第二章

 雨の音は好きだが、陰鬱な空気はどうにも苦手だ。
 ふだんは程よく日差しのふりそそぐ窓辺には、ざぁざぁと地面に降りつける雨粒の音がひびいている。見上げてみても、晴れの日に穏やかな木漏れ日を提供してくれる街路樹のむこうには、曇天が広がるばかりである。梅雨にはまだ早いはずだが、ここ最近はこんな天気の日が多い。晴れていると思って家を出ても、帰りに突然雨にあう、ということは少なくないので、常に総士は鞄のなかに折り畳み傘を入れていた。
 ――入れていた、のだが。
 次の演奏会のための譜面を取りに楽団事務所まで行くだけだからと、ふだんの鞄を持って出なかったのが敗因だ。総士は白いカップを手に取りながら、ひとつちいさなため息を吐いた。――いや、それだけではない。今日の予定は他にないのだから、まっすぐ家に帰ればよかったものを、なんとなく、立ち寄るのが日課になっている喫茶店に足を向けてしまったのがいけなかった。幸いにも財布は持っているから、珈琲を一杯だけ飲んで、すこし譜面に目を通したら帰ろうと思っていた。まさか店に入ったとたんに雲行きが怪しくなり、土砂降りになるなんて考えてもいなかった。
 ――どこかで傘を手に入れるにしても……、最寄りのコンビニでもそれなりの距離があるな……。
 この身ひとつならば雨に濡れても構わないが、だいじな譜面がずぶ濡れになるのだけは避けたい。最近の雨のようすからして、店内で時間を潰していればいずれやむだろう、と思っていた。しかし、総士の好む苦みの深い珈琲のむこうに白いカップの底が見えてきても、一向に雨のやむ気配はない。スマートフォンを取り出してアプリを開き、雨雲レーダーを見ても、赤や紫色のドットは一時間後まで不安定な動きで総士のまわりを取り囲んでいる。そもそも今朝は雨など降らない予報だったのだから、これだってどこまで信用できる情報かわからない。
 まぁ仕方がないだろうと、総士は最後の一滴を飲み干した後、ちらりと厨房のほうを見やった。
 ここ二ヵ月ほどですっかり見慣れてしまった黒い頭は、トントンと何かを切る音にあわせてわずかに揺れている。その横顔はどことなく楽しそうだった。平日の、ランチタイムを過ぎてしまった喫茶店のなかには、総士以外の客の姿はない。常連の多くが近辺の会社員らしく、昼休みの時間帯は混みあうのだが、それを過ぎるとぽつぽつと近所の顔見知りらしき年配の客や、時間を持て余した学生などが訪れる程度である。閉店間際に客が増えるのは、この店で一番人気のカレーがテイクアウトできるからだ。
 ふだんの総士は、楽団のホールで練習やリハーサルがあるときは昼の時間に食事をし、そうでない日は珈琲一杯だけを飲みにくるのが定番になっている。よって、彼とのやりとりは注文をするときと、会計をするときの二回だけであったし、最近は総士も「常連」と認識されているらしく、注文するよりも先に「いつものですか?」と訊かれるようになっていた。そうやってひとつの決まった流れができてしまうと、いつもと違うことをするのに、どうにもためらいが生まれる。
 すこしだけ迷ったあと、総士は「すみません」と声をあげた。おや、と、顔を上げた彼が驚いたように二回ほど目を瞬かせてから、「はーい」といつもと変わらないやわらかな声で返事をして厨房からのんびり出てくる。
「珈琲を、もう一杯お願いします」
 ほかに何かつけようかと思ったが、ケーキやプリンを食べる気分ではなかったし、昼は家ですませてしまったから、軽食を取るほど腹が空いているわけでもない。長居をしていて申し訳ないと思いつつ注文すれば、榛の瞳をちょっと細めて「かしこまりました」とほほえみが返ってきた。彼が空になったカップを手に厨房に戻っていくのをなんとなく見やって、ほっと息を吐く。居座ることを迷惑がられてはいないようだと安心して、そもそもこの店には、客を追い立てるような雰囲気はないことに思い至る。
