夜明けがくる
朝の風だと思った。
海のうえを静かにたゆたう、潮の香りを運んでくる風だ。それは、こころを凪いだきもちにさせるものでもあったし、ふつふつと、焦燥感を湧き立たせるものでもあった。
――焦燥。それは、帰りたいと希(こいねが)うゆえの、もどかしさだったのかもしれない。
はやく、はやく、あの波打ち際へ。穏やかな海のある場所へ。
なにもない、こころを保つことさえも難しい無の世界のなか、聞こえてくるなつかしい波音は、まるで母親の胎内で聞く、いのちの音とおなじように思えた。きもちよくて落ち着くけれど、ずっとここにはいられない。もっと、確かな世界がほしい。目で見て、耳で聴いて、手で触れて、自分という存在を以て感じられる世界に、出たい。
――自由に、なりたい。
「 そ う し 」
柔らかな声がした。波音と同じように穏やかで、けれど、海と同じように、いつ荒れ狂うともしれぬ、激情も秘めている声だ。その声が総士はすきだった。どんな感情をともなっていても、その声は確かに、総士の存在を〝ここ〟へ縫い止めてくれるまっすぐさと、強かさを持っていたから。絶対に離すまいとする、駄々を捏ねるこどものような、無垢な強さを。
「……総士」
ゆめうつつに、ふわふわと響いていた声が、覚醒をうながすように耳のすぐそばで響く。ああそうだ、今の自分にはちゃんと肉体があって、無の世界でも母親の胎内でもなく、ここに、いる。朝の風も、潮の香りも、名を呼ぶ声も、細い糸の先でつながっていた彼を通じて得たものではなく、今、ここにいる総士自身の肉体を以って、享受しているものだ。
肉体があるから、押し上げるべき瞼もある。
ゆっくりゆっくりと瞬きながら瞳を開けると、視界には朝の穏やかな海があった。深い濃紺に覆われていたはずの空は、水平線の向こうから顔をのぞかせる太陽によって、薄紫から橙のグラデーションを描いている。
「起きたか?」
そんなに眠いなら無理しなくてよかったのに、と、続けて言ったのは一騎だった。まだぼんやりとしている総士の頬に触れているぬくもりは、一騎の肩だ。
そうだった。昨夜、眠りに落ちる前に「朝日を見に行こう」と言い出したのは一騎で、「良いだろう、早起きは三文の得だからな」などと同意したわりに、眠くて眠くて、砂浜に腰をおろしたとたん、一騎にもたれてうたた寝をしてしまっていたらしい。
「無理をしている、わけではない……」
すまないと言って顔を上げると、一騎はそんな一言でさえ――総士の発する言葉がなんであれうれしいとでも言いたげに、ふにゃりと笑う。しあわせで、うれしい。誰がどう見たってそうとしか表現できないその顔を、ここ最近の一騎はずっと浮かべている。ふたりきりのときだろうが、公衆の面前だろうが、時と場所を選ばない。総士が帰って来て、ここにいてくれてうれしいと、一騎の顔も態度もすべてが、表現している。照れくさくて仕方がない一方で、総士は、それがとてもうれしかった。
一騎が笑っているのだ。総士のそばで、総士を見て、総士を呼んで。手を伸ばせば握り返してくれるぬくもりがそこにあって。――夢の名残がどれだけ濃くても、寄せては引いていく波のように、意識が連れ去られそうになっても、お前はここにいると、つなぎとめてくれる一騎が、ここにいる。
「きれいだなぁ」
あかるくなってゆく空を見て、一騎がつぶやく。お前がいるから、と、声にはならない声が聞こえた気がした。一騎が失いかけた色彩はいま、ここにあり、そのひとみには、総士が見ているものと同じ空が映っている。
「……そうだな」
まっくらなゆりかごで感じたときより鮮明な世界の夜明けに、総士はゆっくり目を細めた。