第一章

 ――音が、反響していた。
 打ち鳴らし、息を吹き込み、弦のうえに弓をすべらせ、ばらばらのものが、ひとところへ収束しながら拡がっていく。相反するものがそれぞれに存在を主張し、それでいて、決して互いを打ち消し合うことをしない。調和のとれた音色がそこにはある。――オーケストラは、そうでなければならない場所だった。ひとりひとりが好き勝手に自己主張をすべきところではない。いかに個性的で各々に能力の高い個人であっても、ここではみながひとつの音を奏でるための努力を求められる。
 坂道を駆けあがるときの心臓の音のように、大きくふくらんでゆく音が頂点に達したところで、余韻を残しながらいっせいにやみ、ふ、と、壇上の男が息を吐いた。ここまで、というように身振りでしめして、指揮台から降りた彼が出て行くのを待たずして場の空気がゆるんだ。
 各々が手にしていた楽器を片付け、隣り合うものと楽譜を示し合い確認を取っているのを横目に、総士はちらりと時計を見やった。短針は四を差し、長針はてっぺんを少し過ぎたところだった。今日の全体練習はここまでだ。どこかで遅い昼食をとってきてから、部屋を借りてひとりで弾こうと決め、手にしているチェロを収める準備をする。
 背が高いと言われる総士の、肩ほどまであるその楽器は、この世界でたったひとつの片割れだった。己の半身、歩む道に寄り添うもの。失えないだいじな道具であり、心臓に似たもの。今の総士にとっては、唯一の、よすが。
 あかがね色の胴体に指先で微かに触れ、そっとケースの蓋を閉じたところで、ふと視線を感じて振り返る。同じパートの数人が「皆城」と笑顔で声をかけてくる。
「これから中のカフェで昼食を取ろうって話なんだけど、お前も来ないか?」
「ああ……、その、すまない。外に出る用事があるんだ。また今度」
「そっか、じゃあまた」
 総士の答えに気を悪くしたようすもなく、おつかれ、またな、と手を振ってゆく彼らに当たり障りのない笑顔を返して見送ると、総士はケースを抱えて、リハーサル室を後にした。
 
 ――この楽団に入団して、もうすぐ二カ月になる。

 迷うことなく楽屋や練習室の並ぶ廊下を抜けて、ホールの表側に出ると、ガラス張りのホワイエに五月のひざしがきらきらとふりそそいでいた。演奏会のない日のホール内は静かだ。二階に併設されたカフェの客はちらほらと見かけるが、平日ということもあってか、多くはない。これならば、近くのコンビニで何かを買ってきて、そのあたりのベンチで食べても見とがめられないだろうかと思ったところで、ふと聞こえた物音に視線を動かした。
 ホールの入り口付近で、小柄な体躯をめいっぱい伸ばし、大きなポスターを貼るのに手間取っている女性がいる。総士はそばに近づくと、見覚えのある赤みがかった茶色の頭の上に手を伸ばし、彼女の手では届かなかったらしいポスターの上部の両端を押さえた。いきなり後ろから伸びてきた腕に驚いたらしい彼女は、へ、と、声を上げて総士を見上げ、まるい瞳をまたたかせる。
「皆城くん?」
「貼るんだろう。留めるものをくれないか」
「あ、う、うん」
 剥がせるように加工されているテープを受け取って、ポスターの両端を留める。印刷されている顔と名前には見覚えがあった。――ありすぎるほどに。胸の奥がしくりとするのを無視して、すこしだけ目を細めてから手を離すと、下の部分を固定し終わった彼女――真矢が振り返る。
「ありがとう、皆城くん、助かっちゃった」
 構わない、と、返してその場を去ろうとすると、「待って待って」と声がかかる。
「これからお昼なんでしょう? よかったら一緒にどうかな」
 彼女がそんなふうに誘ってくるのは珍しいことだった。
 楽団のステージマネージャーを勤める遠見真矢は、鋭い観察眼を持っている。音のひびきひとつで、その日のステージにおいて、最善の演奏を行うために必要な物も、人も、環境もすべて把握し整えてしまう彼女は、楽団員ひとりひとりの感情や体調の機微にすらも目を配らせる。