 初めて訪れたときから、ここには穏やかで静かな空気だけが流れている。彼は――真壁一騎というこの店の店主は、真矢のおさななじみであることから考えて、総士とさほど変わらない年齢であろう。フルネームは真矢から聞いたのではなく、会計のときに、厨房に掲げてある「食品衛生責任者」のプレートを見て知った。彼のほうは真矢から「楽団員」「チェリスト」という情報しか得ていないのであろうから、総士が一方的に名前を知っている状態だ。仕方がないことだが、すこし後ろめたい。
 真矢は総士が喫茶店に通っていることは知っているが、あれ以来、ことさら話題にすることはなかったし、総士も敢えて触れることはなかった。真矢と「一騎くん」はおさななじみだが、総士と彼は常連とその店の店主というだけなのだから、真矢があいだにいるからといって、互いの情報を知り得るはずもない――。
 紙のうえに並んだ音符を眺めながらぼんやりとそんなことを考えていた総士は、「お待たせしました」という声ではっと我に返った。テーブルの上に、白いカップとソーサーが置かれ、ふんわりと慣れ親しんだ香ばしいにおいが広がる。そしてその横に、ことりと、小さな器が添えられた。その焦げ茶色の小皿のうえには、丸い形のクッキーがみっつ、のせられている。
「甘いもの、大丈夫ですか? 一応、甘さは控えめにしてあるんですけど」
「え……、ああ……、嫌いというわけでは……」
 そこまで口に出してから言い方がよくないことに気づいたが、彼は気にしたようすはなく「じゃあどうぞ。サービスなので」と言ってほほえんだ。ほっとして「ありがとう」と返せば、「これはお節介なんですけど」と彼が窓の外を指さす。
「もしかして、雨がやむまで待とうって思ってますか?」
 図星だ。なんとなく気まずく思いつつ頷くと、やっぱり、と、彼のほうはうれしそうに笑う。
「いつも珈琲頼むときは一杯だけなのに、今日は二杯目頼まれるし、ふだんそれ……楽譜かな。持ってくるときは、ほとんど顔上げることないのに、今日は窓の外が気になるみたいだったから」
 ――よく、見ている。
 総士が思わず目を瞬かせると、「あ、その、気を悪くさせたら、申し訳ないんだけど…」と眉をハの字に下げた。
「うち、昔からの常連さんが多くて、みんなそれぞれしてほしいこととか、してほしくないこととか、決まっているから、新しいお客さんがくるとつい見ちゃって……」
「いや……、それは別に、構わない。見られて困るようなことを外ですることはないし、客を観察するのは、よりよいサービスを提供するためなのだろう。なにも謝られるようなことではない」
 口にした後でまたしても、言い方が堅苦しすぎるだろう、と、後悔する。長らく日本語を使う生活をしていなかったせい――ではない。どこの言語を使ったとしても、総士の言葉はまどろっこしいと、よく言われる。真意が伝わりづらいのだと。だから――。
 ふいに沈みかけた思考を、ふは、という、ちいさな笑い声が遮った。見上げると、彼が、おもしろそうに口元を緩めている。
「そんなふうにむつかしい言葉でほめられたの、はじめてだ。あ、いや、ほめられて、る……?」
「……そう……受け取ってもらって構わないが……」
 なんだそっか、よかった、と、彼はにこにこ笑った。常日頃からそうだが、彼はいつも笑顔を浮かべていて、どんなに忙しなく店を回しているときでも、不機嫌な表情を見せたことは一度もない。元来の性格なのだろう。人前での表情が乏しいと言われる総士とは正反対だ。わかりにくいとか、堅苦しいとか言われて敬遠されがちな総士の言葉を、ここまで肯定的に解釈してくれる人間はなかなかいない。せいぜい双子の妹たちくらいだ。だからだろうか、つい話を続けてしまう。
「君は、遠見とおさななじみだと聞いた。僕とさして変わらない年齢だと思うが、ここを一人で切り盛りしているのだろうか」
「ああ、そうだよ」
 答えながら彼は総士の向かいの椅子を指さし、「ここ座っていいか?」とたずねてくる。この土砂降りでは客もしばらくは来ないだろうから、彼も話に乗る気になってくれたらしい。構わないと頷けば、彼はカウンターにあった水差しからコップに水をそそいだものを持ってきて、腰を落ち着けた。
