第五章
「いったい君に何が起きたんだろうね」
侮蔑でも揶揄でもなく、純粋な驚きをもって肩を竦められたのは一度や二度ではない。またそれかと思いながら、総士は誤魔化すように当たり障りのない笑みを返しながらケースにチェロを収める。
秋から冬にかけて、楽団の演奏会スケジュールは過密なほどに組まれている。練習量もそれに応じて増しているなか、ここ最近、総士はひとりではなく、今まで避けていた同じパートのメンバーとの練習に積極的に参加している。
自分も一緒にやりたいのだと声をかけたときの、彼らの驚きの表情は未だに忘れられない。今更何を、と、そう言われることも覚悟していたけれど、彼らは「待っていた」と言わんばかりのようすで、好意的に総士を受け入れてくれた。
夏の地方公演の途中から突如として調子を崩した総士をみな何事かと心配してくれていたようだし、倒れて病院に担ぎ込まれたことはそれとなく伝わっていて、用心のために一週間ほど休んでから練習に合流したときには、大丈夫か、もういいのか、無理をするなと大げさなほどに気遣われたものだった。だが、演奏を始めた総士があからさまに以前よりも良い音を出すようになっていたからか、心配そうだったみなの顔が今度は「いったいどうしたんだ」という驚きの顔に変わっていった。
「今日は、夕飯どうする? 一緒にどっか食べに行くか?」
「ああ……いや、今日は予定があるので」
「そっか、じゃあまたな」
以前と変わらないやり取りではあるが、最近では楽団のメンバーと食事をすることも増えた。今日は本当に、予定が合わなかっただけだ。
ホールを出ると、日はすでに落ち、あたりを暗闇がつつんでいる。まだ日中は暑い日もあるけれど、さすがに十一月に入ってから、夜は冷えるようになった。
腕時計を見れば二十時が近い。もうこの時間ならば、店に寄るよりもまっすぐ帰ったほうがいいだろうと、総士は慣れた家路をたどった。
四階建てのマンションの最上階、角部屋に近づくにつれて、ふんわりと良いにおいが香ってくる。換気扇を経て外に流れだしているのだろうそれは、総士のこころを浮き立たせた。今日は練習を詰め込んだせいで昼食はホールの中で簡単に済ませてしまったから、お腹が空いている。午後の短い休憩時間にスマートフォンに届いた「何が食べたい?」というメッセージに「魚」とそっけなく短い単語しか返せなかったのだが、ただよってくるバターの香りから、ソテーだろうか、と、予想しながら玄関の鍵を開ける。ガチャリという音で気づいたのだろう。ドアを開けたタイミングで、廊下の先から、「おかえり!」と一騎の笑顔がのぞいた。
「……ただいま」
未だにすこし慣れない言葉を口にして、我が家に入る。手が放せないところだったのか、一騎は「もうできるからなー」と間延びした声を残して顔をひっこめた。
楽器を置いて上着をかけ、手を洗ってからダイニングへ顔を出すと、テーブルの上にはサラダだけが置かれていた。キッチンで忙しなく動いている一騎に「なにか手伝わせてくれ」と声をかけると、「ご飯とスープよそっといてくれ」と指示が出る。
炊飯器を開けると、すでにほぐされてほかほかと湯気を立てている米があった。不揃いの茶碗ふたつにしっかり盛って、残りはラップにくるむ。
一騎が総士の家で料理をするようになってすぐのころ、「お前の手は商売道具なんだから火傷なんて絶対しないでくれ」と一騎に過剰に心配され、「そんなことを言ったら僕はなにもできないだろう」と若干言い争ったのもなつかしい。確かに、あまり刃物は使わないようにしているし、火傷にも気を付けているけれど、やりようはいくらでもあるのだ。
ご飯の準備ができたので、次はスープだ。一騎がフライパンでじゅわじゅわと音を立てている横で、ぐつぐつ煮込まれていたのはミネストローネだった。蓋を開けたとたんに鼻腔をくすぐるトマトのにおいと、横からただようバターのにおいで、ぐう、とお腹が鳴る。それが聞こえたらしい一騎がふにゃりと笑って「それ、好きなんだよなぁ」とつぶやく。
「それとは何だ」
「お前の腹がへったときの音。元気な証拠だし、俺のつくったご飯、食べたいんだなぁって思うとうれしいから」
他人に聞かれてあまり喜ばしい音ではないと思うのだが、一騎にそう言われると、そうか、ならばいいか、と思ってしまう。どうせ、一騎以外に聞かれることはあまりないものなのだし。
「そうだ……、すまなかった、あまり休憩時間がなかったから、短いメッセージしか送れなかった」
「いいよ。忙しいのはわかってるし。疲れて腹へってるんだろうなって思ったから多めに作ったんだけど、当たってたみたいでよかった」
今日のメインは鱈のバターソテーだぞ、とうたうように一騎が言う横で、総士はミネストローネをたっぷりと深いスープボウルによそう。
すべてをテーブルの上にならべると、彩りも香りもあざやかな食卓ができあがった。向かい合わせになって「いただきます」と手を合わせる光景も、すっかり当たり前になってしまった。
「……おいしい……」
「そっか」
お前のその顔見るためになら何でもできるなぁと眉根を下げて口元をゆるませる一騎は、あまりにも総士に甘いと思う。