 総士がいつもひとりで昼食を取っていることも、他の楽団員に当たり障りなく接しながらも、一定の距離を保ち続けていることも、お見通しのはずだ。しかし、それでも、ああしろこうしろなどと口を出さないのは、干渉することが総士にとって最善の方法とは言えないと判断しているからなのだろう。基本的に真矢は、楽団の空気を乱すようなことをしない限り、楽団員に対して直接口を出すこともない。
 そんな彼女だから、たとえ総士がひとりでいても、食事の誘いをすることなど、今までなかった。それに彼女はいつも、事務局に勤めている姉が作ってくる弁当を食べていたと記憶している。
 真矢は総士の考えを見透かしたのか、「お姉ちゃんが今日休みなの忘れてたの。だから外で食べようと思って」とほほえむ。ほら行こう、と言ってポスターを貼るための道具を手早く収めて歩き出してしまった真矢に、行かない、と頑なに言うほど、総士とて意固地ではない。総士に対して何のためらいもなく話しかけてきながら、適度な距離を保ってくれる真矢の存在は、正直、ありがたいものなのだ。そんな彼女の誘いを無碍にはできない。仕方がないなと、ひとつ息を吐いて、総士は真矢の後ろについて歩き出した。


 真矢の中にはすでに目的地がインプットされていたのだろう。総士に説明はないが、足取りには迷いがない。
 楽団が拠点にしているホールは、いくつかの路線が集まった中規模な駅から徒歩十数分の距離にある。ホールと駅を挟んで向かい側には繁華街が広がっているが、ホール近辺には学校などの公共施設が多く、比較的落ち着いた雰囲気の店や、古い店が多い。ちらほらと楽団員の姿も見かける。総士はいつも彼らを避けるようにして、コンビニで買った弁当をホールの敷地内で食べることが多いので、どんな店があるのかすらも、よく知らない。海外にいた頃からひとり暮らしで、自炊ができないわけではないので、弁当を作ってくればいいのだが、練習スケジュールが詰まってくると手を抜きがちなのは昔からだった。
「ここだよ」
 真矢が立ち止まったのは、大通りから一本入った小さな通りの、奥まったところに建つ古びた建物の前だった。付近には珍しく高い建物がないので、通りの奥とは言え、日差しがきらきらと届いている。店の横にあるわずかな駐車場に沿うように植えられた木々が、無機質なコンクリートのうえにやわらかな木漏れ日をつくっていた。いいところだ。直感でそう思った。
 真矢が店のドアを開けるとどこか懐かしいような、カラン、というドアベルの音が鳴る。いらっしゃいませ、と、店の奥から響く声は、総士の目に映るやわらかな木漏れ日と同じようにどこか優しい揺らぎでもって耳に届いた。陽の光が窓から入り込む店内は、いかにも昔ながらの喫茶店、といった佇まいだった。光量の絞られた照明が焦げ茶の木の床を照らし、まばゆいばかりの五月の日差しを浴びた目に、やさしく反射する。
 真矢は迷うことなく、窓際の席に向かい、総士は大人しく後を追った。真矢の向かい、クラシカルな布張りの椅子に腰を下ろすと、無意識にほっと息が零れる。
 こういう雰囲気は、嫌いではない。もともと総士は雑味のある音に溢れた場所は苦手だ。喧噪も雑踏も耳に不愉快で、静かな場所を好む。この店内には総士の嫌う音がない。大通りに面していないから車の音もしないし、外を行き交う人の声もない。客の思考を邪魔しない程度の音量に絞られたBGMはクラシックだった。時折、食器とカトラリーの触れ合う微かな音と、カウンターの向こうで調理をする水音や、じゅわ、と、何かの焼ける音がする。客はそれなりに入っているが、年齢層は高めで、気になるほどの音量で喋っている者はいない。それに、総士の嫌う煙草を吸っている者が見当たらなかった。そういえば、テーブルの上に灰皿はない。
 いいところだ。総士はもう一度その感想を噛み締める。こんな店があったなんて、知らなかった。いや、知るはずもないのだ。この街へ来て二ヵ月、総士は家と最寄りのスーパーとコンビニ、そしてホールとの間しか行き来してこなかったのだから。
