第三章

 ――あんなに行きたいと思っていたのに、足取りが、重い。

 九月に入ったというのに日差しは衰えることを知らず、コンクリートに反射している。からだじゅうにまとわりつくような熱は頭のなかを掻きまぜて溶かしてしまうようで、思考がままならない。すこし歩くだけで汗がにじみ、息をするのさえ苦しかった。
 腕に抱えた楽譜は次の公演のものだったが、このままだと君を参加させるのはむつかしい、と、渋い顔で言われながら渡された。
 一週間前に終わった地方公演の、その後半。総士の演奏は技術的には問題がなかったものの、表現の面ではお世辞にも良いと言えるものではなかった。我ながら、こんなにひどい演奏はいつぶりだろうかと打ちのめされたものだ。何かあったのかとパートのメンバーにも真矢にも問われたが、うまく答えることはできなかった。
 自分でも、よくわからないのだ。あの日、公演後、かつてのカルテットのファンだったという男性に呼びとめられてから、一度は落ち着いたと思っていた感情があふれだして、総士のこころを覆ってしまったような、そんな感覚。大したことではなかったはずなのに。カルテットを辞めたときと同じように、僕のせいです、それ以上の理由はありませんと、そう言って振り切ってしまえばよかったはずなのに。
 自分の感情を理解できないもどかしさと悔しさで悩んでいたせいで、帰って来たら寄ると約束していた楽園にも、なかなか行く気になれずにいた。けれど、今日の帰り際、「一騎くん、心配してたよ」と真矢に言われて、せめて珈琲一杯だけでも飲みに行こうと、やっと重い腰を上げたのだった。
 ――しかし、こんな気分で、一騎の淹れた珈琲を飲みたくない。
 まばゆい日差しのなか、ぽつんと路地に建つ変わらない喫茶楽園の姿を視界にいれて、総士は足を止めた。たかだか三週間行かなかっただけなのに、妙に懐かしくなって、胸が詰まる。思えば日本に戻ってきてからというもの、特定の誰かと会話をし、あたたかい食事をとることが当たり前になったのはここが初めてで、――ここだけだった。
 一騎にこんな気分で会ってどういう顔をすればいいのかわからない。けれど、久しぶりにあの声が聞きたい。相反する思いを煮詰めたまま、金色のドアノブに手をかけて押せば、カラン、と、変わらないベルの音が鳴った。
「いらっしゃ……、あっ、総士!」
 カウンターから顔をのぞかせた一騎は、ぱぁっと笑顔で声を上げた。自分と変わらぬ歳だというのに、こどものように屈託ない笑顔に、それまで全身に重くのしかかっていたものが、ふっと消えるような心地がした。同時に、からだから力が抜ける。
 がたん、と、床になにかが倒れる音がした。
 それが自分の立てた音だと認識するより先に、慌てたような一騎の声が、すぐそばで聞こえる。頭がぐるぐるとまわって、からだが熱い。屋内に入ったはずなのに、煮えたぎった日差しのなかにまださらされているような、感覚。そう思っているうちに、今度は、ぞくぞくと寒気がおそってくる。頭が痛い。きもちがわるい。目を開けていられない。
「総士っ、お前、聞こえてるか?!」
「き……、」
 聞こえていると言いたいのに、声にならない。抱き起された誰かの腕にきつく縋って、そのまま、なにもわからなくなった。


        *


 ――音だけで、全部がわかるわけないじゃない。
 ――理解した気になっていたのは、お前だけだ。

 総士は、暗闇のなかにいた。
 まだ、忘れられるほど遠くはない過去に告げられた言葉が反響している。
 信頼していた仲間たちはひどく苦しそうな顔をしていて、彼らの言葉が決して総士を傷つけようと思って発せられたものではないのだとわかった。みな、どうしてよいのかわからなくて、苦しんで、悩んでいたのだ。それに気づくことができなかったのは、総士の責任だった。今でもそう思っている。

 三年間、互いを尊重し合い、時に議論しながら、総士たちのチェロ・カルテットは順風満帆に活動していた。一応、総士がリーダーという形ではあったが、各々に実力のあるメンバーだったし、総士はその場を盛り上げるような話は得意ではなかったから、広報的な面では他のメンバーが表に立ってくれることも多かった。
 ひとを楽しませる音楽をつくりたい。もっとクラシックを、チェロのことを知ってもらいたい。それぞれが個人で目指すものは違ったけれど、そのおもいは同じだった。このままずっと、やっていけるのだと、思っていた。
 しかし、活動をはじめて三年目のあるとき、ひとりが、弾くのがつらいと零して、ふっと行方をくらませた。
 当時みなウィーンに拠点を持っていたが、彼はプラハの出身だった。故郷に帰ったのではないかと、その時ちょうどスケジュールに空きがあった総士以外のふたりが探しに行き、彼を見つけてくれた。ふたりの説得で戻ってきた彼はひどく沈んでいたけれど、彼がなによりチェロを弾くことを愛しているのだと知っていたから、敢えて総士は四人での練習を組んだ。そのかわり、直近の公演はキャンセルして、彼が音を取り戻すまで待とうと思っていた。
 君の音が必要だと、君の音はすばらしいものなのだと、みんなで今までのように奏でていれば、きっとわかってもらえると思っていた。
 ――けれど。