二ヵ月前、総士の言うところの「プライベートな関係性」になってから、一騎はまず、「ひとつお願いがある」と言ってきた。
いわく、月に何回か――いや、週に何回か、お前の食事を作らせてくれないか、というお願いだ。
お願いと言うには総士だけが良い思いをするのではないかという内容だったし、総士は一騎に私生活の「面倒」を見てほしいわけではなかったので、最初は断ろうかと思った。けれど、一騎に、「お前の世話とか面倒を見たいって意味じゃなくて、俺が、俺のつくったもの食べてほしいんだ」と頼み込まれた。
「店の料理はみんなのためのものだけど、俺、総士に、総士だけにつくるもの、食べてほしい。それで、おいしいって顔をさせたい。その顔を、ひとりじめしたい」
一騎は臆面もなく真っ直ぐに正直な言葉を向けてくるので、総士は思わずしどろもどろになりながら、そういうことなら、と、頷いた。そのかわり、材料費は総士が持つことと、総士の家のキッチンを一騎の好きなように、遠慮なく使うこと、片づけは総士がする、という条件をつけた。
食事をするだけなら一騎の家でも構わなかったのだが、一騎が暮らしているのは楽園の二階に設えられた部屋で、キッチンは楽園の厨房を併用している。一騎にとっては慣れている場所だけれども、片付けの手間などを考えれば、総士の家のほうが都合がよかったのだ。
最近では、食事のあと、家に帰らず、一騎が泊まっていくことも増えた。とは言っても、だいたい朝が早いのは一騎のほうなので、寝起きの悪い総士がぼんやり目覚めたときには、ベッドの隣はもぬけの殻で、温め直せばいいようにコンロにかけられた味噌汁の小鍋が残っている、ということが多い。
成人男性ふたりが並んで眠るには狭いベッドで、落ちないように身を寄せあって眠るのは窮屈なはずなのだが、一騎の体温をそばに感じながら眠った翌日は、いつも気分が良い。心なしか寝起きもすっきりとしているし、演奏も、納得のいくものになることが多いのだ。
あれはいったい何なのだろう。
――いったい君に何が起きたんだろうね。
パートのメンバーに限らず、楽団のあらゆる人から言われるそれを、総士自身も不思議に思っている。
一騎にすべてを話して泣きじゃくってしまったあの日から、胸のつかえが取れたようだ。誰にも言えなかったことを吐き出し、苦しいということを受け止められたことで、まだ過去に清算はつかなくとも、心の整理はついたのだと思う。それはわかる。だがそれだけではなく、あたらしく生まれたものがある。
一騎とともにいると安心する。一騎に触れられたり、彼の笑顔を見たりすると、こころがよろこびに満たされる。
そのおもいをどう呼べばいいのかわからない。わからないけれど、あまりに心地よくて、だめになってしまいそうだと思うことがある。経験がないぶん、どこまで一騎に甘えていいのかわからない。寄りかかり過ぎてしまったら自分が溶けだしてなくなってしまいそうなのが、おそろしい。
だというのに、一騎のことを思い浮かべて弦を鳴らすと、とたんにチェロがうたいだす。忘れていた感情のかけらが、虚ろな穴が埋まったみたいに。それを指してみなが「いったい何が起きたのだ」と評しているのだ。
まるでセロ弾きのゴーシュだと思う。思うように弾けなくて、一人で家にこもり、がむしゃらにチェロを弾いていたゴーシュは、家を訪ねてくる動物たちに知らず知らずのうちに音やリズムを矯正される。楽団のなかで怒鳴られてばかりいた彼は、そうしていつの間にか演奏が上達し、賞賛を受けるのだ。
音はいきものなのだろう。ひとりで閉じこもって弾き続けていれば、きっと息ができなくなる。
もう一度、ひとのなかで弾きたいと思った総士の選択はまちがっていなかった。怯えて踏み出せなかった一歩が、一騎に出逢えたことで踏み出せた。一騎といることで得る感情が、総士の音を変えていっている。
不思議だけれど、それだけは、事実だった。
夕飯の片づけを終えて、今日は泊まるという一騎が風呂に入っているあいだに、総士は防音室で少しだけチェロを弾くことにした。
パート練習で気になったところだけ確認するつもりで弾き始めたが、一度弾きだすと、集中が途切れるまで弾き続けてしまうのが総士の悪い癖だ。途中で扉が開けられたことにも気づかずに、ただ没頭する。
なんとか納得のいく形になったところで、ふう、と息を吐く。そうすると無意識に遮断していた音や景色が耳や目に入ってきた。
顔を上げると、防音室の壁に寄りかかるように座り込んで、うとうととしている一騎がいる。いつの間に入ってきたのか、まったくわからなかった。ふだんは、遠慮をして一騎はあまり練習中の部屋には入ってこない。けれどおそらく、あまりに総士が出てこないので、もう寝てはどうかと呼びにきてくれたのだろう。そういうことは儘ある。
「一騎」
今にも眠ってしまいそうな一騎を揺り起こすと、「おわったか?」と眠そうな声が返ってきた。
「ああ、もうやめる。呼びに来てくれたのだろう。待たせてすまない」
「ううん。総士のチェロの音、すきだから」
