日野さんちの縁側
最近、島のなかではあちこちで、工事の音が響いている。美羽にとってそれは、幼いころの記憶と結びついていて、初めてこの島以外のミールや、たくさんのフェストゥムと〝お話〟した後、壊れてしまった建物がものすごいスピードで直されてゆくのを、こどもながらに、すごいなぁと見ていたことを思い出す。
けれど、建物は直せても、いなくなったひとは戻ってはこない。幼かった美羽でも、それはよく知っていた。美羽が生まれる前にいなくなってしまった父は、もうこの世界のどこにもいなかったから。
あのころ、隣にはいつも手を引いてくれる母がいた。ひとまずは穏やかな日常に帰ることができるのだという安堵とともに、娘を奪われる不安や恐怖を抱いたまま、美羽の手を握る力は、それまでよりずっとずっと強くなっていた。
守らなければいけない、という思いが、うれしくて、一方で、どこかおそろしいものに感じられるようになったのは、たぶん、それからだ。
この島のひとたちは、大事なひとを守らなければならなかった。最後の
守ることは、戦うことであって、戦うというのは自分も相手も傷つけるということで、美羽はずっとずっと、ほんとうは、それがこわかった。
美羽にとっては、島に暮らすひとも、一緒に荒野を旅したひとも、そんな自分たちに敵意を持つひとびとも、そして、地球の外からやってきたかれらも、みな、等しく、〝お話〟ができる相手だ。美羽のことを嫌って、いなくなればいいと思っている相手のことはとてもこわかったし、かなしかったけれど、だからと言って、消してしまいたいわけではなかった。だって、美羽から見えるかれらはだれもみな、「いなくなりたい」なんて、思っていなかったのだから。
みんなに、いなくなってほしくない。
――みんながいなくならないために、いなくならなくてすむのなら、じゃあ、美羽があのお星さまとお話をして、ひとつになって、こわいもの、かなしいもの、全部やめさせればいい。美羽ひとりが、いなくなればいいのなら。
それが美羽の出した答えで、誰もそれを、否定はしなかった。――総士が、現れるまでは。
日野家は、海に面した崖の上に建っている。島の中心部からはすこし離れているけれど、そのぶん、とても静かで、何にも遮られない風の吹く場所だ。庭に面した縁側からは海が見える。かつては水平線しか見えなかったそこに、今は、きらきらとうつくしい世界樹を抱いた海神島の大地があった。
「そろそろ、住めるくらいに片付いてきたな」
縁側に腰をかけた総士が、その海の向こうをながめながら、満足そうに息を吐いた。縁側はぴかぴかに磨かれて、以前と何も変わらない状態に戻っている。そこに総士とふたりで並んで、美羽も「そうだね」と言いながら手にしたペットボトルを開けた。
深い色の炭酸水は、海神島で総士や美羽が気に入って飲んでいたものだ。竜宮島の食糧プラントは、ほとんどその機能を取り戻していたが、まだ嗜好品をたくさん作ることはできない。だから、未だ近くに停留している海神島から定期的に仕入れているのだった。いずれお互いの島は別々の航路へ向かうことになるだろうから、そのときは、竜宮島でも同じものが飲めるように試作してみる、と、一騎や甲洋は言っていた。
島は元の姿に戻ろうとしている。バイオスフィア機能が正常に働き、季節は動植物の枯れ果てた冬から、体を慣らすための短い春や初夏を経て、草木がみずみずしい緑を称える夏へ調整された。――けれど、元に戻るといっても、そっくりそのまま過去の島の景色をコピーしているわけでもなかった。ひとはひとと、そうではないものとも出逢い、交じり、変わった。もう誰も過去には戻らないし、停滞もしない。島も人類もフェストゥムも、先へ進んだからだ。
ただ、それでも、幼いころから過ごした家が、また住めるような形になっていくのはうれしいし、懐かしい。
ぼろぼろになっていた日野家は、いったん改修工事が行われた。そのうえで、かつて家の中にあったものを修繕したり、きれいに磨いたり、整理したりといった細かいことは、美羽や総士が請け負った。総士の言ったとおり、もうほとんど住める状態になっていて、あとは足りない家具や雑貨を買い足すくらいだ。畳も張り替えられていて、縁側にいても、新しいいぐさの匂いがする。