「お前が何を考えているのか、わからない」

 僕はこんなに苦しいのに、つらいのに、どうして、こんなふうに弾かせるのだと、彼は泣きながら訴えた。
 ――そんなつもりでは、なかった。
 そんなつもりではなかったのに。
 どうして言葉にできないんだと、言われた。
 確かに、音を聴けば、あわせれば、わかるものもある。国がちがっても、言語がちがっても、音楽は共通だ。話ができなくても笑顔になれることもある。けれど、それだけではわからないことだって、当然ある。
「あなたは音に頼り過ぎているのよ。言わなきゃわからないことだってあるわ」
 それが彼を、苦しめたのだろうか。それが、音を奏でる楽しさを、彼らから奪ってしまったのだろうか。
 総士には、音楽しかなかった。チェロしかなかった。言葉や表情であらわせないことを、音で伝えるのが当たり前になっていた。それがしあわせなことで、喜びだった。けれど、総士にとって当たり前のことが、他者にとってもそうとは限らない。
 わかっていなかったのだ。
 わかっているようで、わかっていなかった。
 四人で演奏するのが楽しくて、しあわせで、そればかりで――本当に彼らと向き合うことができていなかった。
 そんな自分に、これ以上、他者のなかで音を奏でる資格はないのではないか?

 彼らと気まずいままカルテットは解散という話になり、総士は自分の音楽を見失ったまま、多くのものを捨てて、日本に帰った。


 ――どうして、あなたはここにいるんですか。


 ――どうして、だろう。
 どうしても、どうやっても、チェロを手放せなかったからだ。音楽を、人々のなかで音を奏でることを、諦めきれなかったからだ。誰かを傷つけて、悲しませても、それでも、まだ自分には、創ることのできるものがあると、信じたかったからだ。
 好きだからだ。音楽が、チェロが好きだから。
 好きであることを、赦されたかった。
 もしもそう答えていたら、彼は、どんな顔で僕を見ただろう――。




「――だけど、……――するのは……」
「俺が――……」

 遠く、かすかに、ひとの声がする。
 身じろぐと、鈍い痛みが頭にはしった。ぼんやりと、ゆっくり瞼を押し上げると、蛍光灯のあかりがまぶしく差しこんでくる。ぱちぱちと何度か瞬きをくりかえして、視界にクリーム色の天井と銀のレール、そこから吊り下がっている薄い黄色のカーテンが映った。
 ――どこだろう。
 見覚えがない。頭がうまく働かなくて、それ以上のことを、考えられない。そのままぼんやりと天井を見上げたままでいると、足音が近づいてきて、控えめな音を立ててカーテンが開く。
「あ……、目が覚めたのか、総士」
「…………」
 ゆっくり顔を横に向けると、ぼやけた視界に、不安そうな人の顔が映る。短い黒髪、榛の瞳、そしてなにより、耳に心地よいやわらかな声――一騎だ。
「か……、ず、き」
「うん。わかるんだな? 見えてるな?」
 緩慢な動作で頷けば、よかった、と、一騎が目を細めた。その顔を見て、総士も安堵する。ふわふわと心もとなかった自分の輪郭が戻ってきて、大きく息を吐けば、あたりを見回すだけの余裕が出てくる。
 総士はどうやらベッドに寝かされているようだった。左腕から伸びている細いチューブは点滴だろう。つまりここはどこかしらの病院だ。あまり記憶がないが、喫茶店に入って、一騎の顔を見たとたんに力が抜けて、倒れ込んだのだ。そうだ――一騎がここにいるということは、店は、どうしたのだろう。
「おまえ……、店は……」
「真っ先にそれを訊くのか?」
 どうして自分のことじゃないんだよと、一騎が困ったような顔をして、ベッドの脇に置いてある椅子に腰かけた。
「店は閉店。片付けだけバイトの子に任せてきた。先週から入った子だけど、結構頼りになるんだ。……それよりお前、自分が熱中症で倒れたの、わかってるか?」
「ねっちゅうしょう……」
 夏の暑いときに水分や塩分をとらないでいるとなる、あれか。水分と塩分……と考えて、思い当たる節がありすぎて、総士は口を噤む。
「脱水だけじゃなくて、栄養不足に睡眠不足もあるんじゃないかって。お前、地方から帰って来て、ここ一週間、ちゃんと飯、食べてたのか?」
 そういえば、最後に食べたのがいつだったのか、思い出せない。この一週間どこか心ここにあらずで、寝食を意識していなかった気がする。楽団の事務所に顔を出す以外はずっと防音室にこもってチェロを弾いていた。時間の感覚もあいまいだった。
 はっきりとそう口にはしなかったものの、気まずげに黙り込んだ総士を見ておおかた察したのだろう。一騎は眉をハの字に下げて、「どうして、うちに来てくれなかったんだ」とちいさく零した。総士が目を瞬かせるのと同時に、はっとしたらしい一騎は「ごめん」と首を横に振る。
「それより、今、気分どうだ? 気持ち悪くないか?」
「きもちわるくは……ない……、すこし、頭が痛い、くらいで……」
「そうか……でも、やっぱりつらそうだな。点滴終わったら、帰っても大丈夫だって言われてるんだけど……」
「お、起きたのかー?」
 シャッ、とカーテンの引かれる音がして、一騎の背後から白衣の男性が現れた。一騎が視線を向けて、剣司、と、つぶやく。おそらくここの医師なのだろうが、一騎が名前で呼ぶということは、知り合いなのだろうか。
「点滴もう終わりそうだな。どうだ、起き上がれるか?」
「あ……、ええ……」
 よかったよかった、と、剣司と呼ばれた医師は人好きのする笑顔を浮かべて言う。老若男女問わず好かれそうな、柔和で明るい雰囲気がある。
「でもまぁ、安静にな。あとちゃんと飯食って、寝てくれ。暑さだけが原因じゃないぞ。自分のからだは大事にな」
「はい……」
 親に諭されているようなきもちになって頷く。すると彼は、一騎のほうへ視線を向けて、「じゃあ後はよろしくな」と言って去って行った。後、とは、なんだろう。首をかしげていると、看護師がやってきて、終わった点滴を外して処置をしてくれる。もういいですよ、と言われて、ベッドから降りようと足をついたところで、ぐらりとからだが傾いだ。それを受け止めてくれたのは、一騎だった。
「慌てなくていいから、ゆっくりな。家まで送って行く」
「そ……、それは、申し訳ない。ひとりで、帰れる」
「こんなにふらついてるのに?」
「…………」
 うぐ、と、総士は黙り込むしかなかった。もう気持ち悪さはないけれども、足元がふわふわと覚束ないのは確かだったし、まだうまく頭も働いていない。何よりひどく疲れていて、からだが怠い。タクシーを拾うにしても、降りてからきちんと精算をして自分ひとりでマンションの部屋まで辿りつけるかは、怪しい。
 ちらりと一騎を見上げると、真剣なまなざしがそこにある。本当に心配してくれているのだろう。大丈夫だと、その手を振り払うだけの気力も、理由も、総士にはなかった。


