――お前は、やっぱりそうなんだ。
 頭のなかに響く聞き慣れた甲洋の声に、何がだと問い返すことはしなかった。かつて暮らした懐かしく愛しい島の景色をそのまま模倣した、フェストゥムたちの島のなかで、三年ぶりに話したこどもの声がまだ耳にのこって、愛しくて、せつなくて――一騎はずいぶんと久しぶりに、こころがちゃんと自分のなかにあることを、そのかたちを、意識した。

 少年らしい好奇心に満ち溢れた表情と、こどもらしい無邪気な声。危ういほどの無防備さと、行動力。平和な世界で暮らしながらも、知りたいと、教えてほしいと、そう乞うた声はあまりにも真っ直ぐで切実だった。
 知りたいのなら教えよう。知らなければ、なにも選ぶことはできない。自分にとって何が大切で、何がほしいのか。どうしたいのか。どこへ行きたいのか。意図的に、恣意的に、隠された世界では選ぶという自由すらない。かつて一騎たちもそうだった。知らないからこそ平和で穏やかな世界に暮らしていた。けれど、知ってしまったときも、戦うという以外に選択肢はなかった。選ばせてもらえなかった、という感覚はない。選んだのは一騎自身だった。総士とともに戦う。どんな理由であれ、あのときの一騎はみずからの意志でファフナーに乗った。戦わないことは、ただ怯えて過ごすことを意味した。そしていずれ、島もろとも消えてしまうことを意味していた。
 けれど、こどもにとっての世界は、かつての一騎にとってのそれとはちがう。
 フェストゥムにも人間にも「敵」がいる。人間と対話するフェストゥムがいれば、人間同士で対話ができず、争うしかないこともある。一騎たちのように、人間でもフェストゥムでもない存在も生まれた。脅威だった存在との境界線は揺らぎ、まざりあい、「敵」と「味方」の区別は、見た目や、産まれ方や、からだを構成する物質や、属する群れだけでは判断できなくなった。
 何も知らなかったこどもは無垢でまっしろだ。海神島で一騎たちと暮らし、偽りの島でフェストゥムたちと暮らしたこどもは、人間とフェストゥムという概念も、これまでの争いも、犠牲も、何も知らない。そんな彼の前にひらかれた世界は、彼にしか見えない世界だ。彼にしか、選べないものがきっとある。
 こどもが外へ出るために、すべてを知るために、たとえ怒りをぶつけられても憎まれても構わなかった。
 ――こころがないほうが、きっと楽だったよ。
 甲洋の言葉にはそんな意味が込められていたと、知っていた。
 お前はやっぱりそうなんだな。こころを忘れて総士に接することができない。失うはずのこころを、総士にだけはむけてしまう。それはきっと、苦しいよ。
 ――わかっていた。けれど、自分にはどうしようもできない部分で、総士を見た瞬間、その声を聴いた瞬間、しずまっていたこころは脈うち、総士にむかっていった。
 愛しい子。たいせつな子。ともに過ごした日々を忘れてしまうことなどできるはずもなく、どれほど苦しくても、痛くても、ただこどもがそこに存在していることが、生きていることが、どうしようもなくうれしかった。


       *


 ――殺してやる。
 ――僕に触るな。

 こどもの声が脳内に反響したまま、一騎はふと目を覚ました。
 総士を取り戻して、一体、どれくらい経ったのだろう。どれだけ自分は眠りについていたのだろう。北極のボレアリオスの上で、美羽たちに総士を託したところで記憶は途切れている。多くの痛みを背負った自覚はあった。そうなれば、いつもよりも多く、眠りに時間を要したはずだ。
 あたりを探ってみると、甲洋と操の気配がない。すぐそばに海神島のミールの気配があって、眠っているうちに帰ってきたのだということを知った。ふたりはきっと、島へ出ているのだろう。他のフェストゥムたちの気配はないから、島は戦闘状態にあるわけではないらしい。
 ふと、わずかになつかしい鼓動を感じ、けれどかつてのものとはまったく異なるそれに、こどもが、眠っていた器を目覚めさせたのだと気づく。
 ――そうか、乗ったのか。
 わかっていたことだった。あれは総士のもので、使うも壊すも総士の自由だ。選ぶ権利は彼にしかなく、選ぶためには手にするしかない。力の残滓を感じながら、一騎はおもわずかすかな笑みをうかべた。
「やんちゃだなぁ」
 ちいさなころに見せていた片鱗は変わりなく、それがとても愛しくて、自然にくちもとはゆるんだ。ふしぎだ。こんな感覚はひさしぶりで、自分でもおどろいてしまう。
 そのままふと目を閉じて、慣れた感覚に身を任せながら、からだをそのまま島のなかへ移動させる。一瞬で景色は変わり、見慣れた自分の家のなかへ降り立った。あたりを見回してみるが、史彦はいないようだ。まだどこかぼんやりとしたまま、いつものように、一騎は開け放たれたままの縁側へ腰をおろす。一騎が目覚めたことを操や甲洋は察しているだろうから、今までの顛末を伝える必要があれば、彼らか史彦がここへやってくるだろう。みずから島の中や、アルヴィスの内部へ行く気はない。一騎たちの特殊性を知ったうえで受け入れてくれるかつての島民たちもいれば、得体のしれない存在におそれを抱くひとだって、当然いる。総士とともにいたころにはそれでも、彼の親としてひとびとのなかに暮らしていたけれど、今はもう、それすら遠い。
 庭には、小さな花がいくつか咲いている。自然に生えたのではなく、植えられたものだろう。その花の名を一騎は知らず、そういえば、今、季節はどこをめぐっているのだろうかとおもった。ひととして暮らすことが遠くなってから、そんなことを、気にすることもなくなっていた。それなのに、総士と植えたひまわりはきれいだったとか、あれはまだ、今も、咲いているのだろうかとか、そんな「記憶」が一騎をしめつける。記録された情報としての過去ではなく、想いをよみがえらせる「記憶」。まだここにはそれがあるのだと、一騎はそっと目を伏せた。

 風の音。鳥の声。ひざしのあたたかさ。遠い潮のにおい。
 ここを陣取って、はしゃいでいたこどもがすきだったもの。
 内と外をつなぐばしょ。
 一騎の庇護のうちにありながら、ずっと、外への興味に手を伸ばしつづけたこどものすきだったばしょ。


 ――ぬるいまどろみのなか、ざり、と、砂を踏む音がする。
 

 怒り、憎しみ、かなしみ、戸惑い――感情をおさえきれないこどもの気配。



 ――ああ、おかえり。



 決して言葉にはならないそれを、瞼を伏せたまま、一騎はこころのうちでささやいた。