 ふと、いつの間にか言葉遣いが砕けていることに気づいたが、そのほうが彼の雰囲気からすればしっくりときたし、初めて聞いたときから何故か気になっている、やさしくひびくやわらかな声は、不躾さなどなく、ただ親しみだけが感じられ、心地がよい。
 ――ああそうだ、チェロの音にすこし、似ているのかもしれない。
 ヴァイオリンやチェロは人の声に似ていると言われるが、実際、人の声を聴いて「似ている」などと思ったのは、初めてだった。低すぎず、けれど深みがあって、甘やかな、やわらかい声。
「この店、ちょっと古いから、新しいお客さんが見ると、俺の年齢と噛みあわないみたいで、よく訊かれるんだ」
「店自体は、昔からあるのか?」
「ああ。前のオーナーから引き継いだんだ。常連さんのほとんどは、昔からのひとたちだよ。えっと……、俺はいま二十六なんだけど……」
 そちらは、というふうに視線を投げかけられて、そういえば名乗ってもいなかったのだと気づいた。
「すまない、名乗っていなかった。皆城総士だ。僕もいま二十六で、今年二十七になる」
「あ、本当に同い年なんだな。俺は真壁一騎。みなしろ……さん、」
「総士でいい。そのほうが僕も呼ばれ慣れている」
「じゃあ俺も一騎でいいよ。常連さんにはそっちで呼ばれることのほうが多いから。そうしって、どう書くんだ?」
 珍しいよなと言われて、総士は手元にあったペンでペーパーナプキンの上に名前を書いた。すると、一騎も「俺はこう」と総士の名前の下に書き記す。一方的に知ってはいたのだが、改めて見ると、なんとも強そうな字面が並んでいる。そのまま感想を口にすると、「よく言われる」と一騎はほほえむ。
「総士は、チェロを弾くんだよな? 俺、クラシックのこと全然わからないんだ。遠見がたまに楽団の公演チケットをくれるんだけど、ほとんど行ったことがなくて」
「そのわりには、この店ではずっとクラシックがかかっているんだな?」
「前のオーナーが好きだったんだ。継いだときに、店の雰囲気とか、常連さんのことを考えたら、そのままのほうがいいだろうって、遠見が選曲してくれて」
「なるほどな……」
 会話や思考を邪魔しない程度にかかっているクラシックは、定番のものから、マイナーなものまで様々だった。クラシック好きな人間が選んだのではないか、と思えるような選曲であったから、興味がないと聞いていた一騎がどうやって選曲しているのか不思議だったのだが、合点がいった。
「チェロも、名前とかたちはなんとなくわかるけど、意識してそれだけを聴いたことって、ないし」
「そうか。だが、ときどきこの店でもチェロの曲はかかっているぞ」
 くすりと笑って言えば、一騎が「えっ」と目を瞬かせた。
「おおよそ、弦楽器、というくくりで耳に入っているだけなのだろう。クラシック音楽を耳にする機会の少ない者からすれば、ヴァイオリンもヴィオラもチェロも、同じように聴こえるらしいからな」
「う……、ごめん」
「謝ることではないだろう? ……その、僕の言い方はどうにも、堅苦しかったり、きつかったりするようで、勘違いさせたら申し訳ないのだが……」
 責めているつもりは毛頭なかったのだが、またしても言いようがよくなったかもしれない。しかし当の一騎はきょとんとした表情で総士を見返して、「そうか?」と首をかしげている。
「べつに、総士の言い方がきついとは思わないけどな。ひとの好きなものとか、生業にしているものを知らない、ってことが申し訳ないなって思っただけだよ。だってせっかく総士は、俺の淹れた珈琲、あんなにうまそうに飲んでくれるのに」
「……は、」
 彼はやはり自分の言葉を肯定的に受け取ってくれるし、なにごとにも誠実に接しようとするタイプなのだな、と思って好感をもったところで、最後に添えられた言葉に固まってしまう。さきほど一騎は、客のことをよく見ているようなことを言っていたし、それは彼に限ったことではなくサービス業の者に共通していることだろうと思われるが――そんなに、わかるほどの表情を自分は出しているのだろうか。