 病院の窓口で支払いを済ませようとして、初めて病院名を見た総士は、おや、と首を傾げた。『遠見医院』と書かれているその名は、そうそうあふれている苗字でもないだろう。総士の知っている遠見の名を持つ姉妹と何らか関係があると見るほうが納得できる。
「……まさかとは思うが、ここは遠見と関係があるのか……?」
 まだふらついている総士を心配して隣に立っている一騎に問えば、「遠見のお母さんの病院だよ」とあっさり答えが返ってきた。ホールからも楽園からもそう遠くない立地だ。納得はいく。なんとなく、彼女には世話になってばかりな気がして申し訳なくなってきた。次に彼女に会うときには、何がしかお礼を持って行かなければならない。一騎に総士のことを伝えてくれていたのも、彼女だったのだから。
 そう思いながら支払いを済ませ、タクシーを呼んで待っていると、先ほどの剣司と呼ばれていた医師が顔を出して、一騎を手招きする。そういえば、知り合いなのかと、たずね損ねている。
 そう離れた距離ではなかったから、意識していなくても、ふたりの会話がすこしだけ漏れ聞こえてきた。盗み聞くつもりはなかったが、もしや自分のことだろうか、と思い、そのまま耳をそばだてる。しかし、聞こえた内容は、総士に関するものではない。
「――喉の調子、悪くないんだな」
「うん、問題ないよ」
「そっか……。こないだの検査の結果も良かったみたいだし、安心した」
「いつもありがとうな、剣司」

 ……喉?

 ――聞いては、いけないこと、だったかもしれない。
 総士は後悔して、視線を床に落とした。会話はそこで終わったらしく、じゃあな、と言いあって一騎が総士のそばへ戻ってきた。
「総士、タクシー来たみたいだから、行こう」
「あ……、ああ……」
 玄関の外を見れば、いつの間にかタクシーが停まっている。手を引かれてよろよろと立ち上がると、肩に腕を回すように言われた。少々ためらわれたが、他によい方法もないだろう。おとなしく腕を回せば、一騎がしっかりと腰を支えて歩き出した。