一騎が総士の家に来るようになってから、初めて演奏を聴かせたのは、すぐのことだった。聴きたいとねだられて弾いたのは、ふたりが初めて名乗りあった日に楽園で流れていた、バッハの無伴奏チェロ組曲第一番だ。ずっと聴いていたら寝そうだと言っていた一騎はしかし、うっとりした表情で一曲聴き終えて、「チェロの音って、きもちいいな」と、予想以上に気に入ったらしい。それ以来、練習の合間に、ときどき一騎のためだけに弾くことがある。
今日はもうやめる、とは言ったものの、まだすこしだけ物足りないような気がして、総士はちらりと一騎をみやった。
「……寝る前に、一曲だけ、合わせてくれないか」
「やめる、って言ったのにか」
一騎は言葉と裏腹に笑っていて、いいよ、と、総士をまた甘やかす。
何を弾くとも言わずに、総士がおもむろに奏ではじめた音に、かすかな一騎の声が重なる。
あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の つばさ――
あの日、総士の部屋で、一騎が歌っていたのとおなじ、星めぐりの歌だ。
後から聞いた話だが、楽園で流すために真矢に選曲してもらっていたという曲とは別に、一騎は真矢に頼んで、チェロに関する音源をもらっていたらしい。そのなかに、歌付きで入っていたのが唯一、この星めぐりの歌だったのだ。短くて親しみやすいメロディだったこともあってか、一騎は知らず、この歌を口ずさむようになっていたようだ。
その話を聞いたとき、総士がおそるおそる「お前の喉に支障がないのなら、歌にあわせてみたい」と言ったところ、「それくらい問題ないよ」と一騎は快諾してくれた。大きな声で常に歌うような「仕事」はもうできないけれど、歌うことを制限されているわけではないのだから、と。
初めて眠りのふちで聴いた一騎の歌に、総士は、とにかくチェロが弾きたい、と強く感じたけれど、一緒にあわせて、そのおもいはより強くなった。
一騎の歌は、やさしくて、甘い。チェロの音に似ていると感じていた彼の声は、総士の弾く音に違和感なく重なって、まるでひとつの楽器が出している音みたいにあわさる。一騎の感情にひっぱられるように総士のきもちは浮き立って、ただただ、奏でることが心地よく感じられて、チェロを弾くことがうれしいと、たのしいと、いちばん初めに思った日へ連れ帰られるような気がするのだ。
他の誰とも、どんな楽器とも、こんな風にはならない。
――一騎だけだ。
短い曲は、あっという間に終わってしまう。
かすかな余韻を残して弾き切り、総士は思わず、ほう、とうっとりとした嘆息をこぼした。耳に残る響きが頭の奥をじんと痺れさせて、夢心地になる。一騎の歌声を聴いたあとはいつもこうだ。
「お前は……本当にもう、人前で歌う気がないのか? 本格的な活動は無理だろうが、喉に影響がない程度なら、問題ないのだろう?」
無理をしてほしいわけではなかったが、この歌声を秘しておくのはどうにももったいない、というきもちが総士にはあった。アイドルはもう無理にしても、年に数回程度、人前に立つくらいは支障がないはずだ。
けれど一騎は笑って首を横に振った。
「俺、歌えないって思った時は確かにすごく苦しかったよ。自分が何もできなくなったみたいで。でもそうじゃなかった。今の、俺の店で、みんなの笑顔を見られる生活も、だいじで、だいすきなんだ。歌が嫌いになったわけじゃないけど、今は、歌よりやりたいことがあるから」
「そうか……、いや、僕もしつこいな。すまない」
「いいんだ。総士がそれだけ、俺の歌、すきだってことだろ?」
今はお前がひとりじめだぞ、と一騎がいたずらっぽく笑って総士の頬に触れるので、総士はどうにも気恥ずかしくなって、視線をそらした。
*
翌朝目覚めると、案の定、いつもどおり、ベッドの隣は空だった。
んん、と唸りながら寝惚けて手を伸ばしてみるけれど、総士のてのひらに伝わってくるのは冷えたシーツの感触だけだ。目覚めたときに傍にいてくれなどとは全く、言うつもりはないのだが――そもそも総士が一騎にあわせて早起きすればいいだけの話なので――お前のせいで、ひとりで目覚めるのが妙に物悲しくなってしまった、という文句だけはいつか言ってやろうと総士は決めている。――それを告げたあとの羞恥に勝てるようになってからだが。
ゆっくりとからだを起こすと、目覚まし時計は午前八時前をさしている。今日の集合は十時だから問題はない。
総士の起床時間より二時間は早く家を出ているであろう一騎は、もう仕事の真っ最中だ。楽園の開店時間は七時半で、オフィス街へ向かう会社勤めの常連や、ジョギングの途中で立ち寄る近所のひとたちで、意外にモーニングの時間帯は忙しいらしい。
そうやって、朝から客のためにたくさんの料理をするはずなのに、キッチンには、昨夜の余りのミネストローネにご飯とチーズをたっぷり入れたリゾット風の朝食が用意されていた。面倒ではないのか、朝の早いお前がつらいのではないか、と何度か言ったことがあるのだが、一騎にとって「食事をつくる」ことは総士にとって「チェロを弾く」ことと同じなのだと理解してからは、言うのをやめた。一騎は無理をして総士に食事を作ってくれているのではない。一騎が楽しいと思うことを、しているだけなのだ。