 しかし、と、総士はメニューを楽しげに見ている真矢へ視線を投げる。確かに雰囲気のよい店ではあるが、真矢がこの店を知っていたのは意外だった。洒落てはいるが、若い女性が好むような意味での洒落っ気とはまたすこし違うような気がする。どちらかと言えば、懐かしみながら訪れる、郷愁に属する寂寥を感じさせるような店だ。真矢はこういった雰囲気が好きなのだろうか。
 その疑問に答えを与えたのは真矢ではなく、さきほども聞いた、柔らかく揺らぐ声だった。
「いらっしゃい。珍しいな、昼に来るの」
 その声は頭上から降ってきた。レトロな銅製のトレーに乗せられたおしぼりをふたつ置きながら告げられた言葉に、真矢が顔を上げて微笑む。
「お弁当忘れちゃったの。あ、でも、一騎くんのご飯食べたかったのもあるんだよ」
「後付けだろ、それ」
「ほんとうだよ」
 くすくすと楽しそうに笑う真矢の視線の先、「一騎くん」と呼ばれた柔らかな声の持ち主は、総士や真矢と変わらない年頃の青年だった。白い肌と対照的な、短い艶のある黒髪。ぱちりとひとつ瞬いた榛はしばみ色の瞳が総士に向けられて、ほほえみとともに細められる。いらっしゃいませ、と、改めて告げられた声もどこか心地よい。軽く会釈をすると、「楽団員さん?」と彼は首を傾げる。
「そう。うちの新しいチェリスト」
「ああ……、前に言ってた、最近入ったっていう、有名人さんだ」
「そうそう」
 真矢はにこにこと頷いているが、総士としてはいろいろと口をはさみたいところがある。真矢とこの「一騎」と呼ばれた店員は、おそらく昔からの知り合いなのだ。だから真矢はこの店を知っていて、よく来ているのだろう。そして何故か、総士のいないところで、総士の話をしていたらしい。――いや、何故、というのも、おかしいだろうか。知り合い、しかもおそらく、真矢の雰囲気からして気の置けない友人くらいの立ち位置であろう彼に、当たり障りのない仕事の話をするのは普通のことと思えた。引っかかるのは「有名人」のくだりである。
 それを問い質すより先に、「遠見が誰かを連れて来るのって珍しいから、きっとそうなんだろうなって思った」と彼は言い、「決まったら言って」と去って行く。声にならなかった問いを飲みこむと、真矢がはい、と、メニューを総士の前に差し出した。
「おすすめはランチのカレーセット。百円プラスでおいしい珈琲がついてくるけど、どう?」
「……それをいただこう」
「一騎くーん、カレーセット、珈琲つきふたつで!」
 はーい、と、応える声がカウンターの向こうから聞こえた。静かな店内に響いた声に、しかし、こちらを見るような客はいない。おそらく皆、常連客なのだ。だから真矢と一騎のやりとりも気にしていないのだろう。
 注文が通って人心地がついたように、真矢がおしぼりで手を拭き始めたので、総士は喉元でとまっていた問いを口にした。
「その……、有名人、とは、なんだ……?」
「海外で活躍していた有名なチェリストが、あるとき突然活動を休止。ふっといなくなったと思っていたら、なんとうちの楽団員のオーディションを受けに来て、おまけに合格しちゃったんだよ、どうしよう!……って一騎くんに言ったら、その感想が『そいつすごい有名人なんだなぁ』の一言だったの」
 一騎くん、クラシック音楽なんて全然わからないんだよ、と、言いながら真矢は、おしぼりと共に提供されていたグラスの水をひとくち飲んだ。窓から差し込むひかりがグラスのなかの水をとおして、テーブルのうえで跳ねている。ふたりのあいだに、暫し、沈黙が落ちた。
 ――真矢が、その話を真っ向から総士にしてくるのは、初めてだった。それは、総士自身が触れられたくないと思っていることを、察していたからなのだろう。彼女の優しさや気遣いでもあったろうし、楽団の運営上、特段、必要なことでもなかったから、というのもあるにちがいない。
 誰もがおそらく触れたがり、触れられないことだった。総士が口を閉ざせば閉ざすほど周りは好きに想像し、話を広げていく。それはそれで、構わなかった。自分自身に対することであれば、何を想像されても、言われても、気にならない。けれど。
「……さっきのポスター、見たでしょう」
