眠りの淵で

「ただいまー」

 二階の自宅にも聞こえるようにと、大きな声で玄関を開けた史彦の目に入って来たのは、店から自宅へつながる階段の下にきれいに揃えて置かれた、一組の靴だった。それは、見覚えがあるけれども、息子のものではない。なるほど、一騎はいないらしいと察して、史彦はそれ以上大声は出さずに店の中に入る。
 ぎしぎしと古い階段を軋ませながら二階に上がると、居間の襖が少し開けられていた。そっと開けて中に入れば、卓袱台のそばに、すっかり青年らしく成長した一騎のおさななじみが転がっている。史彦と同じくらいの背丈に成長した彼――総士は、そのからだをすこしだけ丸めて、一騎がかけたのであろう薄手のタオルケットに身をくるまれ、座布団を枕にしてすうすうと眠っている。卓袱台の上には「父さんと総士へ 夕飯の買い出しに行ってきます」というメモ書きが置かれていた。
 おそらく本当は、ふたりで買い出しに行く気でいたのだろうが、総士が眠ってしまい、起こすのがしのびなく、一騎がひとりで出かけた、というところだろう。総士が島に帰還してしばらくの間、真壁家で総士を療養させていたことがあるが、そのころから一騎と史彦のあいだには、総士が安心して眠れるのなら無理に起こさないでいよう、という暗黙の了解がある。
 最近は総士の不調もすっかりなくなっていたはずだ。アルヴィスのあちこちで急に眠りこけている、ということもない。つまり単純に眠くなって寝てしまったのだろう。
 かつての総士であれば、こんなふうに、油断した姿を人前にさらすことは決してなかった。島に帰ってきてから、一騎と史彦のいる家で長い時間を過ごしたせいなのか、この家にいる時は――一騎がいるときは、ずいぶん気が抜けてしまうようになったらしい。
 総士には、帰ることのできる、家族の待つ家はない。父も母も義姉も妹も――いなくなってしまった。皆城の邸そのものは未だに残っていて、総士も手入れをしに定期的に通ってはいるようだが、暮らしているのは今も、アルヴィスの居住区に与えられた一室だ。
 かつての総士が自分をさらけ出すことができたのは、おそらくあの狭い部屋と、皆城乙姫のいた、ワルキューレの岩戸だけだった。周りの大人にも、同級生にも、本心や弱さは隠して過ごしていた。そうであらねばならないと、彼は、自分自身に課していた。
 だから、そんな総士がこうして、まるで自分の家にいるかのように気を許したすがたを見せてくれるのは、史彦としても安心するのだ。
 皆城総士という存在に役割を課し、彼が孤独に耐え、フラッシュバックに苦しんでいることも知りながら、頑ななこどもをただ見守るしかしなかった――もっとひどい言い方をするのならば、そのままなりゆきに任せていた自分たちが、今更何を、と、思うこともある。けれど、こどもとしての時間の多くを、他者に、島のために割いてきた彼が、年相応の顔を見せられるようになった、そのことが、うれしい。
 そしてその隣には、穏やかに笑うようになった一騎がいる。それがよろこばしい。
 すうすうと規則正しい寝息をこぼしながら眠る総士の顔は、島に帰ってきたばかりのころとは違って、成長し、精悍さを増している。けれど、寝顔はまだ幼い。
 こどものころ、できなかったことを、時間を、取り戻せばよいと思う。――いや、そうではない。彼らはおとなになりながら、頑なだったこどもの自分を俯瞰して見つめ、変容し、成長していく。史彦たちが思っているよりもずっと、早く。
 さみしいようでうれしい、その気持ちを、親である自分たちが得られるのも、こどもたちがこの平和な時間を導いてくれたおかげなのだ。
 ありがとう、と、もう何度重ねたかわからない感謝の言葉を胸のうちにつぶやいて、史彦はほほえむ。
 ――……茶でも、いれておくか。
 一騎は商店街へ買い出しに行ったのだろうから、そのうち帰ってくるだろう。総士も起きたら喉が渇いているだろうし、少し冷ましておくくらいでいいかもしれない。
 そう思って、史彦は台所へ入るために、総士のそばをそろりそろりと通り過ぎようとした。すると、畳の軋む音に反応したのか、総士がもぞもぞと身じろぐ。しまった、起こしただろうかと史彦がそのまま立ち止まっていると、タオルケットからのぞいた総士の手が、何かを探すように畳のうえをそろそろと撫でる。

「……かず、き……」

 ううん、と、あきらかに寝言とわかるつぶやきをこぼし、目当ての存在が隣にないことを察した総士が、ぼんやりと目を開けた。その視界に、自分の横を通り過ぎようとしている史彦の姿が映る。

「……」
「……おはよう、総士くん」
「――っ、し、司令……!」

 慌てたように総士が跳ね起きる。この家で療養しているときからずっと、総士の史彦に対する態度は変わらない。

「そんなに慌てなくていい。一騎が帰ってくるまで寝ていていいんだぞ」
「い、いえ、大丈夫です。失礼しました」

 すこし跳ねた髪を整え、タオルケットをていねいに畳みだした総士に苦笑し、「総士くんは緑茶でもいいかね」と問いかけながら台所へ向かう。彼が珈琲好きであることは知っているが、あいにく、真壁家で珈琲をいれられるのは一騎だけだ。

「もちろんです。司令、僕がいれますので……」
「そうかね。では頼もう。こないだもらった茶菓子がこのあたりに……」
「御門やの饅頭でしたら、そこの左の棚の中に」
「なるほど、ここか」

 どちらがこの家に暮らして長いのかわからなくなる会話をしながら、男ふたりががちゃがちゃと狭い台所で肩を並べていると、階下から、「ただいまー」と一騎の声がした。