だから、申し訳ない、という言葉ではなく、おいしいとか、ありがとうとか、自分が感じるうれしいことを伝えるようにしている。そうするようになってから、一騎だけでなく、楽団の人間と話すときにも、使う言葉が徐々に変わってきた。もはや一騎が変えているのは、総士の音、だけではない。
「ん……?」
食事の前にひととおり身支度をして、ふとテーブルの上を見ると、珍しく、置手紙があった。ふだん一騎は、何か用事でもないかぎり、こういったものを残さない。チラシの裏を使ったそれには、『無理するなよ。何かあったら言ってくれ』とだけ書いてある。
ゆうべ、遅くまで練習に没頭していたからだろうか。不思議に思いながら、総士はリゾットを温め直した。
「いただきます」
手を合わせ、ここにはいない一騎を思い浮かべて、野菜がたっぷり入ったリゾットを頬張る。朝食を抜いたり、適当に済ませていたりしたころには、もう戻れないな、と、口にひろがる旨味につい頬を緩めながら思った。
あらかた食べ終えて、テーブルの上に置かれていた新聞に目をやる。一騎が起きてから取って来てくれたのだろう。何枚か近所のデリバリーの広告なども乗せられていて、その、いちばん上に、白くて大きめの封筒があった。なんだろう。よく見ると、それはエアメールだ。
「……っ」
食べかけで行儀が悪いとは思ったが、総士は思わずその封筒を手に取った。
宛名欄には総士の名がある。流れるような英字は、見覚えのある筆跡で書かれていた。おそるおそる裏返すと、差出人の住所はチェコ――かつて総士が傷つけた、プラハの彼の名があった。
――一騎はこれを、目にしたのだ。
総士に届く郵便物を彼が無闇に見ることは決してないけれど、日本語で書かれていないエアメールは、ぱっと目に留まったにちがいない。一騎は勘が鋭いところがあるから、感じるものがあったのだろう。それであの置き手紙というわけだ。
――心配を、してくれるのが、うれしい。
無理に話せとは言わないでいながら、何かあったら言ってくれと、その距離で立っていてくれるのが心地よい。
一騎といる心地よさや、安心感が、総士の背中を押してくれる。だからこれも、この手紙も、そもそも先に動いたのは総士のほうだった。あちらから突如舞い込んできたものではなく、総士の手紙に対する、返事だ。
今までは、もう二度と関わることはないだろうと思っていた。連絡を取ることも、その音を聴くことさえも。けれど、変わろうとする総士のこころが、過去と向き合うことを求めた。
ゆっくりと、傷つけないように、ペーパーナイフで封を開ける。中から出てきたのは、一枚の手紙と、チケットだった。
チケットに示されている公演は、以前、真矢がホールに貼るのを手伝ったポスターに書かれていたものだ。彼の、日本公演である。開催日は一週間後と迫っている。手紙には短く、公演後に楽屋で待っているということが書かれていた。
きっと彼も、日本へ渡るぎりぎりまで悩んだのだろうと、感じられた。
*
閉店間近の喫茶楽園は、持ち帰り弁当を求める客ですこし賑やかだった。
カラン、と、ベルの音を響かせて総士が入店すると、気づいた一騎が「あっ」という顔をしたが、後でいい、と首を振ってほほえみ、いつもの窓際の席へ腰を下ろす。
背負っていたチェロケースを窓側の壁に立てかけて、ぼんやりと窓の外の、夕闇に溶けこんでいく景色を眺めていると、「お待たせしました」とアルバイトの学生がお冷を持ってきてくれた。暉という名の彼は、ちょうど総士が倒れたころに店に入ったらしいが、一騎いわく「物覚えが良くてすごく助かっている」らしい。総士が倒れた日も、店主がいないなかで店じまいをしたのは彼だった。そのせいか、彼のなかで総士は「不摂生な音楽家」という大変不名誉な印象のままらしいが、自業自得なので仕方がない。
「今日はどうされますか?」
「珈琲を一杯、頼む」
「かしこまりました」
厨房に向かっていく彼が「いつものです」と一騎に言って、一騎は待っている客の弁当を詰めながら総士をちらりと見やり、ほほえむ。この時間帯に総士が来て、食事や弁当ではなく珈琲を頼むのは、この後一緒に帰りたい、というメッセージだという暗黙の了解があった。
「暉、そのゴミ出したら、そのままもう上がっていいぞ」
「はーい」
ラストオーダーはとうに過ぎ、閉店五分前の店内には、もう総士しか残っていない。一騎に指示された暉は、ごみ袋を持って厨房の勝手口から帰って行った。それを見送ってから、一騎は店の前に閉店の看板を出し、総士の席へやってくる。
「お待たせしました」
特に手に何を持つでもなくそう言った一騎に、「僕が頼んだのは珈琲一杯であって、真壁一騎ではないぞ」とすげなく返すと、一騎はおもしろそうに笑った。
「総士がそういうふうに言うときは、だいたい逆なんだよな」
待っていたんだろと言われて、総士は、今度は素直に頷いた。
「お前にひとつ、頼みたいことがある」
「なんだ?」
「この公演に、一緒に来てほしい」
テーブルの上に差し出したのは、今朝受け取った公演チケットだ。関係者席へ入れるそれは、一枚で二名までが入場できる。
「それ、もしかして……今日、届いてたやつか?」