 総士の生家は、現在住んでいる街から少し離れている。通えないことはなかったが、広い家は手入れも大変なので、楽団への入団が決まったとき、ホールに徒歩で通える距離のマンションを借りていた。周辺には音大もあるためか、防音室が設えてあるマンションはいくらかあって、入居者数の少ない四階建ての、最上階を選んだ。角部屋だから日当たりも良いし、エレベーターもあるので楽器を持ち運ぶのにも、ふだんは困らない。
 タクシーを降りて、一騎に支えられながら部屋の前までたどり着いた総士は、鍵を開けて部屋の中に入るなり、ずるずると前のめりに倒れこんで床に手をついた。慌てた一騎が腕を差し伸べてくれたおかげで冷たい床に顔を打ち付けることはなかったが、どうにも立ち上がれそうにない。家に帰ったことで、気が抜けてしまったのだろうか。どっと押し寄せてくる怠さと眠気に、大きく息を吐いてやり過ごそうとするが、どうにもうまくいかない。一騎の腕に縋るようになってしまうのが申し訳なくて、大丈夫だ、もう置いておいてくれと言おうと見上げると、硬い口調で問われる。
「総士、寝室は?」
「……? 奥の……右の……」
 どうしてそんなことを尋ねられるのだろうと思いつつ答えると、総士を支えていた一騎のからだが動いた。
「わかった。ごめんな、ちょっと上がるぞ」
「は……、ぅ、わっ」
 一瞬、何が起きたのかわからなかった。視界がおおきく動いて、床だけをとらえていた目に、いつもと変わらない部屋のようすが映る。からだが浮遊しているような感覚があって、状況を把握できずに目を白黒させているあいだに、景色は寝室のものに変わった。カーテンが閉め切られた寝室は昼間だというのに暗く、じとりと熱がこもっている。そういえば、昨夜は寝室で眠らなかったのだ。だからカーテンも引きっぱなしだし、いつも強めにかけているエアコンの冷気もとっくに消えてしまっている。どんなに思考が散漫で時間の感覚がなくなっていても、楽器のある部屋の温度と湿度は無意識に調節しているというのに、寝室には自分しかいないのだからと、おざなりになっていた。
 ゆっくりと、ていねいに、やわらかなベッドのうえに下ろされてやっと、総士は一騎に抱えられていたのだということを認識する。何かを口にするより先に掛布団が捲られて、シーツの上に横たえられる。
「か……、」
「とりあえず、寝ないとだめだ。あと……総士が嫌じゃなければ、台所借りてもいいか? 何か作るよ」
「そこまで、お前にしてもらう、わけにはいかない」
「俺がいないほうがいいか?」
 それでちゃんと休んでくれるのなら、そうすると、一騎が言う。一瞬、総士はためらった。そのほうがいい、帰ってくれと、即答すればよかったのに、どうしてか一騎がこの場からいなくなってしまうと思うと、言葉が出てこない。迷うように口を噤んだ総士に、一騎は困ったように眉を下げた。
「こういうとき、一人になりたい気持ちもわかるから、総士が思うとおりにするよ」
「……僕は……」
 ひとりに、なりたい、のだろうか。
 ――いや、ずっとひとりだった。
 ここ三週間近くずっと、じゅうぶんなほど、ひとりだった。だから。
「……お前の、つくるものが、食べたい」
 自分でも意識しないうちに零れたかすかな声に一騎は目を瞬かせ、うん、わかった、と、うれしそうに目を細めた。


        *


 かすかに、やわらかなメロディが聴こえた。
 聞き覚えのあるやさしい声が、音を紡いでいる。低く落ち着いていて、柔和ですこし甘さのある声音。総士のすきなチェロに似た、深く包みこむようなそれは、耳に心地がよく、心をおだやかに撫でてゆく。
細く長く息を吐くと、からだじゅうのこわばりが解けて、あたたかな懐へ抱きとめられるような心地がした。


