エピローグ
身についた習慣は、暮らす場所が変わっても、狂うことがない。
ぼんやりと目を開けて、一騎は顔だけを動かし、枕元に置いてある目覚まし時計が午前五時過ぎを示しているのを確認した。部屋のなかは暗く、カーテンの隙間からこぼれてくる日差しもない。春になって、日照時間はずいぶん長くなってきたけれど、まだこの時間は太陽も眠っているらしい。一騎も、ベッドから出るにはまだ少し早い時間だ。
「……あったかいなぁ」
ぽつりとちいさくつぶやいて、横向きに寝ていた一騎にくっつくように身を丸めている総士のからだを、起こさないように抱き込む。眠るときはすこし距離を置いていたはずなのに、いつも、いつの間にか総士は一騎に身を寄せて眠っている。ダブルベッドはふたりで悠々と眠れるほど広くはない。しかし、総士がくっついてくるのはきっと、狭いからではないのだ。
すうすうと規則正しい寝息を吐く総士の髪を撫でて、おだやかな寝顔を見つめて頬をゆるめる。この朝の時間が、一騎にとってたまらなく贅沢なひとときだ。
ふたりで家具を見繕いに行ったとき、ベッドはクイーンサイズでいいんじゃないかと言った一騎に、断固として「寝室は分けるからダブルでいい」と言った総士の考えを、今ならば理解できる。お互いに疲れているときは、ひとりでゆっくり眠るほうが良い。一方で、一緒に眠るときは、どうせ身を寄せ合うのだから、ダブルでじゅうぶんなのだ。睡眠環境を整えることは重要だと言った総士のおかげで、ひとりで眠る夜も、ふたりで眠る夜も、ストレスなく生活できている。
お前っていろいろ考えてるよな、もしかして誰かと同居してたのか、と聞いた一騎に、お前が初めてに決まっている、と言った総士のすなおな言葉にはちょっとぐっときてしまった。
一騎と総士が同居を始めたのは、約二週間前のことだ。
一緒に暮らしたいと、そう言ったのは、一騎だった。あの冬の日、総士が過去に向き合った演奏会のあと、ふたりで総士の家に帰って、いつもより豪華な食事をして、ぎゅうぎゅうと総士を抱きしめてベッドに入った後で、ぽつりと口にしていた。
総士の家に頻繁に通っている時点で、一緒に暮らしているようなものだった。けれど、それでも、家は別々だ。総士が言ったように「帰る場所は同じ」になりたかった。
総士は一騎とちがって家を長期で空けることが多い。そんな時、総士が店の扉を開けるのを待つのではなくて、総士の暮らす家で、総士の帰りを待っていたい。行く場所ではなくて、帰る場所になりたい。そう言ったら、総士は驚いたように目を瞠ったあと、とろとろと瞳をゆるませて、僕もそれがいい、と言った。
うれしくて総士を抱きつぶしそうになりながら眠った翌朝、そのまま総士を離さず、約束通り二度寝を昼まで堪能したら、「本当にただ二度寝したいだけだったのか」と微妙な顔をされたのまで覚えている。あれがなんだったのか、未だに一騎はわかっていない。
果たして、ふたりは、総士が暮らしていた部屋よりも広い部屋を借りて共に暮らすことにした。当然ながら、総士の希望で、防音室つきの、音大生や演奏家向けのマンションである。防音室のほかにふたつある部屋はそれぞれの寝室兼書斎にした。ダイニングには総士の部屋から持って来た大きめのソファと、一騎が楽園の二階で使っていたカウチが置いてある。楽園の前オーナーから引き継いだカウチはアンティークらしいのだが、一騎が持て余していたそれを総士はいたく気に入ったらしく、余裕のある日はだいたいそのうえで本を読みながらうたたねをしている。
キッチンは一騎のテリトリーになっていて、総士の家から持って来たものと、一騎が新しくそろえたものが並んでいる。半年ほど前に一騎が使い始めた総士の家の調理器具もだんだんと使いこまれて、味が出てきたと思う。ふたりが一緒に食事をするぶんだけ焦げたり色が変わったりしていくのだ。そう思うとわくわくする。