「いつも必ず珈琲頼んでくれるだろ。他の常連さんも、そういう人が多いけど、総士はいつも真剣な顔して楽譜を読んでいるか、本を眺めているのに、珈琲の最初のひとくちを飲んだときだけ、すごくうまそうな笑顔になるから……。あの、べつに、観察していたわけじゃないんだ。たまたま目に入ってから、何度か様子うかがっても、いつも、そうだから……」
 そうだったのか、と、総士は思わず口元に手を添えて視線をそらした。自分の表情など、人前に出るとき以外はあまり気にしていないし、感情が表情に出ないと言われることのほうが多いから、全く気付いていなかった。なんとなく恥ずかしい。
 ここの珈琲は今まで飲んできたどれよりも総士の口に合っていて、最初のひとくちを飲むときにただよう香りが、とてもこころを落ち着かせるのだ。だから無意識のうちに、ゆるんだ顔をしていたのだろう。
「いつも俺が盗み見ているみたいで申し訳なかったから、話す機会があったら、言っておこうって思って……」
「……それで僕が無闇に意識をして無表情になったら、とは考えなかったのか?」
「えっ」
 考えていなかったと、あまりに一騎がショックを受けたような顔をするので、おかしくなって総士は笑ってしまった。
「冗談だ。それに僕も、実のところ、一方的に名前を見てしまっていたから、なんとなく申し訳ないきもちでいた」
 あそこで、と、件の「食品衛生責任者」のプレートを指させば、あ、と、一騎が目をまたたかせてから苦笑する。
「なんだ、おあいこだな」
「そうだ。……ああ……、ちょうど、いま、ほら、流れている」
 おだやかな空気が互いのあいだに流れたそのうしろで、聴き覚えのあるメロディがしずかに奏でられていた。未だに窓をたたく雨音に混じるように、静謐で深くやわらかな音がひびく。バッハの無伴奏チェロ組曲第一番だ。低音は重厚で、高音は軽やかに、木々のあいまから落ちる陽のひかりのようにこぼれる音色。奏者は分からないが、好きな音だ。この店に通っているうちに何度も耳にしている。
 一騎は、耳を澄ませて音を聴いていた。曲としては有名なものだし、明るくて耳馴染みしやすいメロディだと思うが、好き嫌いというものはある。総士の奏でる音にしても、一定の評価を受けたとは言え、好む人もいれば、酷評する人ももちろんいた。かつての名演奏者であってもそれは同じだ。音楽に正解はない。
 曲が終わりを告げたところで、一騎はすこしむつかしい顔をして、うーんと唸ったあと、口を開く。
「……俺たぶん、これをずっと黙って聴いていたら、寝ると思う」
 ふは、と、総士は思わずふきだした。あまりに素直すぎる感想だ。しかし一騎は「つまらないからとかじゃなくて」と慌てて否定するように手を振った。
「なんだろう……、安心する、音だな……と……」
 子守歌っぽいのかなぁと、自分の感じたことを言葉でなんとか表現しようとする一騎に、総士はうなずく。
「ヴァイオリンやチェロは人の声に似ていると言われている。子守歌に聴こえるという感覚は僕にもわかる。僕はそういう……そうだな、安心するような、深くおだやかな、包みこむような音が好きなんだ」
「だから、チェロを弾くようになったのか?」
 一騎にたずねられて、総士は、ああそうだった、と、自分のむねのうちへ転がり落ちてくる感覚を受け止める。
 ――そうだ。ひとえに、きっと、それだけだった。
 いや、今でもそうだ。手放せなかったのは、どれだけやめようと思っても手放せず、ここにいるのは、それだけの理由だ。
 頷くと、一騎が「そういうの、いいなぁ」とつぶやいた。どこか遠くを見るように榛の瞳が細められる。どういう、意味だろうか。問うこともできずに、少しのあいだ、沈黙が落ちた。
しかし、それをなかったことにするかのように一騎がぱっと顔を上げ、「今度聴きに行きたいな」と何事もなかったかのようにほほえむ。一瞬翳った表情がどうにも気にかかったが、踏み込むような間柄でもないと、総士も沈黙の時間をなかったことにした。