   アンドロメダの くもは
   さかなのくちの かたち
   大ぐまのあしを きたに
   五つのばした ところ――   


 ――ああ、星めぐりの歌だ。
 何度も、弾いたことのある曲だ。宮沢賢治の、星めぐりの歌。多種多様な編曲がなされているし、宮沢自身がチェロを学んでいたからか、チェロで弾かれることも多い。総士もチェロの独奏で何度も弾いたし、それこそ――かつてのカルテットでも、日本公演があればよくアンコール用に選曲していた。総士自身とても好きな曲だから、ひとりで閉じこもっていたときも、今も、気づけば弾いていることがある。
 やさしい歌声は、ゆったりと詞ことばを紡いでいる。
 深い空をめぐる星のまたたき、宵闇の静けさ、澄んだ空気が肺を満たす――おだやかな夜の情景が、包みこむように総士のまわりにあった。
 誰かと音を合わせ、ぴたりとピースがはまるように波長が合ったときと同じような心地よさに、ああ、弾きたいな、と、思った。
 弾きたい。チェロを弾きたい。この声に合わせたら、どんなに、きもちがいいだろう。こんなふうに思うのは久しぶりだ。
「……ぁ……」
 ふわりと、意識が浮上して、かすれた声が出た。視界には見慣れた天井がぼんやりと映って、橙色のひかりに照らされているのがわかる。そうだ、眠っていたのだ。のろのろと手を額にやると、濡らされたタオルが乗っていて、まだひんやりとしている。暑かった部屋は適度に涼しくなっていて、紺色のカーテンが開かれた窓からは、沈みかけた西日がさしこんでいた。
 まどろみのなかで聴こえていた歌は、半分ほど開けられたドアの向こう側から、未だ聴こえてくる。
 総士はゆっくり、身を起こした。倒れてから、一騎に病院に運んでもらって、おまけに家まで付き添ってもらった挙句、お前の作ったものを食べたい、などとわがままを言ってしまったことが一気によみがえり、じわじわと羞恥におそわれる。
 頭がぼんやりとしているから、やっぱりなしだ、すまなかった、もう二度と手を煩わせない、と、部屋を飛び出して行く気力などはなく、頭に乗せられていた冷たいタオルを顔に押し当てるだけにとどめる。
 ――冷たいということは、定期的に、替えにきてくれて、いたのだろうか。
 眠気に耐え切れずにベッドに沈んでしまう前に、タオルはどこにあるのか、冷蔵庫のなかを見てもいいか、というようなことを訊かれたような気がする。
 ドアの向こうからは歌だけではなく、何かを刻む包丁の音がして、ふんわりと良いにおいも流れてくる。――これは、おそらく、出汁のにおいだ。総士は自炊を全くしないわけではないので、ある程度の調理器具は揃っているはずだ。ただ、最近は家を空けていたし、ろくな食事もしていなかったから、冷蔵庫のなかはほとんど空っぽだったにちがいない。和食をつくるのは得意ではなく、出汁になるようなものが、果たして、あのキッチンに存在しただろうか。そういえば、米すらもなかったのではないだろうか。
 徐々に正常に働きだした思考回路は、まだ力の入らない総士のからだを置いてきぼりにして回転し始める。暫くそのままでいると、ふっと歌がやみ、ぱたぱたと足音がして、視線の先、ドアの向こうから一騎が顔を出した。総士が起き上がっているのに気づいて、あ、と、笑顔になる。
「おはよう、総士」
 ああ、いや、おはようっていうのはおかしいか、と一騎は苦笑しながら総士のそばまでやってきた。総士の額に手を当てて、あつくないか、いたくないか、と訊いてくるので、緩慢な動作で頷いた。他人にこんなふうに触れられるのは得意ではないはずなのだが、どうしてか一騎だと平気だった。それどころか、心地がよい。
「飯、食べられそうか? お粥つくったんだけど」
「……食べる……」
「わかった。えっと……、歩けるか? また抱えてやろうか?」
「……っ、大丈夫だ……」
 はっきりとしない意識のなかで抱えあげられた記憶が今さらながらよみがえって恥ずかしくなり、総士はぼそぼそと答えて、床に足をおろした。眠りにつく前よりも足取りはしっかりとしていて、一騎に支えられなくても、ゆっくりならば自力で歩くことができた。
 見慣れたダイニングテーブルにつけば、「少し待っててくれ」と一騎がキッチンで準備を始めた。その間に壁掛け時計を見やれば、夜の七時前だった。二、三時間は眠ってしまっていたらしい。
 ――それにしても。
 この家で、一騎がキッチンに立っているというのはなんとも不思議な光景だ。よく見れば、喫茶店で見慣れている黒いエプロンをしている。病院に付き添ってくれたとき、彼は自分の荷物を手にしていたから、そのなかにあったのだろうか。
「はい、お待たせ」
 総士の目の前に置かれたのは小さな土鍋だった。見覚えがない。こんなものは、この家にはないはずだ。
「まさか……買ってきたのか?」
「うん? ああ、土鍋のことか? それは家から取ってきたんだ。俺、楽園の二階に住んでるから、ここからすぐだし。食材は、冷蔵庫が空っぽだったから買いに行ったけど」
「す、すまない……」
「謝るのはなし、な。気にしないでくれ。俺がやりたくて、やったことだから」