「そうだ。僕が一か月前に、手紙を出していた。彼が日本に来るタイミングで、一度、――もう一度、話をさせてほしいと。それに対する返事だった。もちろん、楽屋に入れるのも、話すのも、僕ひとりだ。だが……、お前さえよければ、……外で待っていて、くれないか」
覚悟は決めている。
もう一度きちんと話がしたい。向き合って、謝ることがゆるされるのなら、謝りたい。けれど、もしもそれが彼の負担になってしまうのなら、諦める。そういった内容の手紙を、総士は送っていた。話をしたいと思うのも、謝りたいと思うのも、総士のわがままだ。総士自身のためのものだ。
けれど、もしも彼のなかでも燻っているものがあって、総士ともう一度、話をしたいと思ってくれるのならば、何かを吐き出したいと、ぶつけたいと、そう思っているのなら、会いたい。
端的な文章ではあったけれど、結果的に、返事は、イエスだった。
だから、何を言われてもいいと、覚悟は決めている。
しかし、もし一騎がよいと言ってくれるのならば、話し終ったあとで、すぐそばに、一騎にいてほしかった。彼と会うことで自分がどんな感情を得るとしても、一騎ならば、何を言わずともとなりにいてくれる。
甘えだとわかっている。それでも。
「――もちろん、いいに、決まってるだろ」
一騎は、笑顔で頷いた。それがいつもと変わらない笑顔だったので、どこかで緊張していたこころが、ほっとゆるむ。
「そうか……、ありがとう」
総士が礼を言うと、ううん、と、一騎が首を横に振った。
「うれしい。総士が、俺のこと信じて、頼ってくれるの」
細められた榛の瞳がやさしげに総士を見つめるのが、たまらない。一騎の瞳は正直で、ときどき、ひどく居心地が悪くなる。不快なのではなくて、ただただ恥ずかしいのだ。
目をそらしながら、「お前も、僕に頼ってくれればいいのに」とつい漏らすと、一騎は意外なことを言われた、というような顔をした。
「頼ってるよ、いつも」
「そう、だろうか……?」
一騎は総士を甘やかすし、寄りかかりやすく、いつもそばにいてくれる。けれど、総士は一騎を同じように甘やかすことはできていないと思うし、頼られているという自覚も、あまりない。
一騎はちいさく笑ってから、すこし、視線を落とした。
「俺、いちばん最初にここで総士と話をしたとき……総士が、ただチェロのことがすきで、すきだから、選んで、弾いて、生業にしているっていうのが、すごくうらやましかったんだ」
思い出されるのは、窓に当たる雨の音と、心地のよい一騎の声だ。土砂降りに閉じ込められた店内で、初めてふたりで話をした、午後のこと。あのとき一騎は、チェロの音がすきだからチェロを弾き始めたのかと総士に問い、総士はうなずいた。そういうの、いいなぁと、どこか遠くを見て表情を翳らせた一騎が、ふいによみがえる。
「俺は、好きで歌を始めたわけじゃなかった。なくして初めて、好きだったんだなって思い知ったときに、それでも、自分にいまさら〝好きだったのに〟なんて惜しむ資格はないんだと思ってたんだ。遠見といっしょに泣いて、居場所を失った苦しさは受け止められたし、次に選んだ料理の道に満足しているのは、本当だよ。……それでもどこかでずっと、歌がすきだと自覚して歌えていたら、もっとなにか、ちがったのかなって思う後悔がどこかにあった。だけど、総士のチェロにあわせて歌うようになってから、そのきもちが……うまく言えないけど、昇華されていくんだ。俺の歌にあわせて弾くのがきもちいいって総士は言ってくれる。そういうときの総士の音、やさしくて、俺もすごくうれしくなる。死んだはずの歌が、まだ生きてるんだって、そう思う」
一騎の言葉にくちびるを引き結ぶ。うれしいのに、なぜか泣いてしまいそうになる。
「料理だって、ここを継いだときは、好きだっていうきもちより、当たり前にできるからっておもいのほうが強かったんだ。だけどここは、常連さんが多いから、珈琲一杯でも、それぞれのひとの顔や好みを思い浮かべて淹れる。それがたのしい。喜んでもらえると、うれしい。俺はたぶん、たくさんのひとに料理をつくることよりも、顔を知っている誰かのためにつくるほうが好きなんだ。だから、いつも同じ席に座って、無表情をゆるめて珈琲を飲むひとの笑顔がもっと見たくて、もっとそのひとの好みが知りたくなった。そばにいていいって言われたら、毎日でも、そのひとのためだけに、うまいものをつくりたくなった。その願いを叶えてもらったから、俺はすごく、しあわせなんだよ」
「それは……、その……、」
「総士のことだよ」
そういえば、一騎には最初からよく見られていたのだったということを思い出す。
「歌も、料理も、総士がいるから、もっとすきになった。俺の、だいじなものになった。それは、甘えてるとか、頼ってるとか、そういうのじゃないかもしれないけど……総士のおかげ、なんだよ」
だから俺も総士に、それだけのものを、返したい。
一騎の、ふだんの言葉や態度の端々から感じられている部分はあった。けれどこうやってはっきりと言葉にされると、胸のうちがむずむずとして、目元が熱くなる。一騎は総士を変えてくれた。けれど、総士が一方的に変えられたわけではないのだ。総士とともにいることで、一騎は、しあわせだと思ってくれている。