総士は、海外にいる親と双子の妹に、転居した旨をしたためた手紙を送ったらしいのだが――メールではないのかと言ったら、こういうことは書面で伝えるべきだとやたら真面目な顔で言われた――兄のことを溺愛しているらしい妹たちからは、夏には絶対に遊びに行くので覚悟をしていてほしいという返事が来たらしい。
「覚悟って、誰がするんだ?」
「お前だろう」
いったい何を覚悟していればいいのかよくわからないが、写真で見せてもらった総士の妹たちはとてもかわいらしくて、おいしいもの、甘いもの、きれいなものが大好きらしいので、腕によりをかけてもてなそうと思っている。
「……んぅ……」
うつらうつらとしながら思考をめぐらせていると、もぞりと、腕のなかの総士が身を捩った。瞬きをくりかえしながら、灰色の瞳が薄く開かれた。おはようと声をかけてみるけれど、ぼうっとした瞳は一騎をとらえたまま動かない。同居を始めてから、できるだけ一騎と一緒に朝食を取りたいといって早起きを始めた総士だが、まだこの時間は寝惚けていることが多い。
「もうすこし、寝てていいよ」
朝食ができあがる直前に起こしに来ようと思いながら言えば、総士はぼんやりしたまま頷くでもなく一騎を見つめて、くい、と、パジャマの胸元をひっぱる。ああそういうことかと気づいて、総士のうえに覆いかぶさって、薄くひらいている総士のくちびるに口づけると、満足そうな息をこぼして総士がもういちど目を瞑った。
引っ越すすこし前くらいから、寝る前に一騎が総士のくちびるに触れるようになったせいなのか、こうして朝起きて寝惚けている総士にキスをねだられることがある。眠る前だとかんちがいしているのかもしれない。なにせ、覚醒した総士は、自分がキスをねだったことを覚えていない。一度口にしたら「寝惚けているときの行動は本人の意思によるものではなく互いの同意に基づいた行為では――」などと早口でまくしたてられたので、一騎は言及しないことにしている。
たとえば泥酔した総士に抱いてくれと言われたら絶対に断るけれども、寝惚けた総士にせがまれてキスをするのは、白雪姫とはちがうのだから許される範囲だろう、と、思っている。――そもそも抱くだとか抱かれるだとかいう話がふたりのあいだで出たことは、未だにないのだけれども。
布越しにしか知らない体温を今日もめいっぱい堪能してから、一騎はベッドを出た。身支度をしてエプロンをつけ、今日は昨日の残り物を放り込んだ味噌汁にしようと冷蔵庫を開ける。ゆでた野菜の余りも煮物に使った残りのこんにゃくも入れてしまう。この真壁家流の、あるものをあるだけ入れる味噌汁を総士は気に入っている。
鍋から上がる熱気でキッチンがほのかに温まり、カーテンを開けた窓から朝のひかりが差しこむ。気分がよくなって、いつの間にか一騎は歌を口ずさんでいた。総士とあわせるのは星めぐりの歌が定番になっていたけれど、最近では、いつかの日のためにレパートリーを増やしたいと思って、チェロと自分の相性が良さそうな曲を探してもらっては少しずつ聴いている。
総士といつか一緒にちいさなステージに立って歌を歌いたいのだと言ったら、真矢に「やっぱり皆城くんはすごいなぁ」と、言われた。「そのときは私に企画をさせてね」と言った真矢は嬉しそうで、なぜか――どうして泣かないの、と、言ったあの日の真矢を思い出した。歌いたいと思ってくれたことが嬉しいと、真矢はまるで自分のことのように、笑ってくれたから。
炊飯器の白米が湯気を上げ始め、出汁と味噌のにおいが寝室まで届くころ、一騎が呼びにいくより先に、ぺたぺたと足音を立ててぼさぼさの髪のまま、まだ眠そうな顔をした同居人は顔を出す。
一騎の歌声とご飯のにおいで目覚める朝がいちばんすきだと言う総士は、ふあ、とあくびをこぼしたあと、一騎のほうを見て、とろりとひとみを細めた。
一騎を変えて、一騎が変えたかわいいひとは、奏でる音とおなじ、あまくて幸せそうな顔でほほえむ。
「――おはよう、一騎」
「おはよう、総士」
おいしいごはんと、おだやかな音のあふれる家に、今日も、あたたかなひだまりが生まれる。