「あ……、その……、ありがとう」
 謝罪のかわりに礼を言えば、うん、と、一騎が微笑んで頷く。そして、土鍋の横に、一騎が家で作り置きしているという漬物と梅干しが添えられた。
 土鍋でお粥を食べるなんて、いったい、いつぶりだろう。一騎が蓋を開けると、もわりと白い湯気があがり、食欲をくすぐる出汁のにおいが広がる。つやつやと白い米粒がぎっしりと詰まっていて、一口大の鶏肉が真ん中に乗っており、まわりには色鮮やかなねぎが散らされている。見た目は白と緑だけのシンプルなものだというのに、眩いばかりのそれに、ごくりと喉が鳴った。喫茶店で一騎のつくるカレーや定食は食べてきたけれど、それとは、すこしちがう。
 いただきます、と、手を合わせて、レンゲですくったお粥を口に含んだ。柔らかすぎず、粒のかたちが残る程度の米を噛み締めれば、ほんのりと甘さがひろがる。そのあとに、出汁と塩の絶妙な加減の塩分が追ってきて、身に染みる。おいしい。
 気づけば、おいしいということを口に出すのも忘れてお粥をすくっていた。鶏肉も良い塩梅にやわらかくなっていて、ほろほろと口のなかで溶けていく。倒れた後で、寝起きで、しばらくまともなものを食べていなかったはずなのに、総士のからだは拒むこともなくお粥を飲み込んでいった。
「もう少し、多めに作ったのがあるけど、食べるか?」
 総士のようすを見てこれでは足りないと思ったのか、一騎がほほえみながら別の土鍋を出して来た。ほくほくと湯気が立つのを見て、「少しだけ……」と総士が言うと、どっしりと追加を盛られる。少しだけだと言ったのに、と、思いつつ、気が付いたときにはすべてをしっかり平らげていた。
 腹が満たされて、からだがぽかぽかと温かい。ひとのぬくもりがする料理は、からだも心もほぐしていく。改めてそれを噛み締めながら、総士は大きく息を吐いた。
「――ありがとう。ほんとうに、おいしかった」
「どういたしまして。それだけおいしそうに食べてもらうと、作り甲斐があるよ。何より、食欲があってよかった」
 一騎が食器を下げるついでに総士の頭をぽんぽんとたたくので、思わずきょとんと見上げると、彼は「あっ」という顔をして手をひっこめた。
「ごめん……、つい……」
「……構わない。今日の僕は、手のかかるこどもと変わらないだろう」
 肩を竦めて言えば、一騎がむつかしい顔をして、下げかけた食器を横に置き、総士のことをじっと見つめてくる。いつも笑顔を浮かべ、溶ける蜜のように光を反射する榛の瞳が、今は深く真剣なまなざしで総士を射抜いていた。目が、逸らせない。
「……何があったのかは知らないけど、苦しんでいる自分を蔑ろにすることだけは、絶対にやっちゃだめだ、総士」
 え、と、言う間もなく、一騎の腕が総士の頭を引き寄せた。立ったままの一騎の腹に顔を埋めるような形になって、エプロンから出汁のにおいがふんわりと香ってきて無意識に力が抜ける。この状況はおかしいのではないか、と思うのに、抵抗ができない。
 一騎の腕は、力強くて熱かった。
「お前、ずっと泣きそうな顔してるのに、どうして泣かないんだよ」
 やわらかく甘いはずの声が、すこし、憤りをまとっている。
 ――そんな顔、していないはずだ。
 すぐに心のうちで否定して、けれど、どうしてか言葉にはならない。一騎の腕を引き剥がし、そんなことはない、離してくれと言えばいいのに、総士のからだはぴくりとも動かない。喉の奥が詰まる。何かがこみ上げてきそうで、ぐっと唇を引き結ぶけれど、口元が震えた。
「……て、ない……」
「なんだ?」
「そんな……、顔は、して……」
 していない、と、掠れた声が零れるのにあわせて、何かが頬をつたった。湿った感触に、目を瞠る。
 そんな、はずはない。
 そんなはずは。
 総士に傷つくような権利はなかったはずだ。悲しいのも苦しいのも自分の責任だった。奪い傷つけたのは、総士のほうだ。それなのに――。
 零れだしたものは、総士の意志に反してぽろぽろと止まらない。わずかに残った冷静な部分が、このままでは一騎のエプロンを濡らしてしまうと考えて、距離を取ろうとするけれど、一騎の腕の力は弱まるどころか強まるばかりで、よりいっそう顔を押し付けることになってしまった。しまいには、一騎の手がこどもにするように髪を撫でてくるものだから、居た堪れなくて、恥ずかしくて――それだというのに、心地よくてどうしようもない。
 嗚咽がこぼれるのを抑えようとするけれど、うまくいかなかった。泣くなんていったいいつぶりなのか、わからない。わからなくて、泣き方も、泣きやみ方も、わからなくなってしまった。
 幼いころから冷静で感情が表に出にくい子どもだった。そのぶん楽器を奏でてバランスを取っていたのだと思う。かなしいときも、うれしいときも、あなたはチェロなら何でも言えるのね、と、母親に言われたことがある。大人になったところでそれは変わらなかった。だから、言葉にできずに音に頼った。
 チェロを通すことなく互いのことを言葉で伝えあい、それが心地よいと思えたのは、本当に――一騎が初めてだったのだ。