ふるえるくちびるを、なんとか開いて、総士は笑った。
「……おあいこだな」
「おあいこだよ」
こんな会話、前もしたことあるなぁと一騎が言う。それはたった、数ヶ月前のことなのだ。こんなふうに、同じ場所で、全くちがう距離感で話をするようになるなんて、思ってもいなかったころ。
つらいことやかなしいことも、突然にやってくる。けれど、うれしいことも、一生に一度のような、だいじなひととの出会いも、予想もしないところでやってくるのだろう。出逢った瞬間には偶然や奇跡のようなものであっても、言葉を交わし、おもいを伝えあったその先は、すべて自分たちの意志によって、選ばれていく。失わないように。離れてしまわないように。
だいじにしたい。ずっと。今度こそ、傷つけあっても、あきらめてしまわないように。
「……ありがとう、一騎」
どうしても告げたくて、かすれた声で届けた言葉に、一騎はとろとろと笑み崩れて、ありがとう総士、と、おなじように返してくれた。
*
人は服で変わるものだなと、総士は隣に座った一騎の姿を横目でちらちらとうかがいながら思った。
総士たちの暮らす街から電車で一時間ほど離れた街のホールのなかでは、人々のかすかな話し声がさざめきのように広がっていた。プラハ出身の若いチェリストのソロコンサートは、彼の最近の演奏が高評価されていることもあってか、満席だ。関係者席ともなれば、どこかで顔を見知った人間に会うかもしれないと思ったが、今のところ、総士に話しかけてくるものはいない。
「総士も、こういうの、やってたんだよなぁ」
ぱらぱらと今日のプログラムをめくりながら、いつもとは違い、紺色のスーツに身を包んだ一騎がやや不満そうに言う。
そのスーツは、一着も持っていないという一騎のために、総士が見立てたものだった。ふだんラフな格好をしているからか、ギャップがはげしくて、総士は少々目のやり場に困っている。この男、実はこういう服装のほうが、黙っていれば、似合うんじゃないかとさえ思う。端的に言えばものすごく総士の好みだった。
それを気取られないように、「まぁ、そうだな」と冷静に返せば、「聴きたかったなぁ」と一騎がつぶやく。
「こういう場所でステージに立ってる総士、絶対、かっこいいもんな」
「……そう言うならいいかげん楽団の演奏会に来たらどうなんだ」
「……オーケストラの演奏に何時間も座っていられる気がしないんだよ……」
お前のチェロならいいけど、と、相変わらずクラシックそのものは得意ではないらしい一騎にくすりと笑って、総士は「いつかまた、僕がひとりで弾く日がきたら、来ればいい」と、すこしだけ肩を寄せる。
アンサンブルも、ソロも、これからひとつも出来ないわけじゃない。出来ないと、出来るわけがないと、そう思っていた総士はもういないのだ。それを乗り越えるために、今日ここにいるのだ。
「そのときは、お前が一曲、ゲストで合わせてくれるんだろう?」
肩を寄せたままちらりと一騎を横目で見れば、一騎は、そうだな、それいいな、と、うれしそうに笑った。
徐々にしずかになっていく会場に、ふと息を吐いて、肩を離す。
――だいじょうぶだ。
開演のブザーが鳴って、客席の照明が落ちる。
プログラムの最初は無伴奏だった。たったひとり、袖から、ソリストが出てくる。見覚えのある、銅(あかがね)のチェロを抱えて出てきたかつての友の姿から、総士は、決して目をそらさないように、ふかく、呼吸をした。
総士、これ、と、横から差し出されたハンカチを見るまで、自分が泣いていることに気が付かなかった。
客席の灯りがともり、人のざわめきが、場内に戻ってくる。二時間のプログラムは二度のアンコールを以って終わり、中にはまだ、拍手を続ける客もいる。
――それだけ、良い演奏だった。
数年とはいえ、共に音を奏でた仲だったからこそ、一度くじけてしまった彼が、ここまでの成長を遂げるのに、いったいどれほど努力をし、自分と向き合わねばならなかったのか、その苦しさが想像できる。並大抵のものではなかったはずだ。
つらいと――音を奏でることがつらいと、苦しいと、そう言った彼が、自分の音に自信をもって、自由に、楽しげに弾いていた。
――そうだった。
そういうチェリストだったのだ。
だから、共に弾きたいと思った。四人とも、お互いに、お互いの音のことを尊敬し、あいしていたから。
「……すまない」
零れた涙を拭きとって、洗って返すと言えば、一騎は苦笑しながら総士の肩に手を添え、立ち上がるように促した。
「それより、楽屋に行くんだろう。ここからだぞ」
ほら、と、背を軽く叩かれて、頷く。
ロビーに出て、一騎には、ここで待っていてくれと告げた。頷いた一騎は、「大丈夫だよ、総士」と一度、総士の手を強く握った。
骨ばっていて、総士よりすこし大きいてのひらから、じん、とぬくもりが伝わる。こころが落ち着く。一騎は「総士のおかげ」と言っていたけれど、やはり、それでも総士は思う。この、与えられる安心感に、返せるものが何も思いつかないと。
「……いってくる」
「いってらっしゃい」