「ああ」
「彼、最近すごく精力的に活動してるみたいで、日本公演、するんだって。うちのホールじゃないけど、懇意にしている別の楽団のマネージャーさんからポスターもらったの。あれがあることで、もしかしたら皆城くんに、何か訊く団員がいるかもしれないと、思って」
 どうして彼らと離れてしまったのかという問いではなく、あくまでも気遣いだけを感じる真矢の言葉に、総士はきょとん、と、目をまたたかせた。
「……君は、訊かないんだな……、いや、君だけじゃない。楽団の、誰もみな、そうだ」
「訊いたり過去を掘り返したりすることで皆城くんの演奏がより良くなる、っていうのなら話は別だよ」
 でもそうじゃないんでしょう、と、真矢は言いながら目を細める。
「皆城総士の名前も、演奏も、知らない楽団員はいないよ。私も、皆城くんたちの演奏を聴きに行ったこと、あるもの。国籍も経歴もちがう、同じコンクールで意気投合した、同じ年代の若手が組んだチェロ・カルテット。それぞれがソリストとしても有名だったから、日本公演もチケットすっごく取りづらくって、大変だった」
「……それは、迷惑をかけたな」
「すごいなぁって、言ってるんだよ?」
 苦笑する真矢は、「とてもすてきな音だった」と、なにかを思い出すように目を伏せた。総士のなかにも、かつて奏でた心地のよい音がふわりとよみがえる。

 ――チェロという楽器を初めて手にしたのは、いつだっただろう。

 皆城という家は、元から音楽家の家系だった。
 総士の父は演奏家ではなく音楽事業の道へ進み、その先でヴァイオリニストの母と出逢い、総士が生まれた。生まれたそのときから、周りに音楽があるのは当たり前で、幼いころの総士は、特に強いられたわけでもなく様々な楽器に興味を持ち、なんにでも触れた。触れられるだけの環境がそこにはあった。
 チェロを選んだ理由は、もうあまり覚えていない。母の弾く華やかなヴァイオリンに憧れもあったし、父が趣味で弾くピアノも好きだった。けれど総士が、これがいいと、そう手にしたのはチェロだった。それだけだ。ヴァイオリンの高らかな華やかさとは違う、けれど音域が広く、ひとの声にも似た、まろやかで静謐な音色がすきだった。
 二歳下の双子の妹たちも、総士と同じようにそれぞれ楽器に興味を示し、片やヴァイオリン、片やピアノを手にした。もともと、父も母も海外を飛び回るような生活をしていたし、総士や妹たちが留学を希望していたこともあって、総士が高校二年生になる前に、一家で拠点をウィーンへ移した。音楽院へ入った総士はいくつかのコンクールで入賞し、二十歳になるころには一躍名が知れるようになっていたのだった。
 好きなもので、望んだ場所で、生きていける。
 それがどれほど幸福なことか、総士はよくわかっていたし、蔑ろにしたことなどなかった。
 そして二十二になったころ、名の知れた国際コンクールで総士は一位をとり、そのときともに出場していたチェリストたちと懇意になった。故郷も言葉も性別もちがったけれど、みな同じ年頃であったし、彼らと音を奏でるのはとても心地がよかった。カルテットを組もうという話になったのも、自然な流れだったのだ。ソリストとして各々に活躍している四人のチェリストのカルテットは、瞬く間に人気を集めた。それぞれのソロでの公演の合間に、海外を飛び回って、いろんな場所で演奏をした。あまり感情を表に出すことのない総士が、たのしいと、そう、こころから、思えるような空間だった。

 ――結成から三年が経った、一年前、突然、解散してしまうまでは。

 どうして、と、訊かれることは何度もあった。どうして――どうしてなのか、未だに総士は、明確な答えを持っていない。ただ、なるべくしてなったのだと、そう、思っている。責任は自分にあるのだ、と。