 ひとしきり、目が腫れて、喉が渇いてからからになってしまうまで泣いて、ようやく一騎の腕がゆるんだ。目も頭もじんと熱くて腫れぼったい。ぼんやりと放心したようになった総士をひとつ撫でてから、一騎はキッチンに行き、冷たいタオルを持って帰ってきた。
「当てて」
 差し出されたそれを素直に受け取って、緩慢な動作で目元に押し付ける。きもちがいい。ほう、と息を吐くと、一騎は目を細めた。
「落ち着いたか?」
「……」
 こくり、と、頷くと、一騎は椅子を総士の前に持ってきて、向かい合わせになるように腰かけた。これは俺の話になるんだけど、と、すこし目を伏せてから、一騎は口を開く。
「むかし、俺がすごく苦しくて、つらかったときに、俺よりも周りのみんながつらそうだったから、俺が笑ってなきゃいけない、みんなが苦しいのは俺のせいなんだって、そう思っていたときがあったんだ。でも、ずっとそう考えていたら、苦しいのから抜け出せなくなって――、たぶん、笑ってても、ちゃんと、笑えていなかったんだと思う。そのとき、遠見が言ったんだ。なんで、泣きたいのに、泣かないの、って」
 ああ、彼女なら、そう言うだろうと総士は思った。他者の感情に敏い彼女なら、相手が何を我慢しているのか、きっとわかってしまっただろうから。
「――そう言われたら、すっと心が軽くなって、ぼろぼろ泣いてた。俺が苦しいってことを、俺自身が認めてもいいんだって。そうしないと、俺は俺にも、人にも、嘘をつき続けなきゃいけない。そのほうがずっと苦しいんだって。……総士の人生を俺は知らない。でも、俺の珈琲をすごくうまそうに飲んでくれることも、ひとの無知を決してわらったり貶したりしないことも、自分に厳しいことも、誠実なことも、音楽が、すごく、好きなことも知ってる。それだけじゃきっと、総士のことをわかるには足りない。だけど、総士のことをわかりたいと思うにも、苦しんでいるのを見過ごせないと思うにも、十分だった」
 一騎の瞳がまた、まっすぐに総士を見る。無理に覗き込もうとするのでもなく、暴こうとするのでもない。初めて話したときと同じ、相手に対して誠実であろうとするまなざし。
 こころが、一騎にむかって、ほどけていく。
 総士は泣き腫らしたあとの掠れた声で、ぽつりぽつりと、今までのことを話し出した。おさないころからのこと。カルテットのこと。楽団に入るきっかけ。そして、先日の公演後に言われたこと。
 一騎は何も口を挟まず、ただじっと静かに、ときどき相槌を打ちながら聞いていた。そうして話しきってしまうと、総士は自分のこころが、ずいぶんと軽くなっていることに気づく。思えば、カルテットを解散した理由を他人に話したのは初めてだった。家族にすらも打ち明けたことはなかったのに。
「総士はずっと、苦しかったんだな」
 苦しくて、それを自分ではゆるしてやれなくて、だからもっと、苦しかったんだな。そう一騎が言うものだから、総士はまた喉の奥からこみあげてくるものを堪えきれなかった。
 ずっとずっと、どこかで、だれかに、気づいてほしかったのかもしれない。傷つけてしまった苦しさを、本当はだいじにしたかったのに、ずっと笑っていたかったのに、どうしようもなく伝わらなかったおもいを抱え続ける苦しさを。ゆるされたかった。苦しいと思うことを、ゆるされたかった。
 無関係な一騎にすべてを吐露するのは卑怯かもしれないと、少なからず思っていた。けれど一騎は、総士の行いを「悪くない」とは言わない。当時の総士の言動の是非ではなく、ただ、総士が苦しいとおもっている、そのきもちを認めてよいと言ってくれる。
 せっかく冷やしたのに、また熱をもって赤くなる目じりを、一騎の指が撫でた。水仕事をする指先はかさついていて、すこし、ひんやりとしている。
 どうしてだろう。一騎に触れられるのは、嫌ではない。むしろ、安心する。無闇に踏み込むこともなく、けれど、突き放すこともなく、ただそこにいてくれるからだろうか。何かを強いるのでもない、諭すでもない。あたりまえのことを、あたりまえのように、言葉にしてくれるからだろうか。彼のつくるものがおいしいのも、特別な何かをしているからではなく、おいしいものが、ありのまま、おいしくなるように――ただそれだけ、考えられているからなのかもしれない。
 ぽろぽろと零れる涙をそのままに、一騎の指先の心地よさに目を伏せる。
 疲れきったからだが眠りに落ちるのに、そう時間はかからなかった。