笑顔の一騎に笑顔を返し、踵を返すと、総士はホールの脇にある廊下を進んだ。
あらかじめ話はしてあるのだろう。スタッフに名を告げてチケットを見せると、奥へ案内される。楽屋の前で一度、立ち止まって、深呼吸をする。
ノックをすれば、どうぞ、という声がした。おおよそ、二年ぶりに聞く声だった。
意を決してドアを開ける。
「……そうし」
変わらない声で、変わらない姿で、けれど、あの日最後に見た顔とはまったく違う表情が、そこにあった。
*
人の波がすっかり消えたロビーでは、忙しなくスタッフたちが片付けに走り回っている。おさななじみが同じような仕事をしているから、演奏家がステージを降りたその後も、時間通りに片付けて、次へ移動する準備をするために、裏方は大忙しなのだということを一騎は知っていた。
そんななかでぽつんと立っているのも申し訳なく、総士が出てきたら分かるように、ロビーから外へ出たところで、大きなガラス窓に寄りかかる。総士はきっと、大丈夫だろう、という確信はある。そこを、心配はしていない。
あの日、一騎にすべてを吐露してから、見るからに、総士は変わった。総士が倒れて一週間ほど楽団を休んだとき、一騎は、様子を見たいからと言って、たびたび家に出入りをしていたけれど、見せる表情がやわらかくなったのは、きっと一騎に対してだけではなかった。復帰した総士を見た真矢には、剣司からあらかたの顛末を聞いていたらしく、「皆城くんに魔法でもかけたの?」と言われた。
――魔法、なんてものではない。
けれど、総士は言う。一騎が自分を変えたのだ、と。
そうだろうか。
本当は、変えたのではなくて、総士がずっと閉じ込めていたものの、鍵を開ける、その、ほんのちょっとしたきっかけになっただけ、なのだと思う。けれど、それでも、嬉しいきもちに変わりはない。
だけど――。
うにゃぁ、と、どこからか聞こえた鳴き声に、一騎は顔を上げた。
あたりを見回すと、ホール前に設えられている花壇の隙間から、白茶の猫が顔を出している。思わず頬をゆるめ、おいで、と手招きすると、おそるおそる寄ってきた。首輪も何もないから、野良だろう。警戒心はあるのだろうが、人馴れしていないわけでもないらしい。
しゃがみこんだ一騎が手を伸ばすと、びくりと一歩後ずさった。品定めするように上目遣いで一騎を見ている。じっとそのまま待っていると、猫の緊張は解かれたらしく、ごろんとその場で横になった。触ってもよいというお許しらしい。
「……かわいいなぁおまえ」
よしよしと喉元をくすぐると、きもちよさそうに黄金色の目を閉じてされるがままだ。一度気を許すと平気なタイプらしい。
見目は似ても似つかないというのに、どうしてか、「嫌じゃない」と遠回しな許しを与えて、一騎の腕のなかで力を抜いて懐いてくる総士の姿が浮かんだ。
「……俺さ、ちょっと不安なんだ」
ごろごろと喉を鳴らす猫は一騎の話など聞いてはいないだろう。それでいい。今はちょっと、弱音を吐きたいだけなのだ。
「俺は昔の総士を見たことがないけど、本当に、すごいチェリストだったんだよな。いや、今もすごいんだけどさ……、さすがに俺でも、今日の人の演奏がずば抜けてるんだっていうのはわかった。あの人と総士は一緒にやってたんだろ? すごいよな。だから……総士がまた、日本から出て行く可能性だって、ないわけじゃないんだ」
むしろ、今日のふたりの成り行き次第では、そう、遠い話では、なくなるかもしれない。
それが、すこし、こわい。
総士のことを励まして送り出したけれど、このまま、総士が手の届かないところへ行ってしまうのではないか、というおもいが、少なからずあった。最初のころは「客」と「店主」という関係にこだわっていたけれど、それ以前に、一騎と総士は歩んできた道がちがいすぎる。総士は世界を飛び回るような人だ。今でこそ日本にいるけれど、そもそも、そうなってしまった原因が解決して、総士自身のこころが自由になったのなら、選べる道はもっとたくさんある。
たった半年だ。出逢ってたった半年。
隣に寄り添うことを許してもらってからは、たった二ヵ月。
それなのに、もう、一騎はすっかり総士と離れがたくなってしまった。
指に感じる猫のやわらかな毛の感触に、うとうとしながら一騎にもたれかかってくる総士の、首元に触れるやわらかな髪の毛を思い出す。総士は自分自身のことには無頓着だから、風呂上りは水気を雑に拭き取っただけでソファに座ることが多い。それを一騎が毛先まできれいに乾かしてやって、ぬくもりをまとった、ふわふわの髪に触れるのが、最近の楽しみになっていた。
そんな些細なことができなくなってしまうかも、と、考えると、気が沈む。
「考えすぎかな……、でも……」
「――そういうことは猫ではなく僕に言え」
「っ」
ぽす、と、猫よりも何倍も大きなからだが、ぶつかるようにして隣に座りこんだ。猫の毛よりも長くふわふわした亜麻色の髪がマフラーに巻き込まれている。
「そ……、総士……、おわったのか……?」
「おわった」
