空の色
あのとき、誰もが諦めず、しかし困難な作戦に臨む前、「じゃあ、わたしたちは空にしたら?」と明るい声で言ったのは、まるで生まれたときから空を知っていたかのように飛びまわることが得意な、幼い少女だった。それが、きっと、人々が蒼い空を特別な意味をもって見上げるようになった、きっかけだった。
――夏の終わりの蒼い空を、ルビーのような色をした戦闘機が真っ直ぐに飛んでいく。それを見上げて「今日もやってんなぁ」と溝口は口の端を上げた。
「……遠見ですか」
溝口の隣でおなじように空を見上げて言ったのは、総士だ。今日の溝口は第二種任務がメインで、喫茶楽園のランチタイムを終えたところだった。午後の営業は一騎に任せてあるので、この後は史彦と釣りに行く予定である。
総士はというと、午前の業務を終えてランチをゆっくりと食べ、これからまたアルヴィスへ帰るらしい。高等部を卒業した彼が選んだのは、研究職だ。コアの延命、同化現象の抑制、マークニヒトの解体――総士が手を出す分野は多岐に渡る。医療に関係するすべてを一手に指導している千鶴の能力もすさまじいものだが、次点で飛びぬけているのは総士であろう。千鶴だけではなく、行美もその能力を買っているのか、自分の持っている知識のすべてを教えてやろうという気になっているようだ。
そんな彼が今――いや、昔からだろうが――もっとも気にかけているのが、楽園のなかで片づけに勤しんでいる一騎と、空のうえを飛んでいる真矢のことである。
「遠見は、どうですか」
「どうって、そりゃあ、優秀だよ。ファフナーに初めて乗ったときと同じ、即戦力だ」
敢えて即戦力、の部分を強調すれば、総士はすこし険しい顔になる。
「……今は、即戦力が必要な時ではないでしょう」
「いつ戦闘になるかなんて誰にもわかんねぇよ。外の様子がきな臭いのはお前もわかってるだろ」
溝口の言葉に総士は口を噤み、ふっと息を吐いてから、「そうですね」と頷く。その視線はまた空へと上がる。
総士自身、わかっているのだ。溝口に言われなくても、島のことを一番に考えている彼は、例え今が平和であっても、突然それが崩されるときのために、戦力はどれだけあってもいいのだと――わかっているから、マークニヒトの解体、ひいてはそれによって、マークザインを起動させることを検討している。
それは、マークザインの唯一のパイロットである一騎の寿命を削ることにほかならないはずだった。しかし、総士はその一方、一騎の延命に関する研究にも必死になっている。
誰よりも一騎を失いたくないと考えているのは総士に違いないと、溝口は思う。真矢に対しても、同じだ。総士は仲間を失いたくない。けれど、島を守るために、そこに暮らし、帰る仲間のために、戦わざるを得ないときのことも、常に、考えていなければならない。
その矛盾を、幼い総士はひとりで抱え込もうとしていた。
しかし今は、溝口に対して不満を口にしつつ、自分で納得もし、その矛盾を抱え込むのでも、見ないふりをするのでもなく、あるがまま受け止めているように見える。
「戦闘機の色まで塗り替えて、あれは遠見が希望したんですか?」
剛瑠島に配備されている戦闘機は色が統一されていた。しかし、真矢に与えられた機体はルビー色で、蒼い空にはひときわ映える。
「ああ、あれか。今まで誰も、戦闘機のカラーリングを個別に変えるなんて考えていなかったんだが、マークジーベンみたいな色がいいな~って、お嬢ちゃんが言ったのさ。それを聞いたメカニックが、張り切ってな」
「そうですか……」
上空へのぼり、くるりと旋回した戦闘機が、ふたたび海のほうへ向かっていく。今日の指導には佐喜がついているはずだ。彼女も彼女で、軽やかな飛び方をする。乗っているものは巨大な鉄のかたまりだが、地上から見るかれらは、自由に飛びまわる鳥にも見える。
「あのまま、空を飛ぶだけでいいなら――」
総士がぽつりとつぶやいた言葉は、風にさらわれて溝口には届かない――届かなかった、ふりをした。総士も、そんなことは叶わないのだと、わかっていてつぶやいたに違いなかった。
少し前――一騎たちが自分たちに与えられた指令書を返納する前に、久しぶりに総士と真矢は言いあいをした。それを溝口は、千鶴から聞いた。「変わってほしかったくせに」と、そう言った真矢に、「きみに変わってほしいと思うものか!」と総士は言い返したらしい。
――ずっと思っていて、でも決して言おうとはしなかったのに。
なんだか胸がすっとしたんです、と、千鶴は笑っていた。真矢をファフナーに乗せたくない、と、そうとは言わずに、一騎や総士が、一時期、真矢をパイロットから外すことを画策していたのを、大人は知っている。総士がもっともらしい理由をあげつらって報告書を提出するたび、険しい顔で「遠見をファフナーに乗せるべきではない」と言うたび、その言葉の向こうがわ、総士が決して見せないこころの奥底にある、真矢を乗せたくない、変わってほしくない、失いたくはない、という思いが見え隠れした。幼い総士は必死で隠しているつもりでいたのだろうが、大人の目には明らかだった。否、総士自身、当時は自分の素直な感情には気づいていなかったのかもしれない。
それを、面と向かって言えるようになった。
もちろん、真矢がマークザインに乗るという荒業を行った、というイレギュラーが起こったせいではあるのだが、それでも以前の総士なら、もっと感情を抑えていただろう。
あれから、総士と真矢は、以前に比べて穏やかに会話をするようになった。ふたりがその後に何を話したのかは知らないが、ずっと横たわっていたものが、昇華されたのは間違いないだろう。
こじれていた糸は、時にぶつかりあうことで、ほどけていく。それを成長だと、大人になるということでもあると、溝口は思う。
こうでありたいと、こうあるべきだと思う自分を望むこと。一方で、そうできない自分もいることを、認めて乗り越えていくこと。
ちいさいころから見守っていたこどもたちは、いつの間にか、そうして、溝口をも追い抜いていく。――追い抜いて、いってほしい。生きて。できるだけ長く、自分よりも長く生きて、その先を。願っても願っても叶わないことはある。それでも願うのをやめないことは、強さなのだと、知っている。
戦闘機の残した雲を見ながら、溝口は、さぁて、と、声を上げた。
「俺は今日の晩メシを釣りに行かねぇとなぁ。お、そうだ、総士、お前も今日は真壁んちに食べに来いよ。俺が美味い魚を釣り上げて行くからよ」
「それなら、一騎の買い出しに付き合ってからうかがいます」
「今日は何が釣れるかねぇ。先週の鱈のバター焼き美味かったよな」
「あれは溝口さんが作ったと聞きましたが――」
「俺だってまだまだ一騎には負けてないからな――」
軽快な会話にかぶさるように、夏の終わりを惜しむ蝉の声が、楽園の前には響いていた。