        *


 総士のからだはなんて軽いんだろう、と、一騎は今日二度目の感想を抱いた。
 まだ日は長いと言っても、二十時を回れば窓の外には暗闇と、点々とひかる街のあかりが見えるばかりだ。
 泣きながら眠ってしまった総士のからだを抱き上げて、起こさないように、ゆっくりと寝室まで運ぶ。同い年で、総士のほうが背は高いし、華奢というわけでもなくしっかり男のからだをしているのに、体重は一騎のほうがありそうだ。ここ一週間――いや、総士がこうなってしまうきっかけが公演の折り返しだったというのなら、二週間以上はまともに食事も睡眠も取っていなかったのだろう。もともと線が細いと思っていたけれど、それだけ食べなかったら痩せてしまって当たり前だ。
 総士は見た目の細さに反してよく食べる。喫茶店でのようすしか知らないが、カレーはときどき大盛を頼むし、定食のときもご飯は多めで注文していた。食べっぷりも悪くない。珈琲だけではなく、そうして食事をほんとうにうまそうに、満足そうにしてくれるから、一騎は総士がいつも、木漏れ日のおちる窓際の席――厨房で調理をしながらいちばんよく視界に入るあの席に腰かけるたび、今日も来てくれた、と、うれしくなっていたのだった。
 今日、総士がいつものように、久しぶりにドアを開けてやってきたとき、一騎は心からうれしくて飛び跳ねそうだった。けれど、三週間以上前に別れたときとはちがい、痩せて青白い顔を見た瞬間に、どうして、と、思った。
 地方公演は一週間前に終わっていたはずだった。真矢はすぐに来てくれて、「皆城くん、ちょっと、変なの。だから、お店には顔を出さないかも」と教えてくれてはいた。それでも、心配だった。何があったんだろう。どうして顔を見せてくれないんだろう。ちゃんと、ご飯は食べているんだろうか。
 総士だって、自立した、成人だ。一騎があれやこれやと気を揉まずとも、自分自身の生活は成り立たせられる。そもそも常連と店主という関係性でしかないというのに、自分に口を出す権利などあろうはずもない。
 それでも、あの生気のない顔を見たら、思わずにはおられなかった。
 どうして。うちに来てくれたら、話を聞けた。話をしたくなかったら、ひとりになりたかったのなら、何も言わず、ただ、お前の好きな珈琲と食事くらいは出すことができた。そんなに痩せ細ることなんて、なかったのに。
 総士が倒れ込んだときには、本当に肝が冷えた。腕のなかで呼吸を荒げる彼の異常な熱さに、後先など考えず、すぐ近くにある病院へ駈け込んでいた。すぐ連れて来てくれて良かったと、剣司には言われた。真矢と一騎のおさななじみである彼は、最近よく一騎の店に通っている楽団のひと、という認識で、総士のことを知っていた。
 軽い熱中症だから、点滴をして、安静にしていれば大丈夫だと言われて、一騎は胸をなでおろした。本当に――どうしようかと、思ったのだ。もしも、なにか、大病で、総士がこのまま戻って来なかったら、どうしようかと。
 考えすぎだと笑われるかもしれない。けれども一騎は、一騎自身が、よく知っているのだ。ある日突然、自分の身に病が降りかかることも、それによって、今までできていた何かが、できなくなってしまうことも。
 一騎には、チェロのことはなにひとつわからない。総士が教えてくれたから、きもちのいい、きれいな音だな、と、意識するようになったくらいだ。
 けれど総士にとってチェロはたぶん、命とおなじものなのだ。もしも総士がそれを手放さざるを得なくなったら、どうしようと――本気で、一騎は、思ったのだ。

 軽いからだを、ベッドのうえにそっと下ろす。
 本当なら着替えさせてやりたかったのだが、今更起こすのは気が引けるし、勝手に服を漁るわけにもいかない。今夜は様子を見て、入浴は避けた方がいい、と、剣司には言われていた。総士はおそらく一人暮らしだと思う、と、言った一騎に、「大丈夫とは言ってもな、ちょっとひとりにするのは心配だなぁ……」と剣司が言ったので、一騎は、じゃあ俺が付いて行く、と、総士に相談もなしに答えてしまっていた。総士が後から了承してくれたから良かったものの、勢いで先走りすぎてしまったと、今更反省する。
 こうして様子を見るのも、食事を作るのも、総士は、いらない、嫌だとは、言わなかった。――言わないでいてくれた。
 横たわった総士に薄手の布団をかけて、白い額にかかった亜麻色の髪をはらう。まだ熱っぽかったので、改めて冷やしたタオルを乗せた。
 ――さて、どうしようか。
 総士は寝入っている。朝まで起きないだろう。一応、容態は落ち着いているけれど、このまま放置してしまうのは若干心配だった。
「……ソファで、寝させてもらおうかな……」
 許可なく泊まるのは気が引けるが、致し方ないだろう。そう思って、腫れたようになっている総士の目元に名残惜しく触れたとき、ん、と、ちいさく息を吐いた総士が、一騎の手を取った。
 起きたのか、と思ったが、呼吸は規則正しいままで、目も閉じられている。無意識の行動らしい。
 チェロを弾く指は、骨ばっていて細い。無理やりにほどいてしまうべきか、迷う。握ってくる力は弱く、すぐにでも離れてしまいそうだった。――けれど。頬の横で固定された一騎の手に、総士が顔を寄せ、ふわ、と、おだやかな表情になった。安心したように目元がゆるんで、大きく息を吐き、そのまま、また、規則正しく呼吸がはじまる。
「――……」
 その瞬間に、湧き上がった感情がどういうものなのか、一騎にはわからなかった。
 ただただ、頬が熱い。耳まで熱い。総士にゆるく引きとめられている手が汗ばんで震えてしまいそうだった。胸の奥、背中のほうまで、ぎゅうと締め付けられたような心地がして、胸元をかきむしりたくなる。
 なんだ、これ。
 ざわざわと落ち着かないきもちで、けれど、どうしても総士の手を離す気にはなれなくて、一騎はそのままここで一晩過ごすことに決めた。床は少々冷たいが、座り込んで、ベッドの淵にからだを預ければ、寝られないことはないだろう。明日はちょうど木曜日で、店は定休日だ。
 そんなことを冷静につらつらと考えながらまどろんだ一騎は、自分のなかに湧いたものが、総士に対する、かわいい、愛しい、というきもちなのだと、朝方、雀の鳴き声をぼんやり遠くに聞きながら、気づいた。