「……総士は、どこに住むの?」
ペットボトルにくちびるをつけたまま、美羽は聞いてみる。総士は「さぁ、どこにしようかな」と、誤魔化しているわけでもなく、本当にまだ決まっていない、といったようすで言う。海神島にいたときは、監視という意味合いもあって美羽たちの家に住んでいたけれど、今の総士は自由だ。誰の家に借り住まいしたっていいし、空いている家があればそこに住まうこともできる。総士が「ひとりで住みたい」と言えば、こどもをひとりで住まわせるわけにはいかないと言いつつ、誰かしらが様子を見られるようにしながら認めてくれるのだろうとも思う。
けれど美羽は、総士にここにいてほしかった。
「ここには、住まないの?」
「……きみと一緒だと、家事の分担が偏るだろ」
「住みたくないってこと?」
「そうは言ってない」
じゃあどっちなのだ、と、美羽は思ったけれど、言わないでおいた。総士は自分のしたいようにする。だから、本当にいやならきっぱり言う。それなのに「そうは言ってない」などとあいまいなことを返すのは、迷っているからだ。
総士も迷うこと、あるんだ。そう思って、それはあたりまえだ、とも、思う。
攫われた総士が戻ってきたとき、彼は混乱していて、とても迷っていた。信じていたものが揺らいで、どこにいていいのかわからなくて、苦しんでいた。けれど総士はその後、自分で自分を確立させたのだ。迷いながら自分を信じ、すべて自分でつかみとると言い、そして、そのとおりにした。
強いな、と思う。総士はとても強い。だから――。
「……あのね、総士」
美羽の呼びかけに、総士が「なんだ?」と首をかしげる。総士のひとみはしっかり美羽を見ている。
「――美羽ね、総士みたいになりたいって、思ったことがあるの」
きょとんと目を瞬かせる総士にすこし気恥ずかしくなって、美羽は視線を足元におとす。サンダルを履いた足を意味もなく揺らしながら、それでも、一度は伝えておきたかったから、言葉を続けた。
「今までそんなこと、誰にも思ったことなかったの。美羽は美羽で、美羽にしかできないことがあって、美羽はそれをしなくちゃいけない。そう思ってた。でも総士は、美羽のこと怒るし、ばかだって言うし、美羽が選ぼうとすること、おかしいって言った。ママもエメリーもルヴィも、誰もそんなこと言わなかったのに」
今まで生きてきたひとびとの選択も、美羽の選択も、正しかった。正しいと思っていた。
この世界には、みんなが生き延びるすべがなくて、みんなで滅ぶか、ひとりでも多くを生き残らせるか、その二択しかなかった。だから竜宮島も、外の世界でも、ひともフェストゥムも、同族を、お互いを、つねに犠牲にしてきた。そうするしかできなかった。――それも確かな事実だ。
けれど誰もがその苦しみの出口を求めながら、出口に至るすべを持たなかった。なぜならそれは、過去の、これまでの自分たちの在り方を否定することでしか得られず、つまり、今まで犠牲となったひとびとの選択をも、否定しかねないことであったからだ。
それは痛みだ。苦しみだ。受け入れがたいことだった。
美羽にとっても同じだ。美羽を生かすため、希望を託すために多くのひとが犠牲になってきたのだ。美羽は特別だから、たったひとりだから、美羽にしかできないことがあったから、だからみんな美羽を生かそうとした。それなのに、その在り方を否定するということは、弓子も、エメリーも、美羽の前でいなくなったたくさんのひとのことを、否定することに近しい。
それでも総士は言った。自分を特別だと思っているから、何を喪っても平気なんだ。僕のきもちなんかわからない。ばかだ。自由意志を持たないフェストゥムみたいだ。選ばされているだけだと。
そんなことを言われて、美羽はとてもかなしくて、憤った。そうだ――怒りの感情を誰かに抱いたことなんてなかったのに、敵意を向けるフェストゥムや、仲間や家族を奪う誰かにさえ、怒ったことがなかったのに、美羽は総士に憤慨した。
――どうして、どうして、どうして?!
美羽はみんなが大事。みんなに争ってほしくない。誰にもいなくなってほしくない。そう思うことの何がいけないの。そのために美羽がお星さまとお話して、いなくなればいい。美羽だけがいなくなればいい。その選択の何が間違っているの?