「……楽団の定期演奏会のチケットなら、遠見にもらえるのだろう?」
「オーケストラだと、俺たぶん、チェロがどれ、ってわからないし……他の楽団員の人って、個人でとか、グループでとか、いろいろやってるよな? お前はしないのか?」
「僕は……、しばらく、そういうことを、するつもりがない」
 楽団のなかでも未だ、ある程度の隔たりをみずから作り出してしまっている状態であったし、ソロやアンサンブルで演奏するというきもちにはまだ当分、なれそうにもない。視線を落とした総士に一騎は特に踏み込むことはなく、「そっか」とだけ言った。
「――雨、やんだみたいだな」
「あ……」
 一騎の声にぱっと窓の外を見やれば、雲間からわずかに太陽のひかりが零れはじめていた。見計らったかのようにカラン、とドアベルの音がして、すごい雨だったなぁ、とつぶやきながら、店内で何度か見かけたことのある常連が入ってくる。
「いらっしゃい!……じゃあ、またな」
「あ、ああ……」
 席を立って客の元へ向かう一騎を目で追いながら、珈琲に添えられたクッキーを口に入れる。ほのかに甘い、やさしい味がする。頬がすこしゆるんだ。常連客の注文を受ける一騎の声を聴きながら珈琲をふくみ、満たされた心地でふと息を吐いてから、ほんのすこしだけ、惜しい気持ちになる。
 ――雨がやまなければ、もうすこし話ができただろうか。
 ふと、よぎったおもいに、総士は自分自身で驚いた。他人との会話は苦手なはずなのに、自分は、彼と話すことを楽しんでいたのか。いつもより饒舌になってしまった気はするが、そういえばそもそも――こんなふうに誰かと他愛もない話をするのは、いったい、いつぶりだったのだろうか。
 ほほえみを称えたまま厨房で珈琲を淹れはじめた一騎の横顔を、総士は無意識に、見つめていた。

        *

「皆城くん、一騎くんと仲良くなったんだね」
「は?」
 リハーサルを無事に終え、少し遅くなったが昼食でもとりにいこう、などと考えながら楽屋裏の廊下に出たところで、ばったり会った真矢に、笑顔で声をかけられた。
 ホール内はしっかりと空調が効いていて今の季節を忘れてしまいそうだが、窓の向こうには燦々と照りつける日差しと、大合唱をしている蝉の声があふれている。日本の夏はあまりにも久しぶりで、慣れないからだは、昼間の屋外になど出て行きたくはないと訴えている。一方で、演奏で疲れたからだが、うまい珈琲と食事を求めていた。珈琲じゃ水分補給にはならないぞ、と、最近あたりまえのように話しかけてくる喫茶店の店長を思い起こしたうえで、真矢の言葉を改めて頭のなかで整理する。
「……仲良く……?」
 整理した結果、どうしてそんなふうに言われるのかが分からずに首をかしげてしまう。真矢と件の喫茶店の店長こと、真壁一騎がおさななじみであり、仲が良く、頻繁に会話をしているのであろうことは察せられるが、どこでどうなって、一騎と総士の仲が良くなったという話題になったのだろうか。
「お店のBGMを私が選んでるって一騎くんに聞いたんでしょう? 最近ね、チェロの曲がいいって言われるの。皆城くんに一曲だけ教えてもらってから、それが流れるとつい聴いちゃうんだって」
 ――そんなこと、僕には一言も言っていないのに。
 ついそう思ってしまって、総士はなんとも言えない顔をした。
 総士と一騎が、雨に閉じ込められてしまったようなあの日から、一か月以上が経っている。その間もほとんど毎日のように総士は喫茶店へ通っていて、一騎とのあいだの会話はずいぶんと増えた。客が少ない時間帯には一騎が休憩がてら総士のそばに座って、試しに仕入れた豆で淹れた珈琲をふたりで飲んで感想を言いあったり、総士が店内のBGMで流れている曲についてつい語ってしまったりしている。楽団のなかでは人と距離を置いているぶん、あくまでも部外者である一騎には気兼ねをする必要がなかったし、総士のどんな言葉にも一騎が笑顔で応えてくれるのは心地よく、人付き合いの得意ではない総士にしては珍しく、ずいぶん早く距離が縮まっているように思う。