 総士も、他のメンバーも多くを語らず、解散とともに総士だけが個人としての活動も休止し、表舞台から姿を消してしまったものだから、余計に人々を邪推させた部分があったのだろう。うまいやり方ではなかったというのは、重々承知している。けれどあのときの総士は、本当に、音楽から離れようとしていたのだ。――いや、ひとのなかで、音を奏でることを、やめようと思ったのだ。自分にはどうやっても音楽しかない。その手にはチェロしかない。だから音楽を捨てることはできない。けれど、もう、人とともに奏でることはやめよう、と。
 だが、音を奏でることを求める限り、他者との関わりは避けられない。音楽は人間が作り出したものだ。人間のなかに存在しているものだ。誰もいない場所でひとりで奏でても、それは総士が人生を懸けて求めてきた音楽とは異質で、つまらないものにしか思えなかった。
 どうすればいいのか、しずかに考えるために、日本に戻った。かつて暮らしていた家は、別荘代わりに日本に帰るたびに使っていたから、暮らすにはじゅうぶんな環境が整っていた。
 日本で演奏活動をするにしても、後ろ盾は何もない。マイナスな肩書を背負った総士を、今更拾ってくれるようなところもない。――いや、敢えて探さなかった、というのが正しいかも知れない。総士をかつての「皆城総士」と見なさない、そんなところで、居場所を見つけようとしていた。
 毎日ただこもってチェロを弾くだけの総士を見かねて声をかけてくれたのは、幼いころから総士にチェロを教えてくれた、日本での恩師だった。自分の子の妻が、ある楽団の事務局に勤めていて、そこがちょうど、チェリストに欠員が出たということで、募集をしているのだ、と。楽団には百年近い歴史があり、拠点としているホールは施設そのものの音響に対しても評価が高く、各地にファンも多い。運営もしっかりしているし、経営にも問題はない。それだけに、欠員が出るのはとても珍しく、オーディションの倍率は高い。
「そのかわり、君に対して、特別なフィルターをかけて判定することも、絶対に、ない」
 君がもしもまたひととの関わりのなかで音を求めるのならば、大きな楽団のなかに入ってみるのも、ひとつの選択ではないかね――。
 自分が――どこかのオーケストラに所属することもなく、カルテット以外はソリストとしての活動しかしてこなかった自分が、協調を求められる場で演奏をする。できるのか。自分に。不安はあった。けれど、ひとと奏でる音のなかに再び戻るためには、それしかないようにも思えた。
 覚悟を決めて受けたオーディションにおいて、恩師の言う通り、総士を名で判断するような空気は一切なかった。同じ受験者のなかには総士の顔や名を見てあれこれ邪推する者もいたが、審判する側は、いたって公平だった。総士が何故ここにいるのかなどということは気にしてもいなかった。
 チェリストの枠はたったひとつ。
 最終的に、そこへ選ばれたのは、総士だった。


 楽団員もスタッフも、まったく、総士に思うところがない、というわけではないだろう。だが、ここ二ヵ月間、総士は、居心地が悪い、と、感じたことはない。みずからが踏み込まないから、みなも踏み込んでこない。その隔たりは確かにある。けれど、腫物のように総士を扱うものはいなかったし、詮索をしてくるものもいない。
 真矢もそうだ。――その、恩師の子の妻の、妹である、彼女も。今、このときまで、この話をしてくることはなかったのだから。
「過去の皆城くんの音がすてきだったから、だから、皆城くんを選んだっていうわけじゃないんだよ。それももちろん皆城くんの一部だけど、わたしたちは、今の、皆城くんの音を聴いて、選んだの」
「……よく、わかっている」
「そっか、じゃあ、いいんだ」
 ふんわりと笑った真矢に、何が「いい」のかと問う前に、「お待ちどうさま」という声がした。スパイスの香りがただよってきて、総士と真矢の前に、白い皿に盛られたカレーと、付け合わせのサラダが置かれる。シンプルな見た目だが、妙に食欲をそそられる。ごゆっくり、と、だけ言い残して去って行く黒いエプロンの影が視界の端に消えていって、真矢がスプーンを手に取った。
「一騎くんのカレー、本当においしいんだよ」
