に、総士はすとんと夢のなかに落ちていた。
 ――いや、あの、待ってくれ。
 久しぶりに会えて、ふたりきりで、誰にも邪魔されない総士の部屋の、ふかふかのベッドの上。そんな、一騎じゃなくたっていろいろと期待してしまうシチュエーションで、うすっぺらい部屋着の――つまり、鼓動も、ぬくもりも、触るときもちがいいと知っている胸や、滑らかな背や、細い腰や、それらすべてが手のなかに無防備にゆだねられてしまって、それなのに、総士自身はすっかりきもちよさそうに眠っていて、手を出せるはずもなくて――一騎は、呆けた。取り残されたように。
 ――これはいったい、どういう、状況なのだろう。
 むつかしい物質名はなんとなくしかわからないけれど、つまるところ、人は抱きしめられると落ち着いて眠れるのだという主旨のことを総士は言って、一騎の腕のなかで眠っている。眠りたくても眠れない状態にあった総士が、揺さぶっても起きないのではないかと思えるくらい深く、安心して、眠っている。
 ――……これはこれで、しあわせ、なんじゃないか?
 と、一騎は思った。
 確かに、期待はした。久しぶりに総士の肌に触れて、熱を交わして、混ざり合うように眠りたいと思った。でも、総士がこんなふうに甘えてくれるのなら、それは、なにも、性行為でなくたって満たされる。しかも、きっと、いや絶対に、総士が身を委ねてくれるのは、一騎にだけなのだ。これ以上うれしいことがあるだろうか。

 それ以来、一騎は何も言わず、総士の「眠る手助け」をするようになった。ときどきやっぱり触れたくなって、あちこち撫でてしまうし、うっかり撫ですぎて総士を煽ってしまうと怒られるけれど、一騎はこの時間がすきだ。じっくりことこと、熱しすぎないように、けれど冷まさないように、とろとろ総士を溶かしていく。手のなかのからだから力が抜けていくのを感じながら、夢のなかへいざなう。
 腕のなかの総士は、もう、今にも眠ってしまいそうな顔をしていた。瞼はほとんど落ちていて、かすかに長いまつげが震えている。抗うものなんかなにもない。もうそのまま眠っていいんだよと思いながら、一騎は総士を抱いたまま、ベッドに横になる。とん、とん、と、背中をやわらかく叩いてやると、数分もしないうちに穏やかな寝息が聞こえてきた。
 つられるように、ふぁ、と、一騎もひとつ欠伸をこぼす。ハグがオキシ……なんとかとかを分泌させてリラックス状態になるというのなら、きっと、こうして総士を抱きしめている一騎も、その効果を得ているのだろう。ひとりで総士と会えない夜を過ごして眠るよりも、そばに総士のぬくもりを感じて眠るほうが落ち着くのは、そういう、むつかしい物質名なんかで説明しなくたって当たり前のことだと思う。だけど、総士には必要なのだ。ドーパミンとか、オキシなんとかとか、そういう、理屈が。科学的根拠をばかにしているわけではもちろんない。ただ、一騎に甘えることに対して、根拠や理由を示さねばならない総士の不器用な性分を、かわいくて、愛しいと感じる。
 ――寝顔はこんなに素直で、こどもみたいなのに。
 目の下にできた隈を除けば、あどけなくて、安心しきったこどものような顔を見つめて、ふふ、と、一騎は笑う。明日はこの隈がきれいになくなっていればいい。そして、元気になった総士と、会えなかった数日間のことを話せたらいい。
「おやすみ、そうし」
 起こさないようにそっと、総士の額にくちづけて、一騎もゆっくり目を閉じた。


        *


「総士、今日は元気そうだな」
 昼時の楽園に、ランチを食べに来た剣司にそう言われて、一騎はきょとんと目を瞬かせる。カウンター席の端っこでカレーを食べている総士の顔には、もう隈はない。朝、すっきりとした顔で目覚めた彼は、ずいぶん気分も機嫌も良くて、一騎が先に部屋を出るときキスをねだったら、出勤したくなくなるくらいのキスをしてくれた。いろいろと限界なので、今日のシフトが昼まででよかったと思う。このままランチ営業が終わったら、総士と一緒に部屋に帰って、今度は一騎が総士に甘えるつもりでいる。
剣司の前に食後のコーヒーを出しながら、「昨日までやっぱり徹夜してたのか?」と訊くと、「たぶんな」と剣司は肩を竦めた。
「俺は夜には帰ってるから、ずっと総士のこと見てたわけじゃねぇけど、朝行くと隈つくって昨夜と同じ姿勢で座ってる、なんてこともあるし。だけど、無理しても、その後でちゃんと休めてるみたいで良かったよ。眠れないって、前は言ってたから」
「あ……、それ、剣司にも相談してたのか」
 眠りたいのに眠れない、と、いうことを、自分以外にもちゃんと言っていたのだと初めて知った。千鶴や剣司のことを総士は信頼しているから、それもそうか、と思いつつ、彼らでは解決できなかったのかと、ふと疑問が湧いた。そのまま問うと、「あいつに合う薬がないんだよ」と剣司は答えながら、ちらりと総士のほうへ視線を向ける。
「もちろん、怪我をしたとか、風邪を引いたとか、そういうときは別だ。あいつのからだが未知数だっていっても、痛みを取り除くために必要な薬に関しては、もうある程度治験を重ねてる。だけど、その治験だって、結局はあいつがしなきゃいけない。できるだけ、負担をかけたくないから、優先順位の高いものから進めてて、睡眠薬にはまだ手を付けてなくてさ。それに、薬なんて飲まなくても眠れるのが一番いいだろ? それで、総士に訊き返したんだよ。お前がいちばん落ち着けるのって、どこだ、って。そこなら眠れるんじゃないかってさ」
「落ち着く、ところ……」
 すやすやと、きもちよさそうに眠る、総士の寝顔。ゆだねられる体温。総士が、一騎に甘えている、ということは自覚していた。けれど、だけど、こんなふうに第三者の口から聞くのはまた、別だ。かぁ、と、一瞬にして体温が上がる。
「良かったよ、総士にちゃんとそういう場所があって」
 何も気づいていないような顔でコーヒーを啜る剣司は、きっと、総士が誰を頼ったのかなんて、お見通しなのだろう。それどころか、分かっていてアドバイスしたのかもしれない。
「……剣司、」
「なんだ?」
「コーヒーもう一杯サービスな」
 特に理由を言わなくても、剣司は「おう、ありがとな」と笑って、からっぽになったコーヒーカップを一騎に差し出す。それを持って厨房に戻る途中、総士が一騎に顔を向けた。もぐもぐとカレーを咀嚼しながら、何を話していたんだと言いたげに首を傾げるその仕草が、腕のなかで溶ける総士のその延長線上にあって、どこか無防備に思えて、頬が緩む。
 後でな、と、声には出さずに口だけ動かして、一騎は自分でも気づかないくらいとろけた顔でほほえんだ。



2021.07.06
2018年にタイトルと冒頭だけ書いて放置していたものを掘り出して書きました。やっぱり眠るシチュすきなんだなぁ。