 一騎も、あまり大勢と付き合って騒ぐようなタイプではないようだった。調理の手際は見事で客捌きもうまいが、おだやかな声音とおなじように、元来はおっとりした性格なのだろう。総士が、しずかな場所がすきなのだと言ったら、一騎も「俺も」と言っていた。だから、この店がすきなのだと。僕もそうだと言ったら、そうか、よかった、とこどものような笑顔を見せるので、彼には裏表なんてものはないのだろうな、と感じる。だからこそ、安心して総士も話をしてしまうのだ。
 そうやって思い起こしてみれば、「仲良くなった」というのは決して外れていない。いないけれども、いざ他者からそう言葉にされるとなんとも面映ゆいものがある。
「一騎くん、今まで私が楽団の話をしても上の空だったのに、ちょっと興味が出てきたみたい。皆城くん、すごいなぁって思って。でも、皆城くんも最近ちょっと、雰囲気が変わってきたから、お互い様なのかな」
「……」
 自分ではあまり自覚がないが、観察眼の優れた真矢に言われると、確かに少しずつ自分のこころが、ほぐれてきているような気がする。
 楽団に入りたてのころは幾分か音もかたく、演奏技術が求められるレベルに十分達してはいても、表現の面ではまだ不十分だという指摘はよく受けていた。カルテットを辞めたころから続いている一種のスランプのようなものから未だに抜けることができていないのだ。しかし最近は、以前のような感覚を、すこしずつ、取り戻すことができているような気がする。誰かと音を合わせることをおそれるこころが、ほんのすこしずつ――確かに変わってきているような気がする。
「来週から地方公演だけど、皆城くんは遠征するの初めてでしょう? 一騎くんのご飯、恋しくなっちゃうかもしれないね」
「……そうだろうか」
「そうだよ。私なんか帰ってくるとすぐ食べに行っちゃう」
 入団してから数ヶ月は近隣での演奏会がほとんどだったが、来週からは立て続けに地方での公演が詰まっている。合間に帰ることはあるだろうが、のんびり喫茶店に寄っている暇はないだろう。そもそも一年に百近い公演をこなしている忙しい楽団なのだ。真矢もこうしてのんびり話をしているが、ステージマネージャーの彼女は裏方のなかでもかなり多忙なスケジュールをこなしているはずだった。
「君には、世話になるな。ありがとう」
 コンサートひとつひとつをこなすだけでも大変だろうに、総士を含めた団員のことを気にかけてくれることに対して礼を言いたくなっただけだったのだが、真矢は驚いたように目を開き、わぁ、と、感嘆の声を漏らす。
「皆城くんに、そんな風に言われるなんて、思ってなかった」
「……僕はそんなに冷淡な人間に見えているのか」
「そうじゃないよ、そうじゃないけど……」
 慌てたように手を振って、真矢は「うれしいんだよ」と目を細めた。


「そういうわけで、しばらく来られない」
 と、口に出してしまったあとで、なにも言う必要はなかったのではないだろうか、と総士ははっとした。
地方公演のために出発する前日、夕方になっても、まだ明るい日差しの差しこんでくる喫茶楽園の窓際には、二杯目の珈琲が置かれている。そろそろ帰宅時間に合わせて持ち帰りのカレーや定食を求めて常連の会社員たちがやってくる時間帯だ。
 一騎は総士の言葉に「そっか……」と残念そうな顔をした。どうやら総士の発言は馴れ馴れしいものとは受け取られなかったらしい。よかった、と、安堵した後で、置いてきぼりをくらう犬のような表情をしたままの一騎になんだか申し訳なくなる。犬のような耳があったらぱたりと元気なく伏せられて、尻尾もしおれていそうなようすだ。あくまでも店主と客という関係性ではあるが、少なからず彼も、総士が来て話をするのを楽しんでいてくれたのだろう。そう思うとなんだかむずむずとして恥ずかしいような気持ちがしたけれど、悪い気分ではない。
「僕が来ないのは寂しいか?」
「ああ」