総士はどうして美羽を怒るんだろう。どうして――怒ることができるんだろう。
理解できなくて理解したくて、そうして気づいた。
――総士はちゃんと、
「総士がうらやましいって、思った。総士みたいになりたいって思った。でも美羽は総士を生きられない。だって、美羽は美羽にしかなれないから。……美羽、お星さまにずっと願ってたんだ。美羽はここにいるよ、だから美羽とお話して、ひとつになって、みんなを助けて、って。でも……そう思っているあいだ、ほんとうは、美羽はどこにもいなかった。美羽は自分で、自分を、いないことにしてたから」
「――そうきみに思わせたのは、この島や外の世界のおとなたちだろ」
総士がやっぱり怒ったように言って、「ううん」と美羽は首を横に振った。それは美羽の性格や思考をかたちづくったひとつの要因ではあるけれど、すべてではない。
「ママだってエメリーだって、みんな、誰も、美羽にいなくなってほしいなんて思ってなかった。でも誰も答えを出せなくて、未来がわからなくて、美羽に託すしかなかった。美羽がなにを選ぶのか、それは、美羽が決めることだったの。だから、どこにもいない美羽じゃできなかった。ここにいる美羽じゃなきゃ、できなかった。――総士がいてくれたから、美羽は、あの子にちゃんと伝えられたの。美羽はここにいて、あなたもここにいる。だからひとりじゃない、みんなとお話しようって」
ありがとう、総士。
改めて総士の顔を見て言うと、総士は一瞬目を開き、そして、くちびるをへの字に曲げて、なんとも言えない顔をした。微かに頬が染まっている。照れているのだと思うと、ただ感謝をしっかり伝えておきたかっただけなのに、してやったり、という気持ちがちょっとだけわいてしまう。もうすこし照れさせてみようかなと思っていたずら心がうずいたところで、総士がおもむろに咳ばらいをして、そっぽを向いた。
「――前にも言ったけど、僕だって、きみには感謝してるんだからな」
「へ」
「……きみがいなかったら、僕は、なにも信じられないままだった。なにも信じられないままでいたら、自分や誰かを傷つける選択しかできなかったかもしれない。……この未来は、きみがきみだったから得られたんだ。話すことを最後まであきらめなかった、きみだったから。だけど、きみは特別な、神様でもなんでもない、そうである必要だってない。きみは、ただ、遠見さんや、ルヴィや、そういう、きみのことがたいせつなひとたちにとっての
「――それは、総士にとっても?」
思わず問いかけると、総士はやっぱりなんとも言えない顔を美羽に向けてから、「さぁどうだろうな!」と言って立ち上がった。
「ほら、もうこの話はいいだろ。腹が減った。夕飯の買い出しに行くぞ」
「総士、まだ昼過ぎだよ。また凝った料理にする気なの?」
「カレーの研究だ。真壁一騎のカレーの隠し味がまだ突き止められない。絶対あの味を越えてやる……!」
「もー、そんなのきっとわかんないよ。直接、一騎おにいちゃんに聞けばいいのに」
「絶対自分で見つける!」
財布とエコバックを持ってずんずん進んでいく総士に、はいはい、と、美羽はついていく。
総士はとても負けず嫌いで、頑固で言うことを聞かなくて、ときどきとても腹が立つ相手で、だけど、美羽に嘘をついたり、気持ちを誤魔化したりはしない。誰よりも美羽にはっきりと言葉を届けてくれる。その安心感を、うれしさを、総士はきっとわからない。べつべつの存在だから、ほんとうに相手をわかるなんてできない。
わからないことがこんなにうれしくて、おもしろくて、もっと知りたいと思うんだと、総士が美羽に教えてくれた。
ぶつかることは、傷つけあうためだけじゃない。話をするのは、一方的に言葉を押し付けるためじゃない。怒るのは、相手のことを拒絶するためだけじゃない。
互いが互いでいるために、そして、ここにいるあなたを大切にしたいから。あなたはここにいる、わたしもここにいる、それを、ちゃんと、伝えあいたいから。
何も言わないまま、総士の歩く速度がちょっとだけゆっくりになって、美羽はその隣に追いついた。
2023.06.17
夏のTBE本に入る1本です。全部できたらいずれまとめます。美羽ちゃんと総士くんにはずっとあの距離感で隣あって歩いていってほしい。