 いただきます、と、ひとくちすくって口に含んだ真矢が本当にしあわせそうな顔をするので、つられて総士もスプーンをとった。ぱくりとひとくち含んだとたん、おいしい、と、思った。カレーは好物のひとつであったし、父に連れられて行ったそれなりに有名な店のカレーから、ひとりぐらしで食べ慣れたレトルトカレーまで、さまざまなカレーを口にしてきたが、これは本当に美味いの一言だった。スパイスが効いているが辛すぎるわけでもない。甘みというか、コクがある。気づけば無言でふたくちめを食べていた。黙々と総士が食べていることに真矢は満足したのだろう。「ねぇ、おいしいでしょう」とにこにこ笑っている。
「ああ。……君は、彼とは知り合いなんだな?」
「うん、おさななじみなの。お昼はいつもお弁当だから、たまにモーニングや、お茶をしに来るんだ」
「だがいつもひとりなんだろう。僕を連れて来て良かったのか?」
 さきほど店員の彼は、「遠見が誰かを連れて来るなんて珍しい」と言っていた。おそらくここには楽団員も来ないのだろう。真矢にとって大切な場所なのではないか、という気がしたのだ。そこに部外者である自分が踏み込んでも良かったのだろうか、と。
 しかし真矢はきょとんとしたあと、ふふ、と笑う。
「皆城くん、こういう雰囲気、嫌いじゃないでしょう?」
「ああ……、まぁ……」
 突然なんだ、と思いながらも総士が頷けば、「不思議だよねぇ」と真矢が言う。
「誰かの作ってくれるあったかいごはんって、からだだけじゃなくって、心もすごく元気になるの。……ここなら楽団員も知らないし、皆城くんのこと、気にするような人もいないよ」
 真矢の言わんとすることをやっと察した総士は、目をまたたかせ、そうして僅かに、顔をしかめた。
「……それは、ステージマネージャーとしての助言か?」
「まだまだ皆城くんには時間が必要なんだとは思うけど、まずは、心身ともに健康じゃないと、誰かと関わろうってきもちだって、生まれてこないでしょう。……一騎くんのお店って、すっごく居心地良いの。だから特別に教えてあげる」
「……」
 楽団員たちとの関わり方にとやかくものを言う気はないが、変わりたいと、何かを得たいと思うのならば、まずは心身ともにしっかり整えろ、ということだ。毎日のように適当に昼を流し込んでいる総士を見ていて、彼女には思うところがあったのだろう。栄養を考えた食事だってしているし、健康管理に問題はないと言い返したいところだが、彼女の言い分には一理ある。わかった、と、ちいさく言えば、すい、と、机の端に置いてあったカードを差し出される。
 店の情報が書いてあるそれには、『喫茶楽園』の文字があり、少ししなびている。今更カードを持って帰るような新規の客は少ない、ということだ。モーニングは朝の七時半から十時、昼は十二時から、夕方は十八時まで。定休日は木曜日。定食とカレーは持ち帰り可。ホールからの距離は遠くないし、家からも近い。他の楽団員と鉢合わせることもないのなら気も楽だ。昼くらいは、食べに来てもいいだろう。
 渋々カードを受け取ったところで、一騎という名の彼がカレー皿を下げにきて、かわりに、珈琲をふたつ置いていく。
 ふわんと、香ったにおいに、総士は目をまたたかせた。
 珈琲は、すきだ。自宅で飲むときには必ず豆を挽いてハンドドリップをするし、時間があればサイフォンで沸かすこともある程度にはすきだ。だからわかる。これは、絶対に美味い珈琲の香りだ。
 カップの取っ手に指をかけ、ゆっくり、ひとくち含む。
「…………」
「皆城くん?」
 ひとくち飲んだきり黙り込んだ総士に真矢が首を傾げる。
 ――おいしい。
 ひさしぶりに、外で、こんなにおいしい珈琲を飲んだ。
総士は思わず厨房を見やる。次の客のものなのか、ゆっくりと手で湯をそそぎながら珈琲を抽出している彼を――一騎、という名の彼を見る。この珈琲一杯で、どれくらいならここに居座ってもいいだろうか。柔和な面差しから察するに、長居をする客がいてもそうそう煙たがりはしないだろう。譜面を読むあいだくらいは、ゆるされるのではないか――?
 きょとんと目をまたたかせる真矢に気づくことなく、総士は出逢ってしまった一杯の珈琲に完全に気を取られていた。