午後のおもかげ
真矢の座る席からは、大きな窓からふりそそぐ午後のひかりと、窓辺に並んでいる閲覧用の机の列がよく見える。焦げ茶色でぴかぴかに磨かれた、樹のぬくもりを感じる大きな机がふたつ、それから、一人で利用するためのちいさな机がいくつか。
ここに住まう人の数からすればちいさい図書館は、いつもほどほどに利用者がいる。竜宮島から運び込まれた書籍のほかに、アーカイブのデータから印刷・製本しなおしたものや、島に暮らすひとびとがみずから書き記してつくったものもある。それらの管理、貸し出し等の受付を行うのが真矢の主な仕事だった。
しかし――敵の直接の襲撃がまだとは言え、マレスペロたちに島の場所が知れたいま、みんなふつうに暮らしているようでいて、そうではない。
もともと平和に暮らすことに慣れている竜宮島の島民たちはいつもと変わらないが、そうではない人々は、穏やかな日常を過ごしているようでいても、どこかで怯えている。必要最低限の外出にとどめ、図書館にはあまり人が来ない。
――わたしたちだって、備えていないわけじゃないけど。
それでも、気の持ち方、日々の過ごし方は、これまで生きてきた環境に左右されるのだと、こういうときに実感する。島の外で生きてきたひとびとは、常に脅威にさらされていた。突然になすすべもなく奪われてきた。だから、おそれる。
真矢たちはおそれつつも、ちからを持っている。奪われないように、奪うことを知っている。それは大きなちがいだと、思う。
――かたん、と、思考にしずむ真矢の耳に、ちいさな音が響いた。
ふと顔を上げると、今日のたったひとりの利用者の足元に、ボールペンが転がっていた。机のうえから落ちたのだろう。持ち主は一人用の席に腰かけているが、上体を伏せている。
「……」
ふう、とひとつ息を吐いて、真矢は受付の席から立ち上がり、そばに向かうと、ボールペンをひろいあげた。ひざしがきらきらと降る席で、こどもはすうすうと寝息を立てている。その両脇にはたくさんの本が積み上げられていて、開かれたノートの上にはメモが細かく書きこまれていた。
――ゆうべも遅くまで起きてたのかな。
アルヴィスの隔離室を出て、遠見家で暮らし始めたこども――総士は、美羽とともに学校へ通い、その傍らで真矢たちの訓練を受けつつ、こうしてときどき図書館へ来ては貪るように本を読んでいる。借りて帰った本は家で夜中まで読みふけっているようだ。
真矢は、特別に本を読むことがすきで、総士のようにたくさん本を読む、というわけではなかった。けれど、本のある場所はとてもすきだ。
かつて、真矢の親友であった翔子は、よく本を読んでいた。ベッドからあまり動けないという事情もあったのだろうけれど、翔子は、「本を読むと、いろんなひととお話しできるから、すき」と言っていた。本は時間や場所の制約がなく、それを書いた人――もう生きてはいない大昔の偉人とも、海の向こう側に生きた人とも、対話ができる。会ったこともない人々の視線の先にあったもの、交わされた会話、味わったもの、生き方、考え方――それらがすべて、部屋のなかにいても、自分の前に広がる。
それはすてきなことだな、と、真矢は思った。
――遠見は俺のこと、憶えていてくれる?
まだ幼い声を、震えていた、心細かったのだろうあの声を、幼かった自分のこたえを、真矢は今でも憶えている。だけどひとは忘れてしまう生き物なのだ。あまりにも、簡単に。だから、大切なことをずっと、何百年も、何千年も、そこにとどめておいてくれる、本というものが、愛しくて、安心する。ここは記録と記憶の宝箱だ。どんな理由であれ、いつかの誰かが、憶えておきたいと、憶えていてほしいと、そういう願いを遺したものの、うつわ。
だから、図書館で働くのはどうか、と、そう言われたとき、自分はうなずいたのだ、と、思う。
おだやかに眠るこどもの横顔は、真矢のよく知っている彼とは、同じようでまるでちがう。けれど、ほんのときどき、総士を見ていて、彼のすがたがよぎることがある。
いつだったか、母である千鶴は、一騎を見ていると、亡くなった彼の母を、真壁紅音を思い出すと言っていた。あまり言わないけれど、史彦さんもきっとそうなんでしょう、と。真矢も、美羽を見ているとき、弓子や道生を思い出す。
いなくなったひとのことを、今いる誰かにそっくりそのまま重ねてしまうのは、今いる誰かを、ほんとうには見ていないことになる。だけれど、例えば姿に、例えば仕草に、例えばその生き方に、いなくなったひとを思い出すのは、かれらがかつて生きていたことのあかしであり、かれらがこの世界へ送り出した、今を生きるこどもたちが、確かに愛されて生まれてきたあかしでもあると、思うのだ。
誰かや、なにかの片隅に、本とおなじように、記憶の宝箱がねむっている。それがときどき開いて、風のように、おもかげが真矢たちの前を過ぎ去っていく。
ぽかぽかとあたたかな陽ざしに、むにゃむにゃくちもとをゆるませて眠るこどもは、まだ起きそうにない。このままずっと、穏やかに眠っていられる世界に、自分たちの世代が、辿りついていてあげられれば、よかった。でもそれは、できなかった。
彼が愛して生まれたこのこどもが、戦いの果てで、このあどけない寝顔のままでいてくれるように願うこと。そのために、戦うこと。今の真矢にはそれしかできない。できないけれど――もうすこしだけ、このままでいたいような気がして、真矢はそっと椅子を持って来て、隣に腰かけ、寝顔をながめる。
――起きた総士が、素っ頓狂な声を上げるとも、知らないで。
2021.10.10
エアブーで配布していたもの。真矢ちゃんは地平線だから、だいじなものを記憶/記録する場所、存在する時間を超越して対話ができる場所に、いてくれるんだなと思った。