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こどものまるまった背なが好きなのだ、と気づいたのは、こどもが自分の支えなしに、ひとりで座ることができるようになったころだった。
総士は一般的なこどもより、大きくなるのも、できることが増えるのも速いとは、まだ「あー」とか「うー」しか言えないころから診断されていて、首がすわるのも、伝い立ちができるようになるのも、とても速かった――らしい。なにせ、今まで赤子に接する機会などほとんどなかった一騎にとっては、比較対象がない。こういうものなんだろうな、と、あたりまえのように受け入れていたら、「お前のそういうとこ、いいよなぁ」と剣司に苦笑された。
父も母も持たず――竜宮島で生まれ育った一騎たちにとってそれは珍しいことではないのだが――自然的あるいは人工的な「受胎」を経ず、遺伝子をかけ合わせたわけでもなく、マークニヒトというファフナーのコクピットで産まれたこどもは、いのちに関して数々の禁忌をおかしてきた竜宮島の科学者たちにとっても未知の存在であった。
定期健診のたび、「経過を見るしかない」とすこし不安そうな顔で、剣司は言う。しかし一騎は、あまりこどもの特殊性そのものを心配してはいなかった。ただ、こどもがあまりに速く成長しすぎて、そのこころに見合わない重荷を背負わされたり、無邪気に駆け回る時間がすくなくなったりしてしまうことだけが、心配だった。
かつて皆城総士と呼ばれた一騎のたいせつな、たったひとりのひとは、おさないころから、おとなと同じ立場であることを求められた。自分のさだめられた道を歩むことを強いられて、それでもなお、自分自身でそれを選び直し、生き抜いた。彼のいきざまは、彼だけのものだ。だからこどもに、同じ道を行けとは言わない。かと言って、別の道を選べと言うこともない。決めるのはこどもであって、かつての総士を知るにんげんたちでもなければ、一騎でもない。ただ、より多くのひとと触れ合い、遊びまわって、今しかない平和を享受して、たくさんのおもいを、抱いてほしいとおもうのだ。それはいずれ、彼が何をもって生きていくか、選びとるための種となる。
だから一騎は、できるだけ、こどもの好きなようにさせた。そもそもこどもを育てたことなどないし、海神島に移住してすぐに産まれたこどもは総士だけであったから、まわりにお手本もない。逆に言えば、一騎の育て方に関してあれこれ物を言うおとなもいなかった。
いちばん身近な子育て経験者は史彦であったが、彼の育て方もまた奔放だというのは、息子である一騎が身をもって知っている。ミルクを飲ませたりだとか、おしめを替えたりだとかは史彦も手伝ってくれたし、なかなか堂に入っていたが、こどもが泣き出すと途端に「う…」と困った顔をして一騎を見るのであった。
真壁家の父子がそういったようすだったので、まわりのおとなたちはよく手を貸してくれる。特に行美や容子は、適度な距離感で一騎に助言をくれる。それは決して押しつけがましいものではなく、一騎はなにかわからないことがあると、ふたりを頼るようになっていた。
こどもと過ごす日々というのは、あたらしい発見がたくさんあって、ささやかなことで感情をゆさぶられ、あっという間に過ぎていく。平和な日々が長くは続かないものだと何度も身をもって経験している一騎にとって、いちにち、いちにちが、かけがえのない時間だ。
――からん、と、卓袱台に置いたコップのなかの氷が音を立てて、一騎ははっと目を開けた。
頬杖をついたまま、すこしだけうとうとしていたらしい。ふあ、と、ちいさく欠伸をこぼしてから前方を見れば、総士は一騎がまどろむ前と変わらず、縁側で背なをまるめて、いっしょうけんめいに何かを見ている。まるまったちいさな背ながかわいくて、愛しくて、一騎は無意識に頬をゆるめた。
総士は、この家のなかでも縁側が特にお気に入りだ。お絵かきをするのも、昼寝をするのも、一騎のへたくそな絵本の読み聞かせを聞くのも、必ず「あそこがいい」と縁側を指す。風が吹き、庭が見え、鳥や虫の鳴き声が聞こえる場所。家の内であって、外とつながるところ。こどもにとって、安心もできて、外への好奇心も満たされる、特別な居場所らしい。
そのままじっと総士を見ていた一騎は、徐々に身を乗り出し、今にもひっくり返りそうな体勢になってきたのが心配で、腰を上げた。過保護ではないと思うのだが、ちいさなこどもの扱いにいまいち慣れていないので、「危ない」という判断が甘い自覚はある。
「そーし、何見てるんだ?」
よいしょ、と、総士を抱きかかえるように背後に腰をおろして、こどもと同じように縁側の下を覗きこむ。総士は一騎を見上げて、「ありさん」と答えるとまた視線を落とした。縁側の下にある踏石の上に、蟻が列をつくっていた。総士はこどもらしく好奇心旺盛でいろんなものに興味を持つので、関心がころころと移り変わることは多いが、一方で集中力もすさまじかった。このようすでは、暫く動かないだろう。
夏間近の縁側には、庭の木々をとおしてまばゆいひかりが降りそそぎ、じんわりと暑い。しかし腕のなかに抱いたこどもの体温は不快なものではなくて、ここちよい。今日の予定はなにもないから、総士と一緒に蟻の行列を眺めていても問題ない。総士が飽きたら、夕飯の買い出しに連れて行こう。
そう、だから、今日は何もなければいい――そう考えながら、ふあ、と、もうひとつ欠伸をこぼす。どうにもまだ眠気が抜けないのは、数日前の戦闘のせいだろうか。
海神島の偽装鏡面もヴェル・シールドも、かつての竜宮島のように正しく機能している。迎撃システムも正常だ。ここには竜宮島のように「真実」を隠すべきこどもはおらず、敵の襲来があれば、あたりまえのようにおとなたちは防衛・戦闘態勢に入る。ただ、まだおさない総士は、ときどき自分が一騎と離され、シェルターに入らなければならない理由を正確には理解していないだろう。この島で産まれた他のこどもたちにしてもそうだ。
フェストゥムの襲来頻度は高くはなく、敵意を持つ群れであっても、美羽たちエスペラントの力によって遠ざけることができる場合もある。どうしても戦闘が必要になったときだけ、一騎たちに出撃命令がくだる。
そして何度か出撃したころに、一騎はかつての自分とは「ちがう」ことを理解した。
一定限度を超えると、一騎はからだごと、「消えて」しまう。正確には消えているわけではなく、眠りにつくのだ。
初めて眠りについたときのことを、一騎はよく覚えていない。本来ならば竜宮島のミールのもとで眠るべきからだは、海深く沈むそこへたどりつくことができず、彷徨いかけたらしい。それを引き寄せてくれたのは操であり、ボレアリオスのミールだった。
戦える限度も、眠りの期間も、安定しておらず、まちまちだ。海神島へ移住してからそう大きな戦闘は起きていないため、眠ってもせいぜい数日で目を覚ます。しかし、そのあいだ、一騎は戦力に数えることができないし、なにより、家を空けてしまうことになる。
一騎はすこし出かけているだけだよ、と、まわりのおとなたちは総士に説明して、面倒を見てくれている。けれど、一騎が家に帰った日の総士はぐずって、べったりと一騎にひっついて離れようとしない。不安がらせているのだろうと思う。だから、一緒にいられるあいだ、なるべく一騎は総士のそばを離れないようにしていた。
「かずき」
不意に、蟻に集中していたとおもっていた総士が、灰色の瞳をまんまるに開いて一騎を見上げる。なんだ、と、首を傾げれば、立ち上がってくるりと向きを変え、ぱっと両腕を差し出してくる。だっこ、の要求だ。立ち上がってようやく、座り込んだ自分と同じくらいの高さになるおさないからだを、ちいさく笑って抱きしめる。膝の上に乗せるように横抱きにすれば、ぎゅう、とちいさな手が一騎のシャツの胸元をにぎりしめた。蟻に集中していたはずなのに、どうしたのだろう。
「どうかしたのか、総士」
今日は甘えただなぁ、と言いながら背中をやさしくたたけば、総士はぐりぐりと胸元に額をこすりつけてくぐもった声を出した。
「…かずき、どこにもいかない?」
それは、一騎が家を空けるようになってから、何度も総士がくりかえしていることばだった。帰ってきて数日、もう落ち着いたとおもっていたが、一騎がぼんやりと考えごとをしていたせいで、不意にさみしさと不安がよみがえってしまったのだろうか。こどもは妙に、おとなのこころの機微に敏い。
「どこへも、行かないよ」
瞳をみつめて額をくっつければ、泣きだしそうだった顔が、ほっと、安堵の表情に変わる。指どおりのよいさらさらの髪を撫でてやれば、甘えるように縋りついてくる。
――もしも。
もしもいつかどこかへ行ってしまうとしたら、それは自分ではなく、総士のほうではないか、と一騎はおもう。穏やかでしあわせな日々が長く続くことは、きっとない。もうその片鱗は見えている。
一騎が一騎自身のためになにかを選んだり求めたり、どこかへ行ってしまうことなどもうなく、一騎は総士を導くためだけにここに在る。総士が選ぶものによって、一騎の在り方は変わっていくだろう。一騎だけでなく、この島も、竜宮島も、もっと大きな世界の流れさえも。
ちいさなからだが負うものを考えると、今この瞬間、自分の与えられるものはすべて、与えてやりたいとおもう。いつかこの日々が遠くなったとしても、ぬくもりと、愛された記憶が、どうかこの子のなかに、愛しいものとして残ってくれるように。総士が総士自身の望む未来を手に入れるための種に、どうかなりますように。
おもわず強く抱きしめると、腕のなかのこどもが、もぞもぞと動いて、顔を上げる。くるしかったのだろうか、と思ってすこし腕をゆるめると、ぺち、と、ちいさな手が頬に触れてくる。
「あのね、かずき」
「うん?」
「ぼく、かずきがわらうと、うれしいよ」
――泣きそうな顔を、していたのかもしれない。
こどもの言葉にはっとして、一騎は、敏いこどもの手を握り、額をくっつけ、くしゃりと破顔した。
「…おれも、そうしがわらうと、うれしいよ」
一騎のこたえに、へへ、と、こどもはうれしそうに笑う。
どれほど短い安息の時間であってもいい。
今このまたたきのあいだに、しあわせと言えるものは、確かに存在しているのだ。