結果はどうかなど、たずねる必要はなかった。総士の表情は、今まで見たどんなものよりも、清々しかった。これが本来の総士なのだと思えるような、なにか、抱えていたものが解放されて、憂いの消えたような、きれいな顔だった。眦が赤いのは、もしかしたらまた泣いたのかもしれない。それもそうだ。一騎だって、たとえば、真矢や剣司と傷つけあって別れたとして、もう一度話がしたいという願いに相手が応えてくれたなら、そして、もう一度、手を取ってくれたなら、泣いてしまうと思う。
「僕も言葉が足りなかったが……彼も、彼のことでせいいっぱいで、僕や仲間を傷つけてしまった、と。だから、彼も僕と話したいと思いながら、ずっとこわかったと言っていた。僕が日本に戻って完全に音信不通になってしまったことで、そもそも生きているかすらもわからなかったと……彼らをずいぶん、心配させてしまっていたようだ」
「総士のこと、おもって、くれてたんだな」
「ああ」
「そっか……、そっか」
よかったなぁと、一騎は安堵の息をこぼした。総士は拒絶されていたわけでもないし、憎まれていたのでもない。傷つけあったことは確かだ。それでも、その先でまた話すことはできる。互いを認めることができる。――そういうひとたちで、本当に、よかった。
「……どうしてお前が、そんなに嬉しそうなんだろうな」
「え?」
眩いものでも見るようにくしゃりと笑った総士は、ふと表情を戻し、「それにしては……」と一騎の前で寝転がったままの猫に視線を落とす。つい、と、総士のきれいな指先が猫の頬をなであげ、「ここからは一騎は僕のものだ」と、一瞬耳を疑うようなことを言った。人の言葉が通じるわけがないのに、猫はにゃあとひとつ鳴いて、飽きてしまったように、とてとてと花壇の中へ消えていく。
「そ、総士、お前、いま――」
「猫に、僕に言えないような相談をしていたようだが、それはもういいのか?」
「……どこから聞いてた?」
「かなり最初から」
それなら声をかけてほしかった、と思いながら、細められた灰色の瞳を、ちらりと窺う。
「俺……、総士が、自由になって、自分をゆるして、何でも、好きなことができたらいいなって思ってるのは、本当なんだ。だけど――、俺、お前のそばにいたい」
矛盾していると思う。けれど、総士は大きく息を吐いて、「それは矛盾しないだろう」と一騎の髪をわしゃわしゃと撫でまわした。総士のほうから触れられることが滅多にないせいで、一騎は「へ」とまぬけな声を出してぽかんと口を開けてしまう。
「僕は、僕の好きなことをする。楽団はこのまま続けたいし、並行して、避けていたアンサンブルや、ソロの活動もしたい。いつかまた海外で公演する機会が得られるのなら断るつもりはないし、彼らとのカルテットも、いずれ、どこかで、できたらと思う。だが、それと、お前とともにいることが、どうして矛盾する? 僕の父と母は互いにばらばらの仕事をし、日本と海外を行き来していたが、ふたりが帰る場所はいつも同じだった。時間や国を隔てることで、お前の僕に対する感情は褪せるのか?」
「そ……っ、そんなわけないだろ!」
「そうだろう」
では問題ないなと言って、総士は立ち上がった。
――なんだこれ。なんだこの総士。総士って、こうだったっけ。
いや、こうだったのだ。
満足そうな顔で一騎に手を差し出してくる男は、日が暮れ、闇が迫る十一月の空の下でもまばゆく見える。
これが皆城総士だ。
一騎の知らない世界で、一騎の知らないひとたちの視線を、耳を、きっとたくさん、惹きつけてやまなかった人。
――だけど。
だけど、一騎の知っている総士も皆城総士だ。朝が弱くて、意外に人肌を恋しがる。おいしいものが好きで、お腹いっぱいがつがつ食べる。一騎の淹れる珈琲がなくては生きていけない。一騎が甘やかすとすぐ「だめになる」と困ったような顔で言うくせに、腕のなかから出てはいかない、かわいいひと。
それは、一騎だけの総士だ。
「そうし」
「なんだ?」
「……今日、お前の好きなもの何でも作るから、明日の朝、一緒に二度寝してくれないか」
いつも、一騎は総士の家に泊まるとき、総士が目覚めるより先に起きて仕事に出てしまう。けれど明日は店を臨時休業にしてある。今日の結果がどう転ぶとしても、総士のそばについていたかったからだ。
一騎のつくるものを食べてゆるゆると表情をくずす総士も、一騎の腕のなかで見せるおだやかな寝顔も、一騎だけのものだ。一騎だけがきっと、知っている。それを今はめいっぱい堪能したい気分だった。
「――……、の、のぞむ、ところだ……」
なぜか総士は、決闘にでも挑むような物言いで、顔を真っ赤にしている。どうしてだろうかと思いつつ、「よかった」と一騎はほほえんで、総士の手を取った。
「買い出し、して帰ろう。必要なものたくさんあるし」
「ひつよう」
なぜか固まった総士が、「そ……そっ……、そうだな……!」とぎくしゃくとうなずく。どうしたんだろうかと首をかしげるが、おとなしく手をつないでくれているから、嫌なわけではないのだろう。
つないだ手があたたかい。それだけのことがうれしくて浮かれていた一騎は、総士が自分の言葉をものすごく――海よりも深く深読みして、頭のなかで必死に処理しようと高速で思考をめぐらせていたことなど露知らず、今夜の夕飯の献立のことで頭をいっぱいにしていた。