 即答だ。冗談のつもりで言ったので、少々面食らう。一騎のあまりにしょんぼりとしたようすに、なんだか総士のほうまで、落ち着かなくなってきた。行きつけの店に二週間ほど来られないというだけの、はずなのだが。いや、店に来る来ないという話ではなくて、一騎に会えない、ということが、落ち着かないのだろうか――。
 一騎は拗ねたような顔をして、「他にも常連さんはたくさんいるけど……」とつぶやく。
「でも、総士みたいに話せるひとって、そんなにいないし……」
 常連のなかでも特別だと言われているような気がして、総士はすこしだけ、優越感を覚える自分を自覚し、おどろいた。うれしいのだが、うしろめたい。誤魔化すように咳払いをする。
「……来られないと言っても、二週間程度だ。そんなに長いわけじゃない」
「まぁ……うん……」
 ――よく考えてみると、この会話、おかしくないだろうか。
 本当に店主と客のする会話だろうか。
 そう、総士が疑問に思いはじめたあたりで、一騎がぱっと顔を上げた。
「こっち帰って来たら、また寄ってくれよ。いろいろ豆も仕入れておくし」
「わかった、楽しみにしている」
 ふにゃりと笑顔になった一騎に総士もつい頬をゆるめ、早く帰って来たいものだと、久しぶりに、そんな気持ちを覚えた。

      *

 地方公演は、順調に進んだ。
 国内では名の知れている楽団だから、各地の客の入りは悪くない。演奏のクオリティも問題なく、このままいけば、何事もなく予定通りにスケジュールをこなして帰れそうだと、総士は安堵していた。度重なる移動で疲れはあるものの、海外での移動距離に比べれば大したものではなかったし、夏の暑さや湿気にも慣れつつあったので、体調も悪くなかった。
 ――しかし、そろそろ、楽園の食事と珈琲がほしい……。
 折り返しにさしかかった公演後の楽屋で着替えながら、総士は、はぁ、とひとつため息をこぼす。真矢が「恋しくなっちゃうかもしれないね」と言っていたが、その通りだ。せめて一騎に頼み込んで挽いた豆を分けてもらえばよかった。そうすれば自分で淹れて、珈琲だけは真似することくらいはできたろうに。だが、結局それでも、一騎の淹れたものと味は変わってしまうのだし、納得はできなかっただろう。同じように淹れようとしても、湯の量や蒸らす時間をまったく同じにはできないし、あの空間で飲むからこそ味わえるものもある。
 帰ったら真っ先に楽園に行こうと改めて決意しながら、チェロを抱えて楽屋を出る。
 今日はここで一泊することになっているから、楽団員たちは着替えや片づけをすませて食事に行こうとか、少し観光しようとか、のんびりとした雰囲気で各々に会場を出て行く。総士にも声はかかったが、疲れているから、と、いつものように断った。さして気にせずに「わかった」と言ってくれる楽団員の態度はありがたいが、そろそろ、すこしくらい関わりを持ってもいいのではないか、と、思いはじめている。
 このなかで奏でるのは気分が良いし、団員たちの人柄も好ましい。必要最低限の言葉を交わすばかりではなく、一騎のようにはいかないにしても、お互いのおもいを話し合えるくらいには――。


「――あの、皆城総士さんですよね?」


 夏の長い陽も山のむこうへ沈みかけ、まばゆいばかりの空が紫にしずんでいく景色を視界に入れてひとつ息を吐いた、そのうしろで、声が響く。
 振り返れば、今日の公演のパンフレットを手にした男性が立っている。
 ――本能的に、嫌な予感がした。
 しかしその場から立ち去ることもできず、「そうですが……」と答えるしかない。団員たちはすでにほとんどが解散していて、近くには誰の姿もなかった。まだ鳴きやまないでいる蝉の声が遠く聞こえるだけだ。
「あの、俺、あなたの――カルテットのファンで……」
 空調の効いた屋内から外に出たことで肌のうえにじとりと滲んだ汗が、冷えていくような心地がした。
 久々だった。あまりにも久しぶりで――何も口から出てこない。
 そして、わかっていた。
 彼の口から出てくるだろう、次の言葉が。


「どうして、やめてしまったんですか。どうして――あなたは、ここにいるんですか」