あめのあじ



 突然の雨に降られたのは、金曜日の下校時間だった。
 玄関に集まった生徒たちはたいていが傘を持っておらず、誰かに借りようとしたり、親に迎えに来てほしいと電話したりしている。部活のある生徒などは、帰るころにはやむかなぁ、と、諦めて部室に向かっていた。そのなかで、帰宅部で、親は仕事中で、傘を借りる相手も特に思い浮かばないふたりは、玄関の屋根の下で、灰色の空を見上げる。

「今日の予報では、降水確率は二十パーセントだった。僕は基本的に、降水確率が三十パーセント未満なら置き傘を使用し、五十パーセント未満なら折りたたみ傘を持ち、それ以上は通常の傘を持って家を――」
「そんな遠回しに言わなくても、置き傘があると思い込んでたら、こないだの雨で使って持って帰ったままなの忘れてた、って言えば良くないか?」

 お前ってそういうところちょっと抜けててかわいいな、と、同じく、置き傘などしないために傘のないおさななじみが隣で言う。最近の異常気象を考慮しておくべきだった、置き傘をしているかどうかも手帳のチェック項目に入れておこう、などと総士が次への対策を立てているあいだ、一騎は濡れて帰る覚悟を決めたらしく、しゃがんで運動靴の紐をしっかり結んでいる。うっかりほどけて踏んづけてこけないためだろう。体育の授業で短中距離走をさせれば必ず一位を取るほど運動能力がずば抜けており、特に脚力が著しい一騎であれば、一キロメートルは先の自宅でも、すぐに辿りつけるはずだった。

「総士はここで待ってて。傘取って帰ってくるから」
「は?」

 何を言っているんだと一騎のほうを見れば、「そのほうが早いし」と一騎はなんでもないことのように言う。

「お前だけが濡れることになる」
「べつにいいよ。俺、濡れたくらいで風邪ひかないし、家帰ってシャワー浴びて全力で帰ってくれば、三十分もかからないと思う」

 それくらい待てるよな、と言われて、「そうではなく」と総士はてのひらで顔を覆った。確かに総士は、平均以上の体力と免疫力を備えた一騎よりは弱い。一騎と比較すれば総士じゃなくたって、誰だってそうだ。けれど、一騎の提案は不公平だ。

「僕がお前を雨のなか走らせてまで、雨に濡れるのを回避したいと思っているとでも?」
「俺が嫌なんだって」

 む、と、一騎が頬を膨らませる。今年で十五になるというのに、こういう表情はひどく幼くてかわいい。そう、かわいいおさななじみをびしょ濡れにさせてまで、総士だけがここで待っている意味はないのだ。

「僕も嫌だ」
「……お前、結構すぐ風邪ひくじゃん」
「一緒に走って帰ってすぐに風呂に入ればいいだろう」
「………」

 じぃ、と、睨みあって、結局、折れたのは一騎だった。




 ――が、やはり体力お化けの一騎に、平均的な体力の総士がついていくには限度があった。

「………不甲斐ない」
「そんな落ち込むなよ」

 自宅までの半分の距離を全力疾走したところで、一騎の速さについていけなくなった総士が立ち止まった。出るところに出ればおそらくオリンピックすら目指せる男の脚力についていけるはずがないのだ。いっそ置いて行ってくれてもよかったのだが、一騎は引き返してきて、通学路の途中にあるちいさな神社に総士を引っ張りこんだ。昔からよく来ている場所で、「貸してください」と一騎がていねいにお辞儀をしてから、無人の社の廊下の隅に上がらせてもらう。
 鞄を下ろして中身をチェックしたところ、総士が学校を出る前にビニールで教科書やノートを包んでいたために、紙モノは濡れずにすんでいた。ほっと息を吐いて、鞄の底にいつも入れている大きめのタオルを取り出す。

「一騎、これで拭くといい。下に入っていたからあまり濡れていないはずだ」
「俺よりお前が使えよ」
「わ、」

 渡したタオルをそのまま広げて頭から覆われて、総士は思わず肩を竦めた。
 わしゃわしゃと髪を拭く動きは雑だが痛くはない。そのまま肩にタオルをおろし、ふ、と総士を真正面から見た一騎は、かぁ、と、なぜか頬を染めてそっぽを向いた。

「……なんだ?」
「……なんでもない」
「なんでもなくないだろう」
「う、わ」

 ばさりと、今度は総士が一騎の頭にタオルをかぶせて、したたり落ちる水気を拭ってやる。前髪を拭いて、目元をぬぐったところで、一騎の榛のひとみが開き、熱っぽく総士を見つめているのに気づいた。

「……なんだ」

 もう一度つぶやくと、一騎が総士の手首をつかみ、ゆっくり自分のほうへ引き寄せる。こつん、と、額が触れ合ったところで、総士はむ、と、くちびるを引き結んだ。

「言わなければわからないだろう」
「…………総士、いま、すごい、きれい」

 お前は本当に中学三年生なのか、と、喉元まで出かかった言葉を総士は飲み込む。それがただの照れ隠しだと自覚があったからだ。それに、たどたどしくて、それでいて真っ直ぐな一騎の言葉が総士はほんとうはとても好きだったし、今も、かぁ、と、頬が赤くなっていくのをとめられない。

「なにを、」
「そぉし、」

 キス、したい、と、一騎が言って、「したい」という、あくまでも相手の許可を待つような態度を取りながら、総士が答える前に、くちびるが、触れる。

「ん……」

 つめたい。
 濡れて、つめたい、くちびるが、ふに、と総士のそれに触れて、そして少しだけ角度を変えて、もう一度触れる。それを何度か繰り返して、一騎はおそるおそるといったふうに、総士のくちびるを、ぺろり、と、伸ばした舌で舐めた。それが、最近覚えた、深いキスのおねだりなのはわかっていて、総士は、きゅう、と、目を閉じ、うっすら口を開く。そうすれば一騎の舌が入り込んで、お互いにぎこちなく、咥内で粘膜をふれあわせた。
 ――こんな、ところで。
 誰が来るかもわからないし、雨は降り続いているし、からだは濡れて冷たくて、なのに、どうしてこんなに熱いんだろう。

「ん、ぅ……」
「ふぁ……」

 しばらくキスに没頭していたふたりが、ぼんやりとしたままくちびるを離して、そのまま見つめ合う。雨のしずくのせいではなく濡れたくちびるを互いにみとめて、一拍置いて、耳まで真っ赤になる。そのままおずおずと距離を置き、けれど、そうすると少し寒くて、結局、肩が触れ合うところに腰を落ち着けた。

「……」
「………」

 一騎のスイッチは、総士にはよくわからない。いつもたいてい唐突で、急に「したい」と言い出して、キスをしてくる。総士はどうなのかと言うと、やっぱり――その、一騎にとっては「唐突」なのかもしれなかった。
 ちら、と一騎のほうに視線を向けると、一騎もちょうど総士のほうを向いたところで、視線がかちあう。

「……い、嫌だった?」
「……嫌では、ない」

 嫌なはずがない。そう言いたくて、でも恥ずかしくて言えなくて、総士は一騎の、床に置かれた手にそっと自分の手を重ねる。そうすれば、ほっとしたように一騎が息を吐いた。

「いつ、ここ、出ようか」
「もう少しいいだろう」

 もう少し、こうしていたい。
 総士の言いたいことがわかったかのように、「そうだな」と一騎がうれしそうに言って、身を寄せてきた。
 雨はまだ、降り続いている。



2022.05.23
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