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夜勤から戻ると、玄関の扉は開いていなかった。
家のなかはしんと静まっていて、ぎしぎしと音を立てて進んだ廊下の先、居間の襖は昨日、家を出るときに開けたままの状態だった。それだというのに、史彦はなぜか、確信をもって居間に入り、そこから外に続く縁側を見やる。
朝のひざしがふりそそぐそこに、柱に凭れるようにして腰をおろしたこどもの背ながある。ゆっくりと肩は上下していて、眠っているのだと知れる。一体、いつの間に帰ってきていたのだろう。起こすか起こすまいか、迷って、史彦はしずかにこどもの隣に腰をおろした。
ちいさく「一騎」と呼んでみるが、反応はない。一度は短く切っていた黒髪が今は数年前を思い出す程度に伸びていて、白い頬と首元にかかっている。前回、家に帰ってきたときは真っ黒なアルヴィスのコートを着たままここで寝入っていたが、今日は見慣れていた私服に着替えている。夏なのに暑いだろう、と言ったのを覚えていたのだろうか。
玄関を開けていなかったことを考えると、そこから帰ってきたわけではないのだろう。ひとではないものたちと同じちからを手にしたこどもは、ほとんどの時間を過ごしているボレアリオスと呼ばれるミールの
一騎が慈しみ育てていた皆城総士というこどもが攫われ、探し続けてもう三年近くが経つ。
エスペラントや島のコアの探索もまったく成果を上げられず、当てのないそれに島の少ない戦力を外へ派遣し続けることもできず、結果的に、一騎と甲洋、操の三人がボレアリオスを伴って世界中をめぐっている。
一騎はかつてのように同化現象と生存限界に苦しめられることはなくなった。しかしその代わりのように、ファフナーに乗るたびにあらゆるものとクロッシングし、多くの痛みをその身に負い、一定期間の眠りを繰り返すからだになってしまった。つまり目覚めているあいだはほとんど、戦いに身を投じている。
そして、眠りを繰り返すたびに、「こころをなくしていく」という。
だんだん、たぶん、何も感じなくなるんだろうな、と、我が事であるのに他人事のように一騎は言った。
「こころっていうものが、本当はどういうものなのか、よくわからないけど、来主は、空が綺麗だって思えなくなるんだ、って言ってた。だからたぶん、料理が楽しいとか、飯が美味いとか、そういうのも、なくなっていくんだろうな」
――それでも、選んだのは自分だ。
一騎は、こわいとは、言わなかった。こころを失っていくことを、おそろしいとは、言わなかった。ただ、「俺が飯を作れなくなったら、本当に遠見先生の所に行くの、考えろよ」などと言うから、もうずいぶん大きくなって――けれど二十歳の姿のまま変わることはもうないこどものからだを、思わず抱きしめた。胸にあるおもいを言葉にするのも行動に現すのも史彦は不得手であったし、一騎を抱きしめたことなどまだほんの小さなころと、あの北極での蒼穹作戦のあとくらいだった。ゆえに、腕のなかの一騎も「なっ、なんだよ?!」と慌てて戸惑って暴れたが、史彦も自分の衝動的な行動にはっとしてすぐに離れてしまった。
それでもまだ覚えている。ちいさなころと変わらない、ぬくもりと、愛しさ。
すうすうと寝息を立てているこどもが目を開けるとき、史彦はいつも緊張する。
一騎のこころはまだここにあるだろうか、まだ、父と呼んでくれるだろうか、と。
一騎たちが島を出たのは先月だった。
ボレアリオスが港に着いたのは知っていたし、こどものように無邪気なコア――操が容子のところへ飛んできて「容子ぉ?カレー食べたい!一騎も甲洋もまだ寝てて作ってくれない!」と駄々を捏ねていたので、ふたりが目覚めて島に降り立つのはもっと先だと思っていたのだ。
一騎が戻ったということは、甲洋も目覚めているのだろう。そのうち彼から報告が上がってくるにちがいない。――結果が芳しくないのは、既にわかっているけれど。
島にとって皆城総士はたいせつな存在だ。必ず取り戻したいというおとなたちの思いのうち、故郷に帰るために彼の存在が不可欠だという事実が多くを占めている。史彦とてそれは否定しない。かつて一騎の隣で生きていた、同じ名をもった存在もまた、竜宮島という島を維持するためにみずからの多くを犠牲にしていた。そうであることを、産まれたそのときから――いや、産まれる前からおとなが強いた。それを彼は受け入れ、みずからで選んでいのちを全うした。だが彼や、島のコアとして生きた彼の家族が、ふつうの暮らし、ふつうの家族、ふつうの日々を望んでいたことを史彦は知っている。
一騎が誘って、総士がたびたび家に泊まるようになったころ、三人でおなじ食卓について、美味そうに食事をして、――朝方覗いた一騎の部屋、ふたつ敷かれた布団から手を伸ばして、なにかに縋るように互いの手を握りしめて額を寄せていたこどもたちを、史彦は知っている。
一騎は「島のために」とか、誰かのために、総士を探しているわけでは、きっとない。ただあの子を、不意に奪われてしまった愛し子を、取り戻したいのだ。――否、それすら史彦の思い込みなのかもしれない。取り戻すというそれは、一騎や史彦の視点の話でしかない。
一騎はきっと、総士がみずから生きる場所を選ぶことを望んでいる。
そもそもフェストゥムたちに攫われた総士が同化もされずに生きているのか、という懸念はある。だが、一騎がただひたすらに彼を探し続ける姿を見るたび、「生きている」と史彦は思うのだ。それはかつて、今は遠くなってしまった日々のなか、肉体が失われた総士を待ち続けた一騎を見ていたころに感じていたものに似ている。
一騎が総士を想っている。諦めていない。ならば総士は、この世界にいる。
なんの根拠もないのに、それ以上に信頼できることなどこの世界にはない、と、史彦は思う。
そして史彦もまた、島のためにという想いとは別に、ただあの子に――総士に、無事に帰ってきて欲しいという想いがある。
かつての総士を知っているからこそ、新たないのちを得た彼には、彼自身の選択によって、未来をみさだめてほしいという思いが、ある。
司令としては正しくないのだろう。これは、かつて一騎に対して抱いていた想いと同じだ。どれほど短い時間でも、おさない総士と家族としてともに暮らした日々が史彦のなかに今もあたたかく残っていて、あの子に、あの子自身の幸せを見つけてほしいと、思ってしまう。
「土に触れても歪まない方法を知りたいって、あいつは思うのかな」
まだあの子がいたころ、不意に一騎が零したことがある。それはかつて史彦が一騎に言った言葉だった。ファフナーに乗ることを命令する赤紙が届いたとき、もしも本当に嫌なら、どうにかしてやるという意味で伝えた言葉。一騎はそれを、覚えていたのだ。そして、自分の育てる子に、同じことをしてやりたいというおもいを抱いている。
こどもはすっかりおとなになり――親になった。強いられた運命が足元に絡みつき逃げられないこどものために、もしもそれが正しくない道だとしても、行き着く先が平和でないとしても、自分ができることはしてやりたい。恐怖をとりのぞき、痛みから遠ざけ、守ってやりたいと願うようになった。
だがそれはあくまでも、こども自身が望むならば、だ。
史彦は身をもって知っていた。どれほど親が手を伸ばしても、こどもはこどもの意志で死に近い道を選び、危ういほど真っ直ぐ突き進んでいってしまうことを。
一騎も総士に対してそう、感じていたのかもしれない。
もしもあの子を取り戻せたとき、あの子は、何をおもうだろう。この島に眠るあの子の器を見たときに、それが運命なのだと知ったときに、それでもなお――選び抗う道があるはずだと足掻くだろうか。ただ彼を運命の道へ
視界の端、庭の片隅には耕されたちいさな畑がある。一騎と総士がふたりで何かしらを植えては収穫を楽しみにしていた場所。その脇の花壇にはひまわりを植えて、種を集めた。蟻の行列を眺め、ダンゴムシを手にいっぱいつかまえて、縁側で背なをならべ、へたくそな一騎の絵本の読み聞かせを、それでも「かずきのこえがすき」と、きゃらきゃら笑って聞いていたこども。名もない鼻歌をふたりでつむいで、おかしそうに顔を見合わせて、ひとしきり遊んだあとは、だっこして、とねだった、甘えただったこども。おじいちゃん、と初めて呼ばれたとき、なんとも言えない顔をした史彦に、「だって、そうだろ?」と楽しそうに笑ったこどもと、こども。
もうあのころのように、三人でちいさな卓袱台をかこんだころのように、笑い合えることがないのだとしても――それでも、どこかで生きていてほしい。笑っていてほしい。しあわせで、あってほしい。
「ん……」
空気が震えた。
はっとして横を見れば久方ぶりに見る榛色のひとみが、朝日にまぶしそうにぱちぱちとまたたく。
「一騎」
すがるような、声になったかもしれない。遠くへ行ってしまいそうなこどもが、ここにいることを確かめたくて、つなぎとめたくて。
「………………、とう、さん」
――ああ、まだ、呼んでくれる。
くしゃりとゆがみそうになった顔に笑みを浮かべて、まだ眠そうなこどもの頭を撫でるように叩いた。
「おかえり」
「……ただいま」
ほっとしたような顔をした一騎は、しかしすぐに表情を曇らせた。探索の結果が芳しくなかったことを、思い出したのだろう。
「また……見つけられなかった」
「……次に賭けよう。大丈夫だ、必ず見つかる」
史彦の言葉に、ああ、と、頷いて一騎はぼんやりと視線を庭へやる。その瞳が何を見ているのかはわからない。けれど、毎回帰るたびに必ずここで、縁側で眠っている一騎を見つけるたびに、総士との思い出が色濃く残る場所を、無意識に選んでいるのだろうと思う。
史彦はひとつ目を伏せ、「ほら、朝飯にしよう」と一騎の肩を叩く。
「父さんはお腹が空いた」
「……俺はいい。父さんのぶんだけ、」
「ひとりで食べるのは味気ないだろう」
「味気ない……」
一騎は、そういうものだろうか、という顔をする。以前であればきっと、「ちゃんと米炊いたか?何が食べたいんだよ」と言いながら自分の好きなものや史彦の好きなものをあれこれ考えながら台所に立っていた。
一騎がみずから食事を望まなくなってしばらく経つ。今のからだには必要ない、と言われれば確かにそうなのだろう。けれど、総士がいたころ、一騎はそんなことは決して言わなかった。美味しいな、と言いながら三人で食卓をかこんでいた。
食事だけではない。島で暮らすこと、人と触れ合うこと、そういうものから一騎は徐々に距離を置いている。――無意識に、望まなくなっている。
こころ、というのがどういう形をしているのか、何をもってこころと呼ぶのか、史彦は知らない。けれど、かつての総士がそうであったように、人のなかで、人とふれあい生きることを望むおもいが、こころによるものなら、ぬくもりを求め、笑いあい、必要や不必要という基準ではなく、おもいのまま行動することがこころによるものならば、一騎はそれを、失いつつある。
「……一騎」
ぐい、と、史彦は一騎の腕を引いた。細い腕だ。何を食べても食べなくても、もうそのからだに変化が起きないのだとしても、史彦のエゴにすぎないのだとしても、まだ一騎にこころを失わせるわけにはいかない。ひとのなかで生きることを、諦めさせるわけには、いかない。一騎は史彦の息子であり、そしてなにより、総士の親なのだから。
「いっしょに朝飯をつくるぞ。父さんは味噌汁をつくるから、お前は出し巻と、おひたしだ。米はちゃんと炊いてある」
腕を引かれるままに立ち上がった一騎は、きょとん、とひとみをまたたかせ、そして、かすかに笑った。
「ちゃんと、研いだ米だよな?」
当たり前だ、と答えながら、史彦はしばらくのあいだ、一騎の腕をはなすことができなかった。