皆城くんは上機嫌




 最近の総士は、朝、とても機嫌が悪い。――いや、悪い、というか、機嫌の良い悪いをあまり表だって出さない総士が洗面所の鏡の前で自分のすがたを睨みつけて何度もため息を吐いているために、一騎が勝手にそう思っているだけだ。
 春の終わりに数日続いている、じめじめとした天気が総士の不機嫌のもとらしい。もっと根本的に言えば、最近くせが出はじめた髪が、湿気のせいでより思うようにいかないのが、原因らしかった。
「……かわいいんだけどなぁ」
 腕のなかで、未だ夢のなかをさまよっている総士の髪を撫でながら一騎はつぶやいた。
朝日はとっくに昇っているはずだけれど、しとしとと雨粒が窓をうっていて、今日も太陽をおがめそうにはない。髪のことだけに限らず、そもそも総士は雨の日が苦手らしく、互いに仕事のない日は、どちらかの部屋で惰眠をむさぼることも多い。
時刻はすでに九時近く、いつもの総士ならば休日でも起きている時間だった。一騎はもっと早くに起き出し、仕事へ行く史彦へ朝食をつくって出し、自分のものと総士のものへラップをかけてから、二度寝のために布団へもどってきたのだった。
さらさらだった総士の髪は、今も指どおりがよく、触りごこちもよいのだけれど、ところどころ波打っている。特に総士が気にしているのは前髪らしく、前のようにうまく左に流せないのが、もどかしいらしい。
 だが一騎からすれば、以前のようにストレートでさらさらの髪もかわいかったけれど、今の、ちょっとふわふわとくせがあって、総士の輪郭をやわらかく見せるような髪もかわいくて、とてもすきなのだ。だから、できれば総士にとっても、ストレスを感じるものではなく、好ましいものであってほしい。
「うーん……」
 唸りながら、一騎のほうを向いて眠る総士の前髪をそっと掻きあげる。総士は起きる気配もなく、すうすうと寝息を立てている。さらされた白い額がかわいいな、と、そう思ったところで、「あ、そうだ」と一騎はぴんときた。

        *

「お前は、こういうのが得意だったか……?」
「クリームソーダと引き換えに、鏑木に聞いた」
 そのクリームソーダはなぜか里奈のものになっていたけれども。
 一騎は鼻歌でも歌い出しそうな顔で手にワックスを広げ、鏡のむこうで何とも言えない顔をしている総士の髪に触れた。
――楽園にちょうどやってきた生徒会のメンバーのなかに、家が美容室である彗を見つけ、「ちょっと相談したいことがあるんだけど」と持ち掛けたのは昨日のことだった。彗は母親のやっている美容室にあまり出入りはしていないようだったが、持ち前の器用さと頭脳による知識もセンスもあったから、「総士の髪をこういうふうにしたい」と一騎が抽象的に伝えたものをわかりやすく言葉と図にしてくれた。
一騎の家の洗面台は少々狭いし座るところもないので、仕事帰りの総士を待ち伏せして、総士いわくコンパクトなバスルームの手前にある洗面台の前に椅子を置いて、一騎による総士の髪いじりは始まったのだった。
総士の前にまわりこんで、いつも目元を覆うように左側に流されていた前髪を真ん中寄りでわける。一騎のすきな額がすがたをあらわし、その下で、ぱちぱちと総士が目をまたたかせている。長いまつげも髪に近い色をしていて、蛍光灯のひかりに透けるのがきれいだ。隠してしまうのはもったいない。
前髪が整ったら、背後にまわって長い髪をまとめる。総士は今まで髪の下のほうでひとつに結っていたから、「そうしお兄ちゃんの髪ってエビフライみたいだね」と美羽に言われて微妙な顔をしていたこともあった。あのしっぽみたいな髪が一騎は大のお気に入りだったのだけれど、あの位置で結ぶのは、髪が伸びるほどむつかしいだろうし、くせが出てくると、うまくまとまらないだろう。だから、総士の髪のふわふわとした見た目は活かしたまま、肩よりすこし下のあたりでゆるくまとめる。腰近くまで伸びている残りの髪はくせを活かして軽く巻くようにして、完成だ。
「どうだ? 嫌か?」
「……」
 いままでと違う髪型になった総士は、きょとん、と、鏡のなかの自分を見ていた。気に入らなかっただろうか、と、一騎が不安になるくらいの沈黙が流れたのち、総士がじわじわと頬を染めて、額に手を当てる。
「……なんというか」
「うん?」
「その……、今まで隠れていたところが出るのは、居心地が悪い」
「嫌ってことか?」
「い……、嫌では、ないが……」
 なるほど、嫌ではないということは、単に恥ずかしいのだと一騎はただしく理解した。そういえばこどものころから、総士は額を前髪で覆っていた。慣れないのだろう。
「ほら、俺といっしょだから、恥ずかしくないって」
 常日頃から額を出している一騎が自分のそれを指さすと、「それはそれで……」とかなんとか総士は言って、そっと自分の額から手を離し、もういちど、鏡を見た。そうして、じっとよっつの灰色のひとみは視線をかわし、またたき、総士の手は今度は額ではなくて、左目の下に触れる。くっきり残った一条の傷は、肉体を再生させた総士が、視力を取り戻しても、消さなかった傷だ。左側に流れていた前髪で隠れがちだったそれが、今ははっきり見えている。
「……いや、」
「ん?」
「いいな、これは」
 総士が、ちいさく笑う。やっぱり気に入らなかったのかと思いかけていた一騎は、ほっとすると同時に、首をかしげた。総士はいったい、何がそんなに、気に入ったのだろう。恥ずかしいという表情はすっかり消えて、どちらかと言えば、うれしそうに目を細めている。
なにかを確かめるように傷痕をなぞっていた指先が、背後の一騎に伸ばされた。腰を引き寄せられ、総士の顔が胸のあたりに押し付けられる。
「総士?」
「明日からはこれだな。どうしたのかと言われたら、一騎にしてもらったと言っておこう」
「なんかそれ、ちょっと、くすぐったいな」
 うれしいけど、と、そう一騎が言うと、総士が見上げてくる。分けられた前髪は、額が見えているせいかちょっと幼げで、しかし怜悧な目元が露わになったせいなのか、おとなびても見える。機嫌の良さそうな表情に胸がむずむずして、一騎は身をかがめると、さらされた額にくちびるを寄せた。すこしだけ、髪につけたワックスのにおいがする。ほとんどにおいのないものを選んだのは、総士の髪に顔をうずめた時の、彼自身のにおいがすきだからだ。
「かずき」
 めずらしく、隠してもいない甘い声が一騎を呼ぶ。どうやら総士は、本当に上機嫌らしい。長らく総士を困らせていたくせ毛問題が解決したからだろうか、と、総士の真意とはかみ合わないことを思いながら、一騎はやわいくちびるを重ねる。



 総士が鏡を見るたびに、満たされたように傷痕を見つめていたことを、一騎はずっと